アウトプット

相手の視点に立ってみよう

言論の自由

 日本は言論に自由はないからね。失言すれば人格に関わる。そりゃ話さなくていいことも沢山ある。おしゃべりなんて遊びなんだから、うるさかったらうるさいと言えばいい。でも、国会で野党の質問中のヤジは違うね。所詮政治もお遊びだっけ。ホモルーデンスさん。北朝鮮が今度は遊び場になるみたいだね。ミサイルぶっ放してメディアは取材に行けないから楽なもんだよ。金出して情報買ってさらにスポンサーつけるんだから、流作業だよな。糞情報大量生産工場だよ、テレビってのは。あんな汚物見せつけられて平気でいられる糞みたいな神経に成り下がったら、おしまいだね。おしまいだよ。やだやだ、北朝鮮で戦争するのに戦闘機やら軍艦やら大砲やら心臓やら使って、韓国は徴兵制だろ。ドキドキしてんだろうね。戦争なんてしちゃいけないってのは、軍人がよく知っているはずなのに。北朝鮮の軍事政権はまともに戦争なんかしたことないんだろうね。アメリカだってそうだね、戦争で儲けようったって無理だってのがわかったかと思えば、イラクに行っちゃったしね。アメリカ人ってのはバカだから。バカはバカなりに筋肉だけはあるから、難しい外交なんてやめにして核ぶち込めば金正恩は死ぬわな。でも、放射能ビンビンの場所に誰が住みたがるかね。農作物も期待できないじゃないか。そんな戦争しちゃダメだね。核は追い詰められた貧乏人が持つ武器だね。失うものがないからさ。ニューヨークに核が落ちれば大惨事よ。でも、平壌に落ちたところで早々他の国に影響は出ないからいいんじゃない。でも、俺は女が好きだから、バカな男どもの世話してる女が死ぬのは気に入らない。糞ガキはどうでもいい。糞ガキが死ぬとなく大人がいるけど、俺は泣けない。だって、ガキはガキだ。俺たち男と変わらない。でも、糞ガキの女はやっぱり別だな。女は死んじゃいけないよ。生きなくちゃ。それでも死ぬ女ってのに魅力は感じないけど、一物あるね。とにかく、核を使っちまえば、風評被害は免れないから、風評だけで成り立ってるニューヨークとか東京に核ミサイル打ち込めば、何でこんな糞みたいなとこに住んでたんだろう俺たちはバカだった、さ、広い土地で悠々自適に楽しく暮らしましょうしゃとなるかもしれん。人生万事塞翁が馬。でも、人が死ぬってのはダメだね。死んでもいいような人間は誰一人いないけれども、政治家ってのは誰一人この北朝鮮ってのをうまくやっていけない。糞バカツイッター民が気分で北朝鮮糞死ねうぜーなんて言ったところで生まれる憎しみが、核ミサイルの後押しをしているんだよ。まだわからないかな。ツイッターのバカどもはさっさと携帯ぶっ壊して、海で釣りするなり花でも植えてこい。糞みたいな日本語とかかずりあってると頭がいかれて将来陰湿な人間になってお前らが老害老害って叫ばれるようになるぞ。あと、糞童貞野郎のくそLINEスタンプ見てると腹たつから適当にスタンプ返してる。糞天使外国人も、似非心理学なる手法で文章打ってLINEから下手な日本語で朝っぱらから狂ったように同じこと「ボクモヤりたいよ!」ってくるから、この糞テンプレメッセージを送るのあきるまで糞ジャパニーズのエンターテイメント動画(カラオケ動画)を送り続けてやろう。

