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遊び 

 くどい話を聞かされるほど私の神経は穏やかではない。神経の興奮が口角をつり上げたり眉間のシワを操ると考えると人間は神経の操り人形のよう。面白きことなきこの世の中におもしろきことをと面白くないことを言った人物の名称を答えよ。いじめもほどほどに、世界の笑い者、つまらぬことを言ったがために教科書に載せられ子供の笑いの種。笑止千万なる世の中、という人物の孤独な一人笑いに閉口する相対的に一流な真面目人。いかなるとこへ行ってもそこを楽園と思わばそれを才能と銘打ち拍手して自らの菲才をひけらかし金にするものたち。我はどこへ行くのかと心配してくれる人もなきこの世に、我を心配してくれる人を望む心の卑しさ。その老獪な心のかたくなに、自らが親となれば立派な親のお面をかぶり、子のためと言っては殴る蹴るの暴行に、挙げ句の果てには責任放棄の自由を与えられ親に騙される子供たち。世界といったところで私は世界を知悉しない。世界という語が私に何を意味するのか記述する必要もなかろう。私の世界は記述できぬ。世界は私と共に滅ぶだろうか。水平線に沈む夕日を見ること少なく、感情の起伏は若さから引き剥がされ早熟へと駆り立てるのか。何故無鉄砲さを若いというのか知らず。若いとか年老いているとかの表面に現れる性質を見出される。それを真に受ける私はいかにも言葉を疑いもせずに受け取って解毒剤を必要とする。

 わたしのないめんをとろするにもあとからあとからいいたりないところがばかりがめだってきてわたしのないめんはまったくながれることなくわたしのなかにたいりゅうしてわたしはいったいどうしてそうおもうにいたったのかをかんがえようとするのもよしてはやくこのふかいなげんじつからのがれたいとおもっていてもあきらめはんぶんのきばらしにこうしてぶんしょうをかいてなにかしゅげいのようなかんかくにぼっとうすればよのうさばらしにもなろうとおもいとじこもればますますいんえいふかくわたしのないめんはそとをもとめてあおぞらにこがれことばをひつようとす。

 

病院は病人を、学校は無学の徒を、会社は無能な人間を量産し、優れたる人間は世にはびこる醜悪を離れて何処へ消えたという。

近頃の子供、子供である得策を忘れず。悩み考えることもせず。携帯片手に忘れた記憶をほじくり返しては食べて暇つぶし。鼻くそ食べる子供の姿によく似る。この国の未来は暗いという時一人の人間には嬉しさが込み上げもしよう。国滅びて山河あり。

さて、私は身分を明かすか。私が何者であるかを知りたがるとすれば、すでに私の言葉は言葉としての力を失う。私を判断するのになぜ身分が必要であろう。身分こそ私を拘束する力あるものとして存在するくわであるように思うのか。だれが私の身分を明かそう。弱みを見せよう。言葉は人なり。

街を歩く

 春風、体に不快な温かみを帯びて髪に吹き付ける。春の陽気に生身の体臭を漂わせて。丘を下る。黄色い踏切に黄色いかばん。君は容易に彼らに殺されうる存在になろう。取り入って虐げられ踏みにじられる。日本もおかしくなりました。私は物を考えるのか。意志は何処に。目には見えねども感じられはせぬか。何処にあろうか。感じられもせぬ。我を感ずる事態を避けたい。我は悲しみに沈み込み悪臭を放つ。我に近づくもの皆心身を汚される思い。我が我を一番に憎む。我の中の他者よ。我は我を他者を通じて感じる。我は直接に我に到達できぬのか。道徳とは我が我を感じるための我に設けられた通路。我は道徳の市場にて売られている。欲望が不快の塊を総決算したあとに出てくる。体には合わぬ劇物も欲望になりうる。治るという欲望に。我の顔は強張る。肩には力が入り、体の筋肉は硬直するは、まるで意識ある死人。死んだまま生きるという長生きの秘訣。延命装置。命とは心臓の鼓動であろうか。然り。一切合切を捨て去る無理。無理は禁物。焦りは一生の恥。

 私、そこには孤独がある。断絶がある。他者を排除してまでも自らを立てなければならない衝動がある。その衝動の正当性を自らを証明しようと躍起になりもしよう。その矛盾に挑む煩わしさを捨て去り風の中髪をなびかせ遠目に海をながむる。

 私、と書く時、私は孤独で私は一人。私を支えるのは私で私を突き放すのも私。私が思う時、そこには他者も同じように共感してほしいという願いと、共感するに違いないという確信がある。確信は傲慢とさえもいえる。傲慢さとは責任となんら変りない。我一人舞台に立つ時客の拍手を信じる傲慢さであり、願いも混交しついに叶う。

 私の前に道があるわけではなし、私はただ広い野山を駆け巡り綺麗な花を見つけては喜ぶ。その花の寒空の下に過ごす晩を思い、ついに風に引きちぎられ空飛ぶを夢見るは悲しげ。

 私というとき、私は私以外の他者の現象から産まれる私をなんとなく感じる。私は他者との差異である。私とは何か。性格ではない。私とは何か。この執着。私は私を感じる方法を見出す。私が死んでいると零す者がいようとも私にどうすることもできぬ。できるとしてもお節介、ただ私が他者の願望を実現するほかない。私は他者の願望を実現させれば他者はそれを与えられたと自覚し私を欲するだろうか。私は皆のために死ねるか。死ねるとすれば、私はもう死んでいるのではないか。

