嘔吐2

 規則は面白い。規則は利用してなんぼだ。規則をもっと冷めた目でみるといい。皆が従うところにできた信号機。人通りがいなくなれば渡っても大丈夫。規則とは自分が自由になれる基準をいうのだ。規則に従っておけば自分を保つために何かをする必要はない。規則のない自由な状態を人間は大変な苦労と困難を持って乗り越え、規則を作った。人が集まれば、自由などない。他者は自由を常に奪っていく。そういう者に違いない。だから、一人以外の時私は不自由だ。私が自由になればとっくに死んでいるかもしれない。酒の飲みすぎて肝臓もそろそろ危険かもしれない。心配の種は尽きない。ニキビも減らなければ、唇の下は荒れ放題。髭も伸ばしっぱなしである。さて、どこに自由があるのだろう。自由を手にして何でも好き勝手できるとして、それが楽しいのであろうか。楽しいとは一体いかなる感覚をいうのだろう。本当に楽しければ、次に待っているのは楽しくない状態である。つまりは、今が最低だと思っていれば何が起こっても楽しいのだ。ということは、不幸な人ほど幸せがたくさん待っているのだ。具体的に言えば、ホームレスは上がる一方じゃないか。だから、私はホームレスを毛嫌いできないのだ。彼らに自由を見ているのではなく、彼らが何ももはや奪われることがないのを妬んでいるのだ。彼らの生活が決して良くないのは、分かっちゃいるが感じられない。都合良く見ているのだ。金があれば人生が楽しいのではなく、時間があれば人生は楽しいのだ。車だって作れるかもしれない。部品は必要かもしれないが。カートくらいなら作れるかもしれない。高くつくかもしれないが。しかし、知識も身につく。体験もする。元は取れるんじゃないだろうか。つまりは、困難な時楽天主義になってどうする。不幸なら不幸人らしく不幸にならなくちゃ。不幸なのに、幸福そうな人を見ていいなと思うことこそ、不幸なのだ!君を相対的に見れば、周りも相対的に見なくちゃ。彼らは金は儲けるがその分出て行く。そして、何より時間がないので読書もできない。精神的な余裕がないので、短い時間で最高度に刺激を濃縮させる必要が有る。つまり、休日も休まる日がないのだ。一日中寝ているのがいい例だ。寝る体力を惜しんで、なぜ楽しまない。楽しめと脅迫されている。自由になれと脅迫されている。そう日本人は、会社に文句を言えない代わりに、憲法の付与した人権を捨て、自由を捨て、そして、会社の言う事を喜んで受け入れられるよう依存しようとしているのだ。それが、彼らが精神的苦痛を軽減して社会に適合するための手段だったのだ。涙ぐましいったらありゃしないね。ちくしょう、なんていい奴らなんだと、社長は京都の懐石料理屋で泣いているかもしれない。ゴルフの球を打ちながら、つまらない付き合いに精を出し、行きたくないのに楽しそうなフリをして、何という嘘つきの集合体であろう。それに比べれば、学者なんて好き勝手している馬鹿どもだから何と楽天的なのだろう。そうだ、自由だ。得体の知れないのが自由だ。おそらく自由を語れば自由ではないのだ。存在しないことだ。自由とは幽霊になること。だから、幽霊は今でも存在している。食べなくても大丈夫で存在している、それが幽霊だ。人間の快不快を乗り越えている。私は本を読まない人たちが社会を語るのが実に辛い。読書体験もなしに、何を言葉を用いる資格があるというのか。免許もないのに、患者を適当に診断して病名をつけ風邪をひいているのに、盲腸炎だとか言って簡単な手術だからとベッドに寝かせて、盲腸の処置の仕方なんてわからないから、変に手を出すより適当に放置して、患者が起きた時に治りましたよと言えばいいのではないかと思案しているようだ。分かりづらい比喩を使ってしまって申し訳ない。つまり、私は私について語らなくちゃならない。なぜなら、私は距離感を失ってしまうからだ。距離なくして関係はない。休憩するところを作らなくちゃならない。精神のお家の中に。そう、肉体にも家が必要だが、精神にも家が必要だ。私はバイクに乗るが、あれはまともな人間の乗り物じゃないと思っている。それでもバイク乗るのは私がまともな人間じゃないからであろう。まともな人間なんてごめんまっぴらだからだ。変わらないんんげんなんていない。変わらないのは、その鈍臭さだけである。変わっているのだ、確実に。あまりにも変化に気がつくので疲れているだけだ。