外国人

 外国人は自分勝手で糞だと思ってるけど、それ以上に日本人は苦楚だな。本当に、苦楚だよ。俺は外国人の身勝手さの方が自由奔放で人に迷惑かけてもそれが人間関係だと思うから好きだよ。比べて、日本人は他人に迷惑かけてませんよってなアホヅラかいて、お前のその表情がすでに不快なんだよぼけ死ねカスと言いたい。他人に迷惑かけてないわけないんだから。それすら受け入れられないのが日本人だよ。俺は違うって言うだろうけど、日本人の空気感としてそういうのが蔓延してる。人に説教するのもダメだね。糞童貞が何の了顕あって説教してんだよ。てめえはまずセックスしてこい。セックスも知らない、女と寝たこともないのに人生語るんじゃねえよぼけ。俺は絶対に説教なんかしない。どこかでしているかもしれない。でも、説教なんてしてると気分が悪くなる。自分だってできないことを相手にさせるんだから。関係がイコールじゃない。あとキャラが変わる糞野郎。糞汚い言葉使ってくる人間。あれなんだ。誰に影響されてんのか知らないけど、うるせえよ。俺は黙ってやっぱり一人で糞ツーリングしてる方が楽しいわ。男に限らねーよ。女だって、大概だな。まあ我慢はなければ自分が正しいと言って人にあれこれ説教だよ。女はまだ可愛いからいいよ。全然許せる。俺は性差別者だな。女に言われたらたまったもんじゃない。従ってればいいんだから。それを童貞男が何ほざいてんだよ。クズ天使外国人に近いな、女ってのは。クズ天使も女に嫌われたが、似てるからだろうな。自分勝手で、気分次第で、ルールが把握できない。俺だってルールなんて嫌いだよ。ルールの馬鹿らしさに心底呆れたらルールなんて説教したくなくなるよ。それよりも、何が楽しいのか俺に教えてくれ。どこにやる気スイッチがあるのか教えてくれ。どうすれば気持ちよくなれるのか教えてくれ。これは哲学書でもないと難しいよ。人間の認識を知覚レベルから変革するのは難しい。非常に困難。自分の考えを超越してどこかに自分の考えってのを放擲しなくちゃならない。言ってみりゃ、ここに書かれている懺悔録だってネットに公開して、誰も見やしないから書いてるんだ。そういや、BBCの番組で草食系男子なんて特集してたけど、それと対になって出てくる女がヤリマンだってのもおかしな話だ。食べることにしか興味ないとか言ってる女も出てきたけど、女ってのは平気で嘘つくし本音なんてすぐにころっと変わっちゃうからあてにならない。言葉の根幹を支えているのは古臭い男の約束ってもんだろうね。

 とにかく言いたいことを言わないでいると自分を見失っちまうよ。どこかに書いとかなきゃね。今や何のために書くのかというと、自分を見失わないために書くんだよ。誰かに自分の意見を伝えるためなんかじゃねーな。誰かに自分の意見なんか伝えてもちっとも面白くないからな。俺が正しい、とか言ってるやつなんて面白くないでしょ。こうして書くことで自分ってやつを見ていなくちゃ平気で付和雷同する人間になっちまうよ。人間ってのはすぐに影響されて自分をなくしちゃうからね。探すのは大変だ。自分探しっていうけど、ないもの探すんじゃなくて、これだって気持ちいいもの探すんだから一回じゃすまないよ、自分探しなんて。学生時代、自分探しの旅に出てました。そっか、自分探しなんて日頃からできる。自分を忘れることばかりできる。カラオケでしょ、糞つまらない日本のドラマに、安っぽいトーク番組ね。面白くもない。マツコデラックスくらい新しくならなくちゃダメだね。くりーむしちゅー上田の番組は、面白くないけど、大量生産されてるからよく目にするが、糞つまらない。でも、その糞つまらなさが今日も平和だなって思わせるんだよね。一筋縄にはいかねーや。

日本のテレビは糞つまらん

 糞芸能人が生き残るために必死こいて嘘付きまくってる映像見て笑い転げるバカ視聴者がいるから、テレビは成り立っているわけで、日本のテレビはゆるい空気の中ぬくぬくと生きているから本当に面白い番組はインターネットに任せましょってスタンスに成り下がってるのを見ると糞イライラする。もう電波売っちまえよ。

