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この瞬間

 いつま真面目な文章をお書きになって、とでも教養のあるお方であると存じておりますが一向にお金に結びつきませんので少し参っているところであります。金嫌いの成功がありましてカネのために言葉を変えるのに全くもって賛成できないところがあるのでございます。それにしても私は文章を書く資格さえないのだから、資格がないところがいいところなのであって嘘八百述べても何も責任を負わされることもないのでしょうから実に気軽な商売だとタカをくくっていましたところ文章への情熱が失われていくどころか同じことばかり書いてしまい文章がまったくうまくいかない時代に陥ってしまったのでございます。他所から見れば私の内面的葛藤など興味の対象でないのは十分に承知しておりますけれどもどうしてもそこから離れられないところがあるのでございます。人は見た目によって判断されますけれどもそれが何になりましょう。判断の優劣は競えません。私には今至極簡単なことしか言えないのでございます。人を動かす前に自分が動けと。それしか私は考えちゃいないのです。

読書について

 CMにて漫画を読み散らかす女に本を渡し、本を読む人間がそんなに偉いのかと女が開き直って無料漫画をアプリで読み漁るシーンがある。女の奇妙ですれきった笑い声。本は漫画よりも楽しい。私たちは言葉に生きている。相手に何かを伝えるとき、いちいち絵を描いていられない。話を聞くときに紙芝居などやってられない。漫画は人の顔も何もかも伝えきれない。その場で読み切って終わってしまう。それで満足。決して自分が変わることはない。世界を変える力などを得ようとも思わないのだろう。漫画を読むことで解消される世の不満は一時的なものであるように思われる。今の世に不満なのかと問われれば、そうであると答える。もしかしたら私が悪いのだろうと思わないでもないのだけれども。万人にすみよいまちなどないようにね。さて、どうしたものかね。こまったこまったとなげいているだけで日が暮れてiphoneの予測変換はおかしくなるし。もうやってられないなんて愚痴をこぼしながらも指は軽快に動いてつらつらと役にも立たない言葉を書き連ねている。さてどうしたものかの、堂々巡りにも疲れから私は電車の音を聞いても感慨深さもなく。渡りに船で。何処へやら。自由について語るには、自由という言葉が必要であるように、何者かであるには何者かが必要なのだ。私は何者でもないので何も言えない。主張して賛同を得て小さな拍手をもらっても私の中の貪欲な私はそんな拍手じゃ満足できず大きな不満声のブーイングのほうをほしがる。ああ、日が暮れていく。何もかけちゃいないからやになる。嫌になればこの世とおさらば。覚悟はあります?良い人も悪い人も天国へ行きましょ。悪いことをすればばちが当たるなんて了見の狭いこと言って世の中嫌になっていいかとは何か探し求める姿に私は何も言葉を見出せない。相変わらず世の中は、決まり切った習慣をただただ行ったり来たりして移ろい揺蕩っている。そんな気もするのも、私だけでしょうかね。共感するために私は私を投げ出さない。嘘で私を隠し通す。私は奥に隠れて決して出てこない。出せば私は今ここにいないだろう。

 

 

 無。あるものか。私の心さえもとあがいてみたところでなんになる。こうしてもがき苦しんでいるのを文章しなくてはどうにもならないと書いてみたところでもガキなど一滴も通じやしないのだ。それで大分守られているのも確かなことかもしれない、相手への拒否反応警戒感嫌悪感を相手に示すことなくのうのうと生きていられるのも楽だ。相手を嫌うような気持ちを持ってはいけないというのは髪の教えであり命令口調が花につくかもしれないがこれは人間が自らを全て自らでコントロールできるわけではないといううぬぼれと、破滅の道をとかく歩みがちな人間が自らの性向を他の人間にも通じるであろうと信じても受けた神の話。神とは人の異名に他ならず。私はバイクで駆け抜けるように文章を打っている。もしも、もしも、映画が評判だけで賞が取れるとするのならば。どうだろう。映画の芸術性は暴力にしか宿っていないのではないだろうか。誰が映画館で痴話喧嘩なんて見たいと思うだろう。ララランドなんて、音楽とダンスは良かったがそれ以外のシーンなど特に新しいところもない。ただ、陽気な音楽が良かった。それだけだ。

心模様 

 私に心があるのかしれないが心模様を描き釣らなければならない羽目に陥っていると錯覚しているおめでたい私を誰も笑ってくれなくなれば私はついに気が狂ったとされるのも厭わなくなるのかもしれない。その時私の手元に残るのはなんだろう。凶器はどこに宿るのか君は知らないだろうから僕は君にそれを教えてあげたいがおそらくできないと感じているのだ。言葉というのは教育には実に向いていない。言葉に真意なんてものは一つもないのだ。そんなものを持ち出すから訳が分からなくなって真意さえも疑わしく思えてくるものなのだ。言葉は言葉にした人間の気持ちを少しも表していないと考えるのは、その言葉をどうしても受け取りたくない人間の拒否反応に違いない。異物が体内に混入すれば排出する機能が働くのとなんら変わりないじゃないか。私のような人間がどうして世界で生きていられるのか。まともな人生など私には用意されていないのかと嘆くのはもううんざりだ!

