アウトプット

相手の視点に立ってみよう

「価値観っておもしろいわね。ほんとうに、受け入れ難い価値観ってないかも、私って心ひろめ?最高じゃん。地球がおうちなんだから。つまんない顔してないで、つまんない偏見捨てちゃってさ、散歩行こうよ。感情の拘束もいらないかも。悲しいから泣く、泣くから悲しい。悲しさなんて、デフォルト?葬式って、なんであんなに壮大なの。金かけさせるため?葬式ってさ、死を美化しようって感じかな?自分が死んだら、お経だけあげて終わりでいいな。お経だけはいるかな。宗教的かな。でも、お経だけかな。そんな感じで、葬式も面倒くさいことやらせるんだねーって感じで、老人の価値観学んでどうするんだ言って話。おじんは、おしっこ漏れそうになったらトイレに駆け込もう。いずれ、我が道よ、おじんも、おばんも。

 手を抜く技術を知るべきだ。何も、熱中するのも悪くないが、今の私には手を抜くのが最善だ。なぜかって?そんなの知るか。

 

「私って、本当にバカよね。人生損してるみたい。適切なアドバイスがあればもっと良かったのに。でも、ダメね。アドバイスを聞いたらもちろんそれに従うけれども、訳が分からないうちはいいのよ、でも、アドバイスってほんとうに始終関係でしかないように思うの。あそこにあるのは、私に従えばいいことあるよくらいのことなのよ。ほんとうに、どうかしてるわよね。結局、失敗するじゃない。アドバイスなんてそんなもんよ。そうしたら、アドバイスした人のせいにするの。いろんな人が私をクズ呼ばわりするけれども、私は違うと思うのね。え、誰もクズなんて言っていないって?たしかにそうね。でも、わたしは思うの。わたしが思っていることって、本当は私が思われていることと同じだって。つまりね、自分をとっても美人だと思うでしょ、そうすると自分は美人なのよ。でも、他者が介入してくるじゃない。ちょっと待って欲しいの。他者の介入の前段階があると思うの。それって、他者を扱うってことね。例えば、自分美人でしょって思ってる。私は。それで、すっごい美人がきた。男もやってきた。さて、3人だ。美人は、誰かって話になるの。美人っておかしいじゃない。ほんとうに、おかしいわよね。誰が、って言葉ひつようなの?私は美人である。それって、言葉としてはちっともおかしくないわよね。でも、3人の中で、美人を決めるのは、男にあるの。そして、美人に価値を置くのは、美人を評価された女の方よね。男も、すこしは美人である女の隠してるおっぱいやマンコを見れたっていうことでね、自分の価値を間接的に、所有とは男さんたちは思うのかしれないけれども、とにかく、そういった体験に価値があるのよ。賢いだとか、バカもそうよね。自分が美人だと証明したいなら、不美人を用意して、男に君は美人だねとか、臭いセリフはかせなくちゃならないの」

「それって、超面倒だね」

「面倒なの。いい家庭ですねっていう時って、すごく怖いじゃない。その人、私の家庭がいい感じかなんて知るはずないじゃない。ベッドに監視カメラでもしかけているのかしらっておもっちゃうわね。もちろん、お世辞なのはわかるけれども、それを本気て言っちゃうのって素直でもあるけれども、私ってそういういい家庭を演じなくちゃいけないのかって負担にもなるわね。私は、つねづね思うの。人を褒めるときはテキトーでいいんじゃないかって。褒めないってのは、素直じゃないと思うの。でも、素直のすごいですねってほめて、あとは褒めた人に気に入られるような真似は・・・」