 でも糞って毎日するじゃん。テレビも毎日見ちゃうわけ。一家に一台が当たり前でしょ。テレビ無し生活は楽しかったな。なにせ見ている景色がニュースだったもん。ある一人の人のちょっとした変化に気づくのがニュースだろ。世の中の変化に自分で気づけるんだよ?うるせえ変な言葉しゃべって夜中にピンポンダッシュ決めて帰るやつらが月極めで放送料取りに来る糞どもも大変だな。

 嫌な世の中って言葉を言いまくってもう飽きたから、これからはもうどんなに親にも人にも嫌われてもいいから、思ったことを書いてやるって気持ちでいる。こういう主張って、うざいよね。勝手に心に決めときゃいいのにって思う。思うって何だよ。うるせえ。日本語は不具だな。使えない。心の言葉が日本語じゃ表現しづらい。何といったって、テレビで表現されている狭くて使い勝手のいい安っぽい言葉に影響されすぎてんだよ。 

 あーあ、テレビなんて糞だな。

 

  轟音の高架橋の下、僕は女の子と待ち合わせのところへ向かっていた。日暮れの上野駅中央改札口まで歩いていく。手帳を持った肌の浅黒い女が近づいてきた。女は手帳を開き子供たちの集合写真を見せた。学校を作りたいらしい。僕は財布から千円札を取り出し女に渡すと、名前を聞いてきた。名前の横の欄に「1000」と、女は書いた。他にも数十人の名前を垣間見た。学校ができたら是非僕の名前を校門に入れて欲しいと言うと、女は「オーケー、オーケー」とにこっと笑い、他の人のところへ行ってしまった。

 女が歩いてきた。リュックサックに長めのスカート、彼女だ。会うやいなや僕は彼女に小突かれた。着ている服が気に入らないらしい。少し歩いて、明るい通りへ入っていく。一様にジャケットと長いパンツを履いた男たちが酒を飲んでいる。立ち飲み屋の店員は愛想がなく、愛想がいいのはやっぱり浅黒い腕をTシャツから出した女の子だった。

ハイボールふたつ」

女はそれを聞くと、僕の言葉を真似した。そして、男たちの立ち込める混み合った店の奥に消えていった。

「お店のハイボールは薄めるから嫌いなんだ」

「なら頼まなきゃいいじゃないの」

そう言うと、カバンから財布を取り出し小銭を用意した。僕も慌てて千円札を取り出しテーブルの上に置くと、扇風機の風がお札をテーブルから羽ばたかせた。力なく落ちようとするお札を、床に落とすまいと脊髄反射で手を動かすとお札をかすめもせず力強くテーブルを叩いた。

「力加減もわからないの」

女は目をぐるりと回して、口をだらんと開けあきれて不機嫌な顔になった。

「帰ろう」

頼んだハイボールを置き去りにお店を出て歩いて家に向かった。

書くこと

 書いちゃいない。漢字をワスレッちまうんじゃないか。打つだけじゃないか。なんとなく「憂鬱」と書けば、意味はわかるが、漢字は書けない。それじゃ意味がない。指で打楽器。指がなければ、音声だ。それまでの話。

 写生文って何だ。見たままに書く。大人が子供を見るように書く。子供の発見。近代以前は子供はいなかった。子供はただ使えない人間だったのだ。もちろん使える人間は働けるってことだ。労働は、他人から労働を奪って初めて成立する。それを競争と呼ぶのか、奪い合いと呼ぶのか、騙し合いと呼ぶのか好き勝手決めればいい。学歴は、相手を騙すのにもってこいだ。誰も死ぬまで勉強と口にしながら、勉強なんてやめて土日は遊び尽くし、暇さえあれば好きなことやって暮らすのがいいのだから。大学の勉強で頭が良いと自惚れる能力が備わっていれば、十分であろう。

 それにしても、世間は騙し合いだ。CMの商品の大半は不必要であろう。インターネットが無くなっても、俺は平気かもしれない。誰かに自慢する写真やら文章がないから。発信したい自分の気持ちなんてこれっぽっちもないんだ。そんな発信しなくちゃ意味を持たない物はゴミ箱にポイだ。

