アウトプット

相手の視点に立ってみよう

心模様 

 私に心があるのかしれないが心模様を描き釣らなければならない羽目に陥っていると錯覚しているおめでたい私を誰も笑ってくれなくなれば私はついに気が狂ったとされるのも厭わなくなるのかもしれない。その時私の手元に残るのはなんだろう。凶器はどこに宿るのか君は知らないだろうから僕は君にそれを教えてあげたいがおそらくできないと感じているのだ。言葉というのは教育には実に向いていない。言葉に真意なんてものは一つもないのだ。そんなものを持ち出すから訳が分からなくなって真意さえも疑わしく思えてくるものなのだ。言葉は言葉にした人間の気持ちを少しも表していないと考えるのは、その言葉をどうしても受け取りたくない人間の拒否反応に違いない。異物が体内に混入すれば排出する機能が働くのとなんら変わりないじゃないか。私のような人間がどうして世界で生きていられるのか。まともな人生など私には用意されていないのかと嘆くのはもううんざりだ!

夜中の上野を荷物を両手にぶら下げて

夜中・・・社会という妄想の産物が鳴りを潜め、私の妄想が外で輝き踊りだす唯一の時間。

上野・・・浮浪者は去り、観光客の花見も間近に備えて道路整備。東アジアの観光客もだいぶ減りましたとさ。

荷物・・・思い出が増えれば荷物も増えていた。

両手・・・彼女の体をいたわるためだけにあるはずなのに。

ぶら下げる・・・重力に抗う反抗精神。

 おしゃべりは禁物である。尖った神経に言葉はズキズキと突き刺さる。早口で喋るのは自分で言葉の衝突を経験しているからだ。言葉を衝突させて破片を相手に突き刺す。言葉を駆使すれば相手を黙らせることができ、否、相手の話を聞かないで済む。喋れば喋るほどに相手の話を聞かずに自らの言葉が自らの耳に届き一体自らもそれを手にして吐き出し見てみなくては言葉の威力がわからないのだろう。私が何か不快を感じた時は必ず言葉が紡ぎ出されてくるように私には思われる。自らを愚弄する言葉をいくら履いても誰も褒めてくれはしない。自らを愚弄するのが好きな人がいる。好きでやっているわけじゃなくて何か反省文めいたことを書かなければ気が済まない人がいる。それならばやらなくちゃ良かったのだ。想像力の欠如と言いましょうか。やってしまわないとわからないと申す。それはそれでその人の生き方だ。人を殺してみないと・・・とはならない。やはり教育がいるということになるが、ある程度わからないこともある。そもそもわからないという事態がわからない。人を殺しちゃいけないというが、それは、殺された人がやめてくれと言っている時はまだ傷害罪なのだと法律論っぽく歪めてみても言葉が増えるだけだ。唯一自分を基準にしなくちゃならない。自分がされて嫌なことを相手にしちゃいけない。これほど難しいことがあろうか。自らを知れというのだ。他人の悪口を言えば他人に悪口を言われるように。それがわかるかわからぬか、自己懲罰的な若者は平気で他人の悪口を言う。これほど歪んだ人間もいないだろうが、社会は歪んだ人間の宝庫だ。誰もが成熟してから社会に出るわけではない。そもそも社会など存在しない。自らが強固に信じているある現象である他ない。それは集団的に継承されている。問題ではない。ただ、虚構である社会を、集団の外部を考えないのが問題であるように思われる。ある価値観を守ると言ってもその価値観を守ると考えた時に外部が意識化されている。要は、外部への反応をあらかじめ決めておくというのが価値観を守るという行為だ。価値観が侵された場合、それを変更することなく何らかの形で守るというのが価値観を守るという行為だであるし、その宣言が価値観を守るということだ。現に言葉にすればその外部が面前に現れてくる。思想家は、そのうぬぼれに実態を与えるためにすべての人たちにわかるような言葉を投げかけなくてはならない。批判は、ある意味でわかる人にはわかるがわからぬ人にはわからないために読まれる範囲は狭まるけれども。私は小林秀雄を念頭に置いている。彼は神秘主義的だとか言っても始まらない。彼の彼自身を通して得た感覚を筆に宿す技術は素晴らしいと言ってみたところで誰も小林を読まないと食ってかかる自分は一体、小林秀雄を宣伝したいのだろうか。そうではないはずである。思考の糧にして自らに降ってかかる泥を落としたいと考えているのだ。