アウトプット

相手の視点に立ってみよう

もっているもの

私の持つ者で戦うしかない。戦って逃げるが勝ちよと言わんばかりの世界に僕は立ち残されて野原に咲いた花の短い命に憧れながら、象の以外にも長い寿命にお疲れ様と言いたくなる。上野動物園で死んだ目をした馬を横目に見ながら帰る家路に僕はうっとりする。うっとりするってのもまんざら、自己満足だけじゃない。自分を馬に投影してもいるんだろう。見せ物のために。

存在しちゃいないんだって

男は存在しちゃいないんだって。男は現象らしい。らしさというか、それしかないらしい。一方で女は場所だって言うからね。どこへ行こうにも女はいるらしいから、いなくなる心配はないというところだろう。もうなにがなにやらよくわからない。もう何も知らないと開き直ってキーボードを叩いて見せても脳に一向に負担のかからない簡単な言葉しか思い浮かんでこないんだから。僕はどうもこののんべんだらりとした世界に味付けをしたくてしょうがないのだろう。そのときに言葉が私の味方をしてくれるというのだからどうしても言葉以外に頼らないわけにはいかない。絵は時間がかかる。音楽は楽器がいる。言葉は私さえいれば何もいらないじゃないか。そう私は何もないのだ。飛行機のない世界でパイロットは英雄になれない。どうすればいいのだろうかと立ち往生しているときが退屈で僕は退屈をかじって貪って遊んで生きているのだろう。心に貧しさも豊かさもなくてあるのは陽気さと陰気さだろうと、ここで即断してしまっても何も始まりやしないだろう。偏見など持たないようにしようじゃないか。すべての私的見解は事実であるから厄介なのだ。事実は事実であるというだけで信じることを必要としないがそれに従う必要性を内部に感じてしまう。真実とは判断の丸投げであるとしておこう。君が信じたものこそ価値があるんじゃなかろうかと思うのだけれど。しかし、どうもそう簡単に物事は進んではいかないらしい。そうやっていいのがれしてもどうにもなりやしないよ。僕の表現はどうせダメだって言い聞かせて、そういう言い方しかできない自分に浸かれっちゃったってことかな。どこまでも書かなくちゃ僕は生きることができないんだ。そういえば、床が疲れたってラファエルが言ってたな。俺もゆかは苦手だな。この世界で床にて生活するのは苦手だな。ラファエルは本当に元気だったような気がする。女の子が好きだから女の子さえみとけば、ラファエルは元気になるんだから幸せ者であろう。どうせという言葉を吐いてみたとき君は本当に奴隷になっているんじゃなかろうか。

何も信じない

真実を信じる?素晴らしい!真実さえ誤解されっぱなし。

病気がつらいだって?みんなつらいんだ!

疲れたって!?休めばいいじゃないか
死にたいって?僕もそんなに生きたくはない。

 

意志!
 ある意志がある意志と対立し衝突する。別の意志が生まれ空に散らばり自覚を離れ飛び火する。家はやけ、野原が広がり道路脇の一輪の花が風に揺られ、その横をガスまみれのトラックが通り過ぎる。
意志よ!

 私が意志にとりつかれるとき、私はもうひとつある意志を持ち出す。全く別の意志。真反対の。衝突する意志を。すると意志は私を日常の中から動かし始める。世界は変わらずにあり続け悲しみはなくなる。喜びに私を向かわせる。疲れると休息する。意志にとりつかれるために私は私の別の意志を捨て去らなくちゃならないのなら!騙されているふりをしているうちに本当に騙されるんだから。
 私は誰のために生きるでもなく、生きているし、生かされているのだ。半殺しであるとしても。わるくはない。適当に時間は過ぎ、忙しなさで歪んだ顔と血色の悪い皺に苦労を見てとった私の顔もまた疲れ果てる。互いに不幸になればみんなの幸せ。幸せは一人のためにあり皆の幸せを考えることが僕にはどうしてもできない。なぜなら、幸せであるように見せつけるのもまた疲れるからだ。しかし、嘆きはしない。

 世界はみすぼらしい?否、私の目の曇りだ。曇りさえ愛おしい。老いさえもまた。

 

いかなる!