 ネットもうるさい。面白いことを言えばいいのに、真面目になにかやってる。空気を読めと言っているのは自分かもしれない。価値観は変わったのか。ただ、ルーズになっただけだ。当たり前だ、道なんて調べなくてもネットで見つかる。ネットが現実世界へのアクセスをも容易にしたのだから。ネットの良し悪しは使い手次第だ。しかし、議論は本当に自分が参加しない限り何ら意味がない。そんな意味もない議論に巻き込まれて右往左往するのは面倒じゃないか。やめたがましまし。

 じゃ、何が面白いのか。読書じゃないですか、やっぱり。本は面白い。世の人がいかに狭い見識で生きているのか。そして、それを感知する自分の両県と度量の狭さに風を送り込んでくれる。

慎重にかつ丁寧に

 もし隣の家に、ミサイルをぶっ放すおっさんがいたら、それは警察に連絡するだろう。私的制裁は、戦いを生むのだから。

 一番手っ取り早いのは、北のミサイルが気に入らないのなら、自ら働きかけることだろう。しかし、日本政府はいつまでたっても、アメリカ抜きに北朝鮮と話をしようともしない。

 そりゃ、私たちの見えないところでパイプがつながっており、話し合いも十分になされた上で、北朝鮮にミサイルを発射させ、政府が国民を畏怖させ政府への支持を集めるのもできよう。

 この見方が、あまりにも荒唐無稽だと切り捨てようにも、人間はあらゆる想像できる産物を実現してしまう生き物だから、ないことはない。ないのは、根拠だけである。

 アメリカを仲介させ、北朝鮮のミサイル発射を抑制しようとするのは、自らの国が直接に相手の家に文句を言いに行くよりもマシだ。アメリカも自国内が忙しくなれば、遠い東アジアなど気にしちゃいないだろう。ヨーロッパから特に相手にされていない日本は、欧米人の集まりであるアメリカに新活路を見出した。気さくなアメリカ人はやはり、心をひらいてこの複雑怪奇であろう日本を理解してくれる。それは、アメリカへの甘えでもあるのだ。上手に甘えている方が得策であるにもかかわらず、北朝鮮は自立してアメリカに追従する日本を情けないと思っているのであろう。

 しかし、リーダーがテクノカットのふとっちゃじゃ誰もついてこない。もっと凛々しい人がリーダーでなくては、まったく説得力がない。

 どこの国もミサイルの一つや二つ持っているだろう。北朝鮮が対話に応じない限り、そのスイッチは闇の中で誰に押されるかわからない。その疑念が北朝鮮にはある。一方で、生きることに執着なく落ちて死んだらそれまでよ、という気持ちもあるのは確かだ。税金を増やし国民を働かせる政府は、国民の生命と財産を守ろうとするだろう。大事な、ピクミンを減らせば自分たちの生活に響くのだから。