少しおかしいと思う時にそれをそのままおかしい風に受け取るのがマナーであるように思われる。お菓子をくれたというので、それを洗ってしまえば相手も嫌な気になる。問題はわかっていて嫌なことをする人間がいるということだ。それがこの世の中を生きづらくしているように思われる。私恨は捨て去るに越したことはない。何を大事にする必要があるか知れない。私が三島由紀夫を好きになったのは、彼のスタンスであり彼の全てである。彼の意味する周辺ではないのだ。私は何ら社会変革など信じちゃいない。戦争が終わっても拒否反応が強く出るのは自明ではないか。社会が変わっては困る。社会と呼ばれているものが何かを示せばいい。社訓だろうか、社会人という言葉だろうか、メディアだろうか、私はせめて借り物の言葉を返す必要があるのかもしれない。私が言葉をどう扱っているのかを説明しなくちゃならない。そうでなくては言葉は伝えられない。確かにお金が入れば人は豊かになるかもしれない。お金は価値あるものを手元に所有する喜びをあたえてくれる。所有すれば世話をしなくちゃならない。それにまた金がかかる。金はいろいろ世話をやかせてくれる。何たって、金のために自ら何時間も拘束されているのだから当たり前のことだ。私はぶっ飛んだほうがいいのだろう。贅沢は、それを毎日しないから贅沢なのであって、ジェームズ1世が毎晩国産黒毛和牛を食べていても贅沢とは呼べないであろう。言って仕舞えば、金は鏡であるように思われる。何に使うのか。それが大事なのであろう。しかし、ある意味で使わなくてはその価値の底をしれないというものでもある。使ってみなくてはわからない。そこに金は魔力を占めているのであろう。ゆっくりバイクに乗るにしても、バイクで飛ばすにしても、どちらにせよ、バイクに乗っているのには変わりないのだから。一体全体金もないのに楽しく過ごせている人間がいれば、社会においてある偏見の下に見られてもおかしくないのである。ある一定の価値観を持ったどうせだとやらとつるむ時間があれば、別の世代とつるめば金などそうそうなくても生きていけるのである。世代を保存するのに金を使わされているのに気がつかないのであろうか。世代間の争いのほうが私は身に迫って感じているのではないかと思われる。それを国家間の戦争に転嫁すれば実は戦いは遠のくのではないだろうか。国家が世代を超えて一つになる。テレビで聞くフレーズだが、どの世代にも通用する価値観は敵国を憎しと思う心であろう。それも細分化すれば、敵国が憎い自国の敵を殺すとなれば敵の敵は味方というのだろうか。敵の敵は味方であるならば、アメリカ嫌いの北朝鮮民族派の友達であろうと考えるのが論理であるとすれば、なんとも狭い思考で物事を感じている自らの器を見つめ返すが良い。決して卑屈にならなくても良い、なったとしてもそれを笑い飛ばす力があればいいのだ。ゆーもを忘れずに文章を書かなくてはマジになっては何でもおしまいだ

遊び 

 くどい話を聞かされるほど私の神経は穏やかではない。神経の興奮が口角をつり上げたり眉間のシワを操ると考えると人間は神経の操り人形のよう。面白きことなきこの世の中におもしろきことをと面白くないことを言った人物の名称を答えよ。いじめもほどほどに、世界の笑い者、つまらぬことを言ったがために教科書に載せられ子供の笑いの種。笑止千万なる世の中、という人物の孤独な一人笑いに閉口する相対的に一流な真面目人。いかなるとこへ行ってもそこを楽園と思わばそれを才能と銘打ち拍手して自らの菲才をひけらかし金にするものたち。我はどこへ行くのかと心配してくれる人もなきこの世に、我を心配してくれる人を望む心の卑しさ。その老獪な心のかたくなに、自らが親となれば立派な親のお面をかぶり、子のためと言っては殴る蹴るの暴行に、挙げ句の果てには責任放棄の自由を与えられ親に騙される子供たち。世界といったところで私は世界を知悉しない。世界という語が私に何を意味するのか記述する必要もなかろう。私の世界は記述できぬ。世界は私と共に滅ぶだろうか。水平線に沈む夕日を見ること少なく、感情の起伏は若さから引き剥がされ早熟へと駆り立てるのか。何故無鉄砲さを若いというのか知らず。若いとか年老いているとかの表面に現れる性質を見出される。それを真に受ける私はいかにも言葉を疑いもせずに受け取って解毒剤を必要とする。