 池田晶子、さて、死んだのはだれか。

記憶

 記憶をたどり記述する作業に写実的要素のある内を言い争ってそれは、客観的であるように見せているに過ぎず主観を客観と偽り大衆を巻き込み自らの考えのなさを他人の考えを借りて口述試験する毎日にうんざりとしないわけにはいかないのだろう。物事を考えるよりもまず皆と口を揃えて社会問題を問題化するのに躍起になり役職を与えられ問題が人間を集団化させ敵を作り出し集団の拡散と集中力の低下を防ぐ。一人でするより集団で物事をすれば効率よくひとつの利益を得ることができるがそれが誰の利益なのかわけもわからずとりあえずもらったものをありがたがる感性を持てば何をされても怒ることなく。怒ることなく静かに笑っていられるだろう。即ちは、我が感性の詩を予感したとしても我は静かに笑その予感の絶望をおくびにも表へ出さずに、否、出すこともできずに身を崩してつちに帰るか風に舞う我が骨の塵に魂は何処へ。

殺される夢

 今朝は殺される夢を見た。ある男が私が好きだった女を殺した。誰かもわからない。警察は相変わらずだ。犯行予告の生命が出た。オレンジ色の服着た男が殺されるという。いな、殺すというので、みたところ自分の着ている服がオレンジ色だ。これは大変と着替えるわけには行かず、そういった知恵は夢を冷めてから冷静なった時に思いつくとんちで、自分が狙われているとは露も知らず、なぜかといえば、確かに着ている服は犯人が殺しを予告している色の服ではあったが、人相はといえば、違っているように思えたからだ。そこで、何も知らぬところへ行き。夜中を自転車で走って犯人に出会う恐怖もありながら深夜徘徊といったところだった。すると、旧友が来て話すことに。あいかわず同級生は私と話さず情報を聞き出すのも癪なので無視していた。犯人は急に現れた。まるでドコデモドアのように。ドアというドアの向こうに犯人がいるようだ。一度、こちらに来る影が見えた。大きくなって、ついに私たちは殺された。なんと面目ない。しかし、私自身はその場にいて殺されたるは3名を聞いて、私も含まれていることがわかった。ある男が棺桶が見えるといった。私は好きだった人の顔を見たいと思ったのだろうか。妙に興奮した。死んでいると感じているだけでも何か妙な興奮があったが、それも胸に動悸がするようなものでもない。とりあえず、私はどこかへ向かったのだ。そうだ、どこへ向かったのかしれない。僕の勝ちがテストの点数であるとするならば僕はおそらくは貧しい人間であったから私は今ここにいて滋養しているように思われてきてならない。夢占いによると殺される夢は再生を意味するらしい。ユングも夢の集合知を集め夢の持つ意味が無意識に集団内に共有されるある種の身体を保護する拘束具を見出したのかもしれない。春に向かい植物は冬の寒空知らずめを出しうららかに何も知らない顔に向くの笑顔を浮かべ春風に揺られる。どうすればよかろうかと途方にくれた寒空も乗り越えた草たちは枯れて死んでしまった。栄養分を蓄えた土の上にて耕され大きく育ち花は目を出すのである。

 かくかくしかじかなる訳によりやる気に火をつけられ動くは、稀なり。自らのやる気のなさを一層あらわにし見つめる格好の機会であるより他はなし。もしくは、やる気を買われるようなことも買う相手の主従関係を表に示す習慣からくるものなり。やる気などにかかわることは避けて自ら体を動かせば自然と意は後から付いてくるものなり。とぼとぼと付いてくるよりも、我先にあらんとした顔で意が付いてくるものなり。行為に理由を求める精神が、行為より以前に意のあらんことを欲するためである。その心は、相手を意によりいかなる行為をする主体であるか見極めようとする合理に基づいており、また、契約書なるものの履行を求める際にも意は、行為の人質となり不履行なる際に意にその責任を課しさらに行為させるのを求めるためなり。意は、行為の前になし。行為と意が同居することが習慣なり。習慣をつけるにまず意を先に求めるのは失敗の元であり、はじめはその虚妄に疲れて行為するも後々になって行為の前なる意の虚妄が力を失い行為をするにまた別の虚妄のかたちした意を誰かにより与えられそれを我が物にし行為するなり。誠に、意の本質を間違えている。行為にこそ意は宿るのであり、意に決して行為は宿らない。

 意が欲しければ行為することであり、行為とは意を生み出す母体である。行為を終えて初めて意が明らかになるものなり。想像の中に意は明らかになることなし。意はまた、行為の占有物なりて我は行為のみなしうる。相手に好かれようと閃ために相手を思い続けるだけでは飽き足らず相手を文中の蘇らせるのもまた行為なり。それが極まれば書くことなくして相手を思うだけで相手を心に浮かび上がらせ蘇らせることができるなり。誠に愛する人もまた虚なり。虚は生きも死にもせず。ぼんやりと思い出されるように存在し息をする。

 意は、行為を欲している。行為の中に意が生きて存在感をあらわにする。意こそ人を行為に誘惑する女の女体のようであり、女は行為する男を好むのもまた、意こそ女であるためなり。行為せぬ男は女のいない殺伐とした世界に住むも、女のいる世もまた女の理不尽な意により殺伐とせんこともあらめ。