 この世は本当に、金が絡むと面倒が起きる。面倒は嫌いだから金は捨てよう。

なんだかんだ楽しかった

 書くという行為には、多分に嘘が書かれてある。自分の頭の中の状態を整理整頓するのに書く行為は良いだろう。しかし、良いという観念をどうすれば感じられるのかが疑問である。ある一つの結論に導かれるのは、どこか無理があるに違いない。例えば、人は考えて行動しているとされるが全く違って行動して考えているのだ。頭の中で何を書こうかと考えているときに紙にペンで文字を書き連ねているのだ。私はよく人の話を文字にしようと努力している。講義でも、相手の話しているのを口述筆記するのが習わしだ。それのどこが楽しいのかと言われても、楽しくてしょうがないのだ。自分を忘れられる感覚は実に、素晴らしいの一言。一つ言えるのは、ネットの記事の悪文だけは読みたくないということ。情報の断片ばかりを寄せ集めて、それが本物であるのか偽物であるのか審議することもなくただ、情報を無条件に真実だと受け取り、または無条件に嘘だと偽って、好きなように取捨選択し、アホみたいに判断力を喪失させるには、情報化社会はあまりにも素晴らしいと思われる。どこのお店が美味しいのか美味しくないのか。それは、君の舌が決めることだ。短時間で大量の情報を頭に仕入れて、休憩中もせわしなく頭を錯乱させなくちゃ暇を持て余す感覚を忘れているのではないだろうか。私はあくまでも、いろんな人が倫理だとか、意見だとかを捨てて相手の自由だから口を出さずとしているスタンスに違和感を感じている。相手に交わる気持ちが全くないのだ。自我にしがみ付いている。それは、不自由だ。風通しの悪い物置にずっと住んでいるようだ。物置といえば、ある芸人が貧乏時代親子3人で物置に住んでいた話を聞いた。排泄物はたらいにして、生ゴミにして捨てていたようだ。そんな話をテレビで聞いて、何になる。やたらに、違和感のある情報ばかりを集める行為はアホだ。全く、聞く耳を持たない私のような人間が何をかけるだろうかと思う。私がいろいろ書いて、誰からも何も言われないようになって仕舞えば、私が書く理由はないのだろうか。そうではない。私はあくまでも、私のために書いているのだ。しかし、自分のためにする行動は弱い。長続きは決してしまい。つまりは、一人では何もできないとする結論に至るのが定石だ。そうやって、自分の可能性を他人のせいにするのは人間のよくある傾向であるから、自然にそれをやってのける人間は常識人である。つまりは、常識人は不自由であり、自由を獲得するやる気を失った出来損ないとしてもいいだろう。私はそう思っているのだけれども、ここで賛同者を集めてもしょうがない。近頃は意見が多様化して、決着をつけるのもやめにして、討論番組も、ただの揚げ足取りと、取材不足からくる妄想、そして、語感を失った人間の叫び声にしか聞こえなくなってしまった。現代人は文字を失い、動画や画像でものを理解できると信じている。しかし、誰かに即興である事実を伝える際に、口ほど早いものはないのである。口から出てくるのは色付きの写真でも、動く絵でもない。言葉である。言葉は、その脆弱性に相手の想像力をかきたてる。なぜ、想像力を養えと言われるのか、想像力が重宝されるのか。それは、想像力は人間を恐怖に貶めもするし、相手を喜ばせる無から有を生み出し自他共に気持ちいい感覚を与えるからである。言葉のふとした間違いから生まれる奇妙な出来事さえ面白いのだ。画像や、動画は相手に一定の事実を与える。そこに解釈の余地はあるだろう。しかし、映像に問うても何も返ってこない。もう一度みろと言わんばかりに、再生するだけだ。つまり、映像は人間の想像力をかきたてない。ただ、リアルに近い模擬体験を人間に与える。それは感覚を伴わない。映像の氾濫は語感を喪失させるかもしれない。ある種の、語感喪失により救われる人間もいるのは確かだろうと思われる。なぜならば、言葉に苦しめられ束縛される人間も必ずいるからだ。しかし、そういった人間こそどこか親しみを覚えるのもまた確かなことだ。言葉がその人の中で生きているからだ。それで死んでしまったとしても、その人間は何かを大事に育てていたのだろうと思われる。それは、私が大事にしたいものだ。だから、三島由紀夫の死は衝撃であるのだ。三島の死は、言葉の語感を失い歴史を忘れ今さえすぐに忘却される現代において、時空を超えた文字のもたらす至福の火が消えるのを嘆くものに衝撃的なのだ。

 そう、私は描けばいいと思っている。一言一句、噛みしめることをしない。なぜなら、歯がないからだ。虫歯になり、何もかめないのだ。ただ、飲み込むだけ。味なんてわかりゃしない。生きるために、ただ飲み込むだけ。文字がそうであるなら、私は文字を食べちゃいない。飲み込むだけ。あるのは、喉を通る感覚。だから、書きまくる。言葉に何の意味も持たせず。