 わたしのないめんをとろするにもあとからあとからいいたりないところがばかりがめだってきてわたしのないめんはまったくながれることなくわたしのなかにたいりゅうしてわたしはいったいどうしてそうおもうにいたったのかをかんがえようとするのもよしてはやくこのふかいなげんじつからのがれたいとおもっていてもあきらめはんぶんのきばらしにこうしてぶんしょうをかいてなにかしゅげいのようなかんかくにぼっとうすればよのうさばらしにもなろうとおもいとじこもればますますいんえいふかくわたしのないめんはそとをもとめてあおぞらにこがれことばをひつようとす。

 

病院は病人を、学校は無学の徒を、会社は無能な人間を量産し、優れたる人間は世にはびこる醜悪を離れて何処へ消えたという。

近頃の子供、子供である得策を忘れず。悩み考えることもせず。携帯片手に忘れた記憶をほじくり返しては食べて暇つぶし。鼻くそ食べる子供の姿によく似る。この国の未来は暗いという時一人の人間には嬉しさが込み上げもしよう。国滅びて山河あり。

さて、私は身分を明かすか。私が何者であるかを知りたがるとすれば、すでに私の言葉は言葉としての力を失う。私を判断するのになぜ身分が必要であろう。身分こそ私を拘束する力あるものとして存在するくわであるように思うのか。だれが私の身分を明かそう。弱みを見せよう。言葉は人なり。

街を歩く

 春風、体に不快な温かみを帯びて髪に吹き付ける。春の陽気に生身の体臭を漂わせて。丘を下る。黄色い踏切に黄色いかばん。君は容易に彼らに殺されうる存在になろう。取り入って虐げられ踏みにじられる。日本もおかしくなりました。私は物を考えるのか。意志は何処に。目には見えねども感じられはせぬか。何処にあろうか。感じられもせぬ。我を感ずる事態を避けたい。我は悲しみに沈み込み悪臭を放つ。我に近づくもの皆心身を汚される思い。我が我を一番に憎む。我の中の他者よ。我は我を他者を通じて感じる。我は直接に我に到達できぬのか。道徳とは我が我を感じるための我に設けられた通路。我は道徳の市場にて売られている。欲望が不快の塊を総決算したあとに出てくる。体には合わぬ劇物も欲望になりうる。治るという欲望に。我の顔は強張る。肩には力が入り、体の筋肉は硬直するは、まるで意識ある死人。死んだまま生きるという長生きの秘訣。延命装置。命とは心臓の鼓動であろうか。然り。一切合切を捨て去る無理。無理は禁物。焦りは一生の恥。

 私、そこには孤独がある。断絶がある。他者を排除してまでも自らを立てなければならない衝動がある。その衝動の正当性を自らを証明しようと躍起になりもしよう。その矛盾に挑む煩わしさを捨て去り風の中髪をなびかせ遠目に海をながむる。

 私、と書く時、私は孤独で私は一人。私を支えるのは私で私を突き放すのも私。私が思う時、そこには他者も同じように共感してほしいという願いと、共感するに違いないという確信がある。確信は傲慢とさえもいえる。傲慢さとは責任となんら変りない。我一人舞台に立つ時客の拍手を信じる傲慢さであり、願いも混交しついに叶う。

 私の前に道があるわけではなし、私はただ広い野山を駆け巡り綺麗な花を見つけては喜ぶ。その花の寒空の下に過ごす晩を思い、ついに風に引きちぎられ空飛ぶを夢見るは悲しげ。

 私というとき、私は私以外の他者の現象から産まれる私をなんとなく感じる。私は他者との差異である。私とは何か。性格ではない。私とは何か。この執着。私は私を感じる方法を見出す。私が死んでいると零す者がいようとも私にどうすることもできぬ。できるとしてもお節介、ただ私が他者の願望を実現するほかない。私は他者の願望を実現させれば他者はそれを与えられたと自覚し私を欲するだろうか。私は皆のために死ねるか。死ねるとすれば、私はもう死んでいるのではないか。

 池田晶子、さて、死んだのはだれか。