いかなる動画も信じてはならない!

この目で見るまでは。

この鼻にさえ感覚は宿る。

動画には腐臭がない。また、香気も無臭もない。

 

僕は、と言うとき僕は迷う。

僕は!君と僕との間に常に生まれる。

僕は僕ひとりで存在できない。

存在の拒否。それは他者を拒むのに似ている。

私は存在したくないだけでなく、他者を存在させたくもないのだ。

私の傍にいるある者は存在を忘れ喜び、ある者は苛立つ。

すべての生命が尊い!と考えるとき、そこには真実はなく、意志があるのだ。

意志は私を向かわせる。動かす。

真実は他者を動かす。

ああ、自ら動く人となれ。

なにもかんじない!

それは何も感じないことの始まりだったのだ!

悲しさは当然の報いとして私に自覚された

私はそれを空気のように感じた

 

いつの日か会おう!

消して会いたくない!何を楽しみにこの国に来ているのか知らない

日本人のいない成田空港

私の存在の無根拠さを

私は私が感じるように私が感じてはいけないと

なにものかが、わたしに圧をかける

被害妄想?そういえば一応の名前はつく

常識?常識を逸脱した後の報いこそ!

ああ、世界がどうなろうとも私は一向にどうともならない。

家が壊されたら?壊れた家があるだけだ。

金がなくなれば?動けなくなるだけだ

食糧難は?有事は?疲れは?

生きるのは疲れる。死とは解放でもあろう。欲望を失った者にとっては

ああ、私の非力さを私は嘆きはしない。私の非力さをあざ笑う人たちの気持ちが気持ち悪いのだ。

要は、存在などしたくないのだ。

私に未来を描くペンさえもてやしない。その方がいっそ楽だ。

がんばれと、言うだろう。がんばれと。

私は存在の消去に勤しみたい。がんばりたい。

どうせ、後悔するんでしょ?後悔さえ、感じてみたい。

後悔が私を襲ってしに至らしめるのなら、私の現在は死ぬために用意されている。

死ぬために生きている。

私には私がわからない

 私は他者である。他者の説明により私は成り立つ。私の説明により私は成り立たない。説明する際に他者を必要とする。私が何者であるのか。私自身は知りえないというとき、私自身は他者により構成されたある種の傾向として私を捉えるであろうけれども、いよいよ私は私の感覚なり神経を偽りの言葉で書くとどまる。荒いタッチで書くに止まる。印象派の絵のように私は私を書こうと努力することはできる。そこに他者の客観的な視点がある。従って、自己を問わない人間にあるのは盲目的な主観である。