嘔吐

 五月晴れの朝に空を見上げた。一羽のスズメが雲を横切る。飛行機は空高く飛んで太陽に照らされ光っている。どうしてだろうか、どうしてこんなにもこの国はおかしくなったのか。すぐにキレやすくなった。昔からそうだったのかもしれない。寛容さは失われた。もともとなかったのかもしれない。つまりは、高度成長期から逃げ出せる社会になったのだろう。サービス残業を批判する記事をみた。日本人アゲアゲの番組を流すテレビも批判していた。確かに、そうだ。欧米化を目指しているのなら、感覚も欧米化されるべきで、違法残業などしなくていいのだ。違法なのだから。法律を守るほどに利益を損なわれる会社もあるだろう。国が一流であろうと、何流であろうと私は関係なく生きてる。社会に参加せざるおえない以上、国家に求めるものの大きさは計り知れないが、私はそもそも国家に期待していない。国家を疑うこともない。国家がなくなって困ったとしても何とも思わない。しかし、そうもいかないだろう。国家がなくなれば困るだろう。もちろんそう思うのだ。ただ、肌感覚として国家の存在を日本人は肯定できないでいる。自分たちの足元を見ないようにしている。それがオリンピック招致やらにつながるのだ。嫌なところは見ない。嫌なことを嫌だというのは子供だという。人権は、女子供の占有物で男は縛られる一方だ。この感覚は、ある意味で正しい。男が権力を握っていると信じきっているからだ。男は権力を持たせなければ、安定しない。そういう生き物なのだ。だから権力欲は男にとって最大の防空壕なのだ。権力を欲しがる場合権力に従順である場合が多い。それは、自らの感覚を殺してまでも規則に従うしか生きる道のなかった人間たちのゆとりのなさなのだ。ゆとり世代とは、試されたのだ。しかし、多くの日本人は少数を嫌う。見事に失敗したのだ。しかし、それでいいのだ。ゆとりとは、失敗も成功も大して変わらないことを感じる目だと思う。それを強さだとも思わない。どこまでも淡白に生きている。情熱を欲しがる人がいる。情熱のあるところに行けばいい。安心感が欲しいと思っている、それには権力がいると思う人間がいる。それならば、権力のあるところに行けばいい。そして、実際はどうであったのかと学んでくればいい。しかし、多くの日本人は思い込もうとする。これで良かったのだと。おそらくは、周囲の価値観が相対化しているのを見ようとしない。意見の多様さを面白がらない。自分の世界観を周囲と共有したがる。違っていれば、考えようともしない。そして、考える者たちに搾取されていくのだ。日本人とは、どこまでもどこまでも果てしなくこの世に対して被虐的なのだ。そういう国民性であるから、すぐに怒るのである。寛容さは、女々しいと退けられる。しかし、雄々しいことはしない。できないのである。そのもどかしさを感じているはずである。今の日本人は、ゲームにアニメに漫画だ。悪いことじゃない。しかし、あまりにもひどい。ユーモアもない。おたくが増えた。ニュースは芸能ばかり。テレビは、美味しいの連発。与えられるものをどう調理するのかと考えよう。私は社会について論じるのが嫌いだ。不可能であるし、文句しか出てこないからだ。その文句が治ればまた新しい不満が生じる。つまり、今の日本人は悟りすぎているのだ。どこかを変えればまたどこかに不都合が生じるという感覚を持っている。したがって、何もしないというドラえもんのび太的な発想は実は、日本人の大部分が持っているのではないだろうか。人の意見を聞く時の態度も悪いし、自分が人からどう見られているのかを気にしない人たちばかりだ。たいていの人がそうである。と、考える私も十羽一絡げに纏めあげたいのか、この国の国民性とやらを。確かにこの国は貧しくなっている。しかし、本人たちは楽しそうだ。金はアジアのどこかに流れていった。昔ほど物は買えない。いいだろう。物なんていらないじゃないか、と言いながら、高価なバイクを欲しがる私。しかし、我慢すれば買えなくもないのだ。お金に頼りすぎるのは良くない。一のことをして、九のことを外に任せるよりも、三のことをして、七を任せるほうがいい。そのほうが楽しいし視野も広がる。今の日本人は、積極的に視野狭窄に陥っていると言っていい。彼らは世界の情勢など知りたくもない。安家の漫画を一生懸命読むサラリーマン。非難ではない。ただ、あまりにも貧しいのだ。貧相なのだ。趣味が。今の日本人に期待などしちゃかわいそうじゃないか。彼らは犠牲の時代に生きているのだから。自己犠牲を最高価値に奥から新撰組で私は泣けるのだ。この国人たちは、世界など見てもしょうがないこと、どこに行っても大して変わらないことを頑なに信じている。ある意味では、それは正しいのだ。どこへ行っても、自分という存在は変わらない。そう、今の日本人は自分を変えようとしない。変えられないのかもしれない。安定した自我なんて、自我が何であるのか知らないのに語感だけを信じている。恐ろしい。彼らを騙すには、耳障りのいいことを言っていればいいのだ。そして、騙されたら泣きつけばいいのだ、アメリカに。何と女々しい。屈強な欧米人への劣等感か。湘南の男は、アメリカ人を倒せるのか?疑問は尽きない。