夜中の上野を荷物を両手にぶら下げて

夜中・・・社会という妄想の産物が鳴りを潜め、私の妄想が外で輝き踊りだす唯一の時間。

上野・・・浮浪者は去り、観光客の花見も間近に備えて道路整備。東アジアの観光客もだいぶ減りましたとさ。

荷物・・・思い出が増えれば荷物も増えていた。

両手・・・彼女の体をいたわるためだけにあるはずなのに。

ぶら下げる・・・重力に抗う反抗精神。

 おしゃべりは禁物である。尖った神経に言葉はズキズキと突き刺さる。早口で喋るのは自分で言葉の衝突を経験しているからだ。言葉を衝突させて破片を相手に突き刺す。言葉を駆使すれば相手を黙らせることができ、否、相手の話を聞かないで済む。喋れば喋るほどに相手の話を聞かずに自らの言葉が自らの耳に届き一体自らもそれを手にして吐き出し見てみなくては言葉の威力がわからないのだろう。私が何か不快を感じた時は必ず言葉が紡ぎ出されてくるように私には思われる。自らを愚弄する言葉をいくら履いても誰も褒めてくれはしない。自らを愚弄するのが好きな人がいる。好きでやっているわけじゃなくて何か反省文めいたことを書かなければ気が済まない人がいる。それならばやらなくちゃ良かったのだ。想像力の欠如と言いましょうか。やってしまわないとわからないと申す。それはそれでその人の生き方だ。人を殺してみないと・・・とはならない。やはり教育がいるということになるが、ある程度わからないこともある。そもそもわからないという事態がわからない。人を殺しちゃいけないというが、それは、殺された人がやめてくれと言っている時はまだ傷害罪なのだと法律論っぽく歪めてみても言葉が増えるだけだ。唯一自分を基準にしなくちゃならない。自分がされて嫌なことを相手にしちゃいけない。これほど難しいことがあろうか。自らを知れというのだ。他人の悪口を言えば他人に悪口を言われるように。それがわかるかわからぬか、自己懲罰的な若者は平気で他人の悪口を言う。これほど歪んだ人間もいないだろうが、社会は歪んだ人間の宝庫だ。誰もが成熟してから社会に出るわけではない。そもそも社会など存在しない。自らが強固に信じているある現象である他ない。それは集団的に継承されている。問題ではない。ただ、虚構である社会を、集団の外部を考えないのが問題であるように思われる。ある価値観を守ると言ってもその価値観を守ると考えた時に外部が意識化されている。要は、外部への反応をあらかじめ決めておくというのが価値観を守るという行為だ。価値観が侵された場合、それを変更することなく何らかの形で守るというのが価値観を守るという行為だであるし、その宣言が価値観を守るということだ。現に言葉にすればその外部が面前に現れてくる。思想家は、そのうぬぼれに実態を与えるためにすべての人たちにわかるような言葉を投げかけなくてはならない。批判は、ある意味でわかる人にはわかるがわからぬ人にはわからないために読まれる範囲は狭まるけれども。私は小林秀雄を念頭に置いている。彼は神秘主義的だとか言っても始まらない。彼の彼自身を通して得た感覚を筆に宿す技術は素晴らしいと言ってみたところで誰も小林を読まないと食ってかかる自分は一体、小林秀雄を宣伝したいのだろうか。そうではないはずである。思考の糧にして自らに降ってかかる泥を落としたいと考えているのだ。少しおかしいと思う時にそれをそのままおかしい風に受け取るのがマナーであるように思われる。お菓子をくれたというので、それを洗ってしまえば相手も嫌な気になる。問題はわかっていて嫌なことをする人間がいるということだ。それがこの世の中を生きづらくしているように思われる。私恨は捨て去るに越したことはない。何を大事にする必要があるか知れない。私が三島由紀夫を好きになったのは、彼のスタンスであり彼の全てである。彼の意味する周辺ではないのだ。私は何ら社会変革など信じちゃいない。戦争が終わっても拒否反応が強く出るのは自明ではないか。社会が変わっては困る。社会と呼ばれているものが何かを示せばいい。社訓だろうか、社会人という言葉だろうか、メディアだろうか、私はせめて借り物の言葉を返す必要があるのかもしれない。私が言葉をどう扱っているのかを説明しなくちゃならない。そうでなくては言葉は伝えられない。確かにお金が入れば人は豊かになるかもしれない。お金は価値あるものを手元に所有する喜びをあたえてくれる。所有すれば世話をしなくちゃならない。それにまた金がかかる。金はいろいろ世話をやかせてくれる。何たって、金のために自ら何時間も拘束されているのだから当たり前のことだ。私はぶっ飛んだほうがいいのだろう。贅沢は、それを毎日しないから贅沢なのであって、ジェームズ1世が毎晩国産黒毛和牛を食べていても贅沢とは呼べないであろう。言って仕舞えば、金は鏡であるように思われる。何に使うのか。それが大事なのであろう。しかし、ある意味で使わなくてはその価値の底をしれないというものでもある。使ってみなくてはわからない。そこに金は魔力を占めているのであろう。ゆっくりバイクに乗るにしても、バイクで飛ばすにしても、どちらにせよ、バイクに乗っているのには変わりないのだから。一体全体金もないのに楽しく過ごせている人間がいれば、社会においてある偏見の下に見られてもおかしくないのである。ある一定の価値観を持ったどうせだとやらとつるむ時間があれば、別の世代とつるめば金などそうそうなくても生きていけるのである。世代を保存するのに金を使わされているのに気がつかないのであろうか。世代間の争いのほうが私は身に迫って感じているのではないかと思われる。それを国家間の戦争に転嫁すれば実は戦いは遠のくのではないだろうか。国家が世代を超えて一つになる。テレビで聞くフレーズだが、どの世代にも通用する価値観は敵国を憎しと思う心であろう。それも細分化すれば、敵国が憎い自国の敵を殺すとなれば敵の敵は味方というのだろうか。敵の敵は味方であるならば、アメリカ嫌いの北朝鮮民族派の友達であろうと考えるのが論理であるとすれば、なんとも狭い思考で物事を感じている自らの器を見つめ返すが良い。決して卑屈にならなくても良い、なったとしてもそれを笑い飛ばす力があればいいのだ。ゆーもを忘れずに文章を書かなくてはマジになっては何でもおしまいだ