考える

 私は考えているのか。考えているが行動はしない。行動が私にもたらすのが破壊的内容を含んだ報復攻撃であるのだ。私は私自身を教育しまた鞭をも振るう存在であると確認したいがために私は行動に破壊のみをならせるのであろう。今聴いているラジオは私にとってはその内容が問題ではなくそれが促す私の行動に効果を見出しているのだし気持ちがいいと感じているのだろう。すべては現象である。だからどうした。世紀の大発見。叫んでみても聞く人おらず。まして金を払って聞くものは皆無。私は別段このようにいきたいと望んだわけではないが、こう生きているのは私の望みでないのは確かであるにしても私の望み自体を私は拒否しているのであろう。思い描いた通りに世界が動くよりも世界に身を任せた方が私への快感は高まるとわかるやいなや、計画性はおそらくは私を無計画へと駆り立てるだろう。壮大な無計画の余白に、私は計画への悪口を散々書き続けるのだろう。一番人が人でいるためには会話の次にやってくる応答が必要なのだ。応答にこそ私がいるとすればそのような自己に私はなんら興味もわかないのである。私はどうすればいいのかわからなくなった時に、周囲を描写すればいいと今ふと思ったのであるが、私の足の下には人が眠っている、私は4階にいるからだ、だからどうした。この問いは非常に強烈であるように思われる。この強烈な思いを私は一体どのようにして払いのければいいのだろう。徹底的に対話する必要があるのであろう。そこにしか私の言葉が生きるところはないのだ。私は死んだ言葉をいつまでも使い続けるような気持ちを持っていない、まして、無意識的に好んで使っている言葉さえも、好んでいるか否かはどうしても無意識が判断しているのだとすれば、それは、おそらく、傾向としてあるわけで、感情はついてこないように思われるのです。私がものを語るときそう思われるという確信以外に何を語ればいいのでしょう。客観的に確実なことを前提に話すとすれば非常な苦痛でありましょう。まして客観とはどこにある代物なのか。そんなのもわからないのでありますから。夏目漱石が私の頭を揺さぶっています。語彙の豊富さに目がくらみ彼の著作が私を喜びに導いてくれると私は自分言い聞かせるよりも早くのめり込むのでしょう。私は自分に言い聞かせる力が非常に強くて、自然に振る舞えないところがあります。どんなにしっかりした人でも私ほどにはしっかりできないように思われるのです。生まれるときに人生は決まっているのかもしれません。体力なるうちはその人生から少し離れて生きることもできましょうが、無理は禁物です。だからと言って宿命なるものを知ることができるでしょうか。それを知るときはないのだろうと考えます。なぜならば、私は運命を感じるときに未来を思うからです。過去は私の知らないところで因果関係を作り上げます。おそらくは誰によっても改変可能な因果関係でありそこには解釈しなく動機の査証が行われているように思います。確実な認識は如何様に現れるのでしょう。気にもしないような質問ばかりを投げかけてどうするのでしょう。人に何も強制しなければたいていの問題は起こらないはずです。自分がやられて嫌なことはしない。見ていて嫌いな人にならない。とても難しいことです。私が嫌いに思わなければ存在しないような残酷な主観に踊らされているのですから、主観に客観が混じっております。私が金を無心するときに私のビジョンがあるのです。そのビジョンを助けてくれる人がいてくれればいいのかもしれません。それでいいのです。他に手出しをするのならば、ちゃんと言い方をわきまえている必要があるのです。私について何か面白い意見がございましたらコメントをくださいと私が言うときに私は私のこの意見とも言えない独り言の残骸が残骸ではなく私が多少は苦しんでここにタイピングしていることをわかってもらいたいというなんとも、おせっかいやきを待っている状況なわけです。いいえ、誰も私の文章など読みたがらないに決まっていると決めてかかる私自身は一体なぜそういうことを言うのかと問うときに私は、私のみの不自由さを考えて泣きそうになるのです。笑いたくないときに笑い泣きたくないときに泣くような場面を想像してパッと私の手はキーボードから離れてふと、なんにも感情がないような表情をするのです。私は何を考えているのかわからないという人間の根底を見たいと思います。私たちが考えるようには考えていないことへの不満と不信それに嫌悪がそこにあるのでしょう。もうひとつは、そこには自分たちの考えていることの底浅さと馴れ合いへの粘着的なしつこさから私はどうしても、ある種の人の興味の対象になるのでしょう。私は一体どうすればいいのかと誰に問うても私は結局は納得しないのであります。なぜならば、私は自分のために生きるほど強くはないからであります。私は自分しかいませんでした。親は自立するといいます。これは、ある意味で残忍であります。価値を見出せというのですから。そこに金などない場合もあります。金に価値を見出せば楽です。しかし、競争となると惨めな思いになるでしょう。金持ちは大半は金になど縛られちゃいないのです。金持ちほど幸せでないというデータがあるとしても、それは幸せでないから金があるというだけの意味で、金がなくても幸せになれるかといえば、おそらくは慣れるでしょうが、個人的に苦しむ時間がないという意味にもとれます。誰かに鞭で叩かれるのを快感とする人間にとって苦しみのない世界は虚無でしょうから、奈落の底に落ちてしまうのでしょう。同じ言語体験がないから私は一般的なという言葉に非常に敏感になっていた時期もありますが、それも過ぎ今となっては五感が失われたといえばことが足りるように思います。私は果たして幸せでしょうかと自分に問いただすときこの言葉の持つ背景を考え、そして結論など決して出ないこの問いを発した自分の間抜けさと退屈さに思いをはせるのです。