 雨が降らない。天気予報は外れてばかり。信用に値しない。ってなばかみたいなことばかり考えてる。天気予報を信じても特になりゃしない、まして人間を信じるなんて迷惑極まりない。人は信用してはならない。なぜならば、信用された人間の自由を奪うからだ。言動の自由を制約するのは会社で十分じゃなかろうか。僕はまだ会社に勤めちゃいないけれど。村上春樹ノルウェイの森を読んだ。好きで読んだんじゃない。講義で必要だから読んだ。レジュメを見れば、ノルウェイの森はやらないようだった。徹夜して読んだのが無駄になったか?久しぶりにノルウェイの森を読んで、すらすらと頭に入る文章に良さがあった。頭にすらすら入ってまるで私は「僕」である感じを受ける。気持ちの共有だとか、勧善懲悪でもないし、まして、悲劇でもない。淡々と人々が訳も分からずに言葉を吐き捨てては通り去っていく。真理だけを語るよう自らに仕向ければ何も話せなくなってしまうだろう。嘘をついて、それをどう相手に興味がらせるかにかかっている。人生について嫌な面をみた。さて、どんな面構えをしていたであろう。静かで微笑んで、夜は男と眠り昼はおしゃれをしている。今の時代の顔は女だ。では、男はどうであろう。二項対立的に考える僕の思考は全然ダメだ。好きなことなんて一言もかけない。どうすれば場が乱れないか、秩序と人々はそれを認識するか知らないけれど、それを壊すのに喜びと充実を感じ安息を見出すのだ。ルールは実に奇妙複雑怪奇で、私はすべてのルールと戦いかねない戦闘状態にある。要するに私は基地外である。

女はコミュニケーション能力高いか?