遊び 

 くどい話を聞かされるほど私の神経は穏やかではない。神経の興奮が口角をつり上げたり眉間のシワを操ると考えると人間は神経の操り人形のよう。面白きことなきこの世の中におもしろきことをと面白くないことを言った人物の名称を答えよ。いじめもほどほどに、世界の笑い者、つまらぬことを言ったがために教科書に載せられ子供の笑いの種。笑止千万なる世の中、という人物の孤独な一人笑いに閉口する相対的に一流な真面目人。いかなるとこへ行ってもそこを楽園と思わばそれを才能と銘打ち拍手して自らの菲才をひけらかし金にするものたち。我はどこへ行くのかと心配してくれる人もなきこの世に、我を心配してくれる人を望む心の卑しさ。その老獪な心のかたくなに、自らが親となれば立派な親のお面をかぶり、子のためと言っては殴る蹴るの暴行に、挙げ句の果てには責任放棄の自由を与えられ親に騙される子供たち。世界といったところで私は世界を知悉しない。世界という語が私に何を意味するのか記述する必要もなかろう。私の世界は記述できぬ。世界は私と共に滅ぶだろうか。水平線に沈む夕日を見ること少なく、感情の起伏は若さから引き剥がされ早熟へと駆り立てるのか。何故無鉄砲さを若いというのか知らず。若いとか年老いているとかの表面に現れる性質を見出される。それを真に受ける私はいかにも言葉を疑いもせずに受け取って解毒剤を必要とする。

 わたしのないめんをとろするにもあとからあとからいいたりないところがばかりがめだってきてわたしのないめんはまったくながれることなくわたしのなかにたいりゅうしてわたしはいったいどうしてそうおもうにいたったのかをかんがえようとするのもよしてはやくこのふかいなげんじつからのがれたいとおもっていてもあきらめはんぶんのきばらしにこうしてぶんしょうをかいてなにかしゅげいのようなかんかくにぼっとうすればよのうさばらしにもなろうとおもいとじこもればますますいんえいふかくわたしのないめんはそとをもとめてあおぞらにこがれことばをひつようとす。