恐らく、男性の多くは女性のコミュニケーション能力を信じている。コミュニケーション能力とは何かを問わずに。

 能力、つまり、何かを獲得する力。その手段が会話ってこと。つまり、貢がせる女こそコミュニケーション能力が高い。

 しかし、男の永遠のヒロイズム、女の近代において得られた明文化されない特権のよれば、男から女への贈与は、男女間に前提として存在する掟である。

 そして、コミュニケーション能力とは、贈与の意味だけではなく、相手に受け入れられるように上手に意を伝えることでもあろう。それに応じる人間もまた、相手の意を読み取らなければならない。寡黙な男性であっても、コミュニケーション能力はある。おしゃべりな女性が、コミュニケーション能力があるとも言えない。(このような屁理屈は女性の嫌うところだ。法律は原始的に女性のためにある。もっと言えば、暴力的になれないもののためにある。つまりは、平和を好む者たちの約束事だ)

 2010年前後、コミュニケーション能力についてとやかく言われ始めた。それも、流行りにすぎなかったと2017年になってわかる。当時はまだ、男性が働き女性は家事をすることのできそうな雰囲気であった。明治時代から続く観念の終焉の時期だったのだろうか。コミュニケーション能力と称し、男女の一方的な定型化された贈与を復権しようとする無意識が、コミュニケーションを大事と捉えるようになり、意識するに至ったのだろうか。意識に表れたものは、段階として無意識の中に発芽していた。花が咲いたのか。繁茂を繰り返し、時代が緩やかに覆われていく。

 時代を認識する人間が変わり、時代も変わる。人間の営みが作り出した景色。無意識的であれば、作り出された風景だ。原宿に行けば、原宿に集う人間の好む風景に出会う。御徒町へ行けば、ある時代を切り取った商店街が並ぶ。新しいものを受け入れるのが、原宿であるなら、御徒町は、昔から住まう人を保護する。もちろん、相互にやり取りはあるだろう。店にいつも通うのに未だ顔も覚えられない悲しさにみきりをつけ御徒町へ行く。顔も見飽きれば、原宿へ行く。では、いつまでもよそよそしく顔だけは覚えたが忘れたいならどこへ行けばいいのだろう。

 私が元気な時、私は過去の失敗を忘れている。過去の失敗は燃やそう。燃やして文章にしよう。恋のはじめは瞳孔をこじ開ける。無数の光線が網膜に照射する。一体全体僕は、恋は決して盲目ではない。認識は鋭利を極めエネルギーが湧き出る。ハイの状態。それを、涼しそうな目をして眺める者、無関心になった者、憎む者、嫉妬する者。様々な視線に瞳孔は耐えられず閉じようとする。恋は終わるか。恋と愛は別か。延長線上にあるのか。芥川の文体は私の精神を安定させる気がするのは確かなのか。マツコデラックスと韓国に旅行へ行き、仄暗い柵を越えて太ったマツコデラックスが穴に埋まってよじ登り逃れられなくなった。僧侶が修行をしている。その土の下には骨。眼下に火を帯びたような暖かい町。認識を正確に言葉にするか。唯一、期限のみが人間を解決させる。時間のみが。人間それ自体は解決などなしえない。人は何もなしえない。ただ、約束事に従ってその通りになるだけだ。約束事がなければ何も人は成し遂げられない。つまりは、契約だ。契約は世に溢れ、集団に埋没し己の個性から逃れられる。自分の面を見なくてすむ。毎日鏡を見れば人は発狂するという。集団は人間を鏡から遠ざける。人間関係のみが一人の人間をあぶり出すとき、人は自由を失う。問いは尽きない。

 

記憶

 記録には残らないが、記憶に残る人間というのがいるだろうか。記録がなければ、いなかったに等しいのが現代ではないだろうか。記録がなければなかったことにできるのである。因果関係を辿れば必ずそこにいなくてはならない人物も、昨今の論理を超越し無視する世界においては因果は重要視されず記憶は忘れ去られていく。統一的な歴史観が形成され人々の個性は失われる。幸福な人間は多種多様だが、不幸な人間はどこもかしこも似ていると言われる所以もまたここにあると言って良い。幸せになりたがるのは、イギリス人くらいだと言われる、誰が言ったのかわからないが幸せになりたいという人間の意を読み取る時人、幸せなんて先になればどんなものなのかわかるだろうと考える。欲しがれば欲しがるほどに遠のく。決して手に入らない。もし手にして仕舞えばあとは不幸せになるだけじゃないか。幸せを掴むとはついには不幸を孕んだとも言える。

分析の目的

 分析の目的は自分を相対化することだ。世の中に違う人がいて、私の価値観と全く違う人間もいる。私は何も好きじゃないから、誰も嫌いになれない。好きな食べ物がないから、嫌いな食べ物もない。なんでも、パクパクと平らげてしまう。好き嫌いがないというから、この世の中は生きづらい。世間を秩序付けるのはおそらく、暴力と醜聞であろう。刑法は世間を形成している。法律がなければ人々の心は安定しないだろう。はつらつとして隣で血を吐いた人間が死んでいるかもしれない。死ぬのが怖いか?死が怖いか。無視の亡霊に取り憑かれるよりも、私は死を選ぶであろう。どこかで見た他人の笑顔があまりにも他人行儀とイライラするのだ。イライラとはつまり、言葉にならない感情の発露であろう。なぜ、言葉にしないのか、できないのか。ある認識を予感はしているが意識の下に持って来たくないのである。なぜならば、そうしなくちゃ今の生活なる秩序が崩れてしまうから。つまりは、追求よりも安定を人はもとめる。一攫千金の島を目指して外に出るのは少数であろう。嘘でもまやかしでも浮気でも痴漢でもいいから、この世にとどまって、同じような趣味を持った人間たちのアホを見る目にさらされていたほうがいいのだ。私は人間に期待しない人間が嫌いだ。彼女らは人をコントロールしているつもりでいるのだろうか、飼い慣らされない自分の魂をうまくコントロールしているだけであり、全く制圧していないのだ。魂の解放とは、つまりは何を意味する。私は、私を殺したいと考える。西洋風に自分の意見を言うのも難しいことではない。日本人であればなおさら簡単である。ただ、西洋の真似をしようとしている人間のみ何も意見が言えないのである。彼らのは意見ではなく、どこかで記憶してなんとなく放り投げて頭の片隅にあった資料でしかない。考えられてもいない資料を渡されてこれが意見だという。そうか、これが君がどこからか持って来てコピーアンドペースとした意見なんだ、なるほど・・・。

 

戯れもほどほどにしよう。近頃かけない。書けないのはつまり精神衛生上素晴らしいことなのかもしれない。自分の気持ちを表に出す努力をしようという気力が萎えているのだろうから、別のことで疲れ果ててもいるのだろう。挑戦なくして意見は決してない。意見は彼らを拘泥させる。人を動かすのは意見ではないのを知っているのにそれを認めない。人を動かさないことに決めた。学問は自分のためにするものだ。労働は?他人のためにすることだ。だから尊い、という言葉をもたせてやり慰安してやらねばならない。全くもって、言葉の政治学であろう。言葉は決してそのような利用法に、世間の好き勝手のポピュリズムを嫌悪しているであろう。私もまた、言葉を救いたい。

世界よ

 世界について語るほど情報が高になり人々は足元が見えなくなってしまっている。どこの芸能人が何をしようと関係ないじゃないと言えなくなっている。有名人がやっていることを真似したがる心が貧しい。卑しい。自分をないがしろにしているじゃないか。テレビなんて、見てもいいけど。見てもいいけど僕は見てほしくないんだ。なぜならば見方が面白くないからだ。テレビのやり方はしつこさにある。やる気もないことに時間を費やし炭もしない部屋につき10万円も捨てて何をしているのだろう。僕はよくわからなくなってしまったのかもしれない。それはもうずっと前から予感していたことなのに。