「姉さん、姉さん、ちっとも面白くない話にまた舞い戻ってきているようですよ」

「あら、ほんと。もう、これだから。つまり、yesマンを探す旅に出るの。私だって、人生をすこしでもいいわねって言ってくれる人がいたらどれだけ肩の荷が降りることやら。人って、本当に余計なアドバイスばかりするじゃない。それって、先生じゃないのよ。自分に従いなさい。私生活からなにまで。そんな人間ってムカムカするの。自分がやってることを悪いなんてちっとも思わないの。でも、すごく狭い人なの。価値観はガチガチで、常に周りに人がいてそれを肯定してくれなくちゃダメなの。冒険なんてできっこないわ。サバイバル能力ゼロよ。生きていけない。だから、既存の社会制度にしがみつくの。だらしないわよね。嘘ばっかりついて、その嘘がちっとも気にならないくらい鈍感になってるの。でも、変なのよ、冗談がちっとも通じないの。ちょっと、おかしなこと言うと本気になって怒ってくるのよ。それくらい、価値観がガチガチで相手の価値観なんてクズだと思っているのよ。そんな人間の方が、よっぽどクズなんだと思うの」

「でもね、クズをクズ呼ばわりする人も同じかもしれないよ」

「そうかな。私は、クズ呼ばわりする人の心がクズであるだけなんだと思うの。例えば、かっこいいと言われる時、頭にかっこいい人が思い浮かぶわよね。イケメンが。自分がちっともそれと違うから、笑っちゃうじゃない。でも、私が美人って言われると、それは絶対なの。まあ男の人が相対的で、女の人は絶対的なのね。だから、比べるってのが本当に女の人は苦手ね。何が良くて何が悪いのか、それって、女は比べるっていう人いるかもしれないけれども、間違ってるわね。その代わり、間違いなんてないの。どれも、正解なの。なぜって、絶対評価だからよ。価値観も、絶対評価なんだから、どんな悪いことでも、その人にとっては良かったりして、逆に、いいことでも、その人にとっては悪いことだったりするの。女の人の価値観って、絶対的なの。でも、それじゃ辛いから、嘘でもいいから、相対的にイケメンとか言い始めるわけ。でも、イケメンじゃない男を抱くだけのちゃんとした囲いはもってるの。自分が評価される場所と、自分が評価を免れる場所をちゃんとふたつとも用意しているの。だから、楽なのかもしれないわね。でも、感情は移ろいやすいからちっとも当てにはならないけれどね」

「姉さんの弱いところは、感情が入ることだね。感情って、ちっとも本当のことを言わないじゃない。好き嫌いって、感情じゃないのよ。直感ね。感情ってのは、楽しいだとか嬉しいだとか、作れるもの。直感は、すごく論理的なんだ」

「あなたってよくわからないけど、そうかもね。私はすぐに相手の真意を読み取ろうとするのがいけないんだわ。挨拶だと思っていればいいのよ。ちっとも感情もなくってわけには、いかないわね。どこかしら、挨拶にも感情は載せられる。情感豊かってのは、その文字通り感情的な人をいうのね。生理の女は怒りっぽいから感情豊かに思われているのかもしれないけれど、それは違うわね。男だって、片足失えば落ち込むでしょ。それと一緒よ。また、生えてくるんだから」

「姉さんはちっともかわらないな。独り言が大好きで、それで、世界を見ようと頑張っている。しかも、毎回失敗しているし。また、失敗するんじゃないかって、怖がっているんじゃない」

「そうね、でも、怖いのも楽しいものよ。失敗だって、成功よりマシよ。精巧なてしたって、先がみえちまいますわな。下手も絵のうち。バカも人間よ。無理に平身低頭することもないわ。誰にだって同じようにぶち当たればいいのよ。それに、そんな芸当無理な時は適当にすればいいのよ。決まりが多すぎるは今の時代は。排除の法則だなんて論じてもしかたないの。つまらないわねー。バカになってもいいのよ。バカになってもやっていけるんだから」

 

 

きょうもくだらない記事が散見される。もう、いい加減にすればいいのにと思う。書籍化するほどでもない知識だ。いや、書籍化するだけの労力をかけるよりも楽に簡単に人の目につけばそれでいいのだ。文章も楽に書けるようになり誰でも多くの人にみられる環境を作ることができるようになった。ネットの世界に、展示会場を作り設営しているようなものだ。なにも、私はちっとも嘆いていない。どうなるのかというのが非常に退屈に思われる。謎のない世界はちっとも面白くないし、それに、男女の駆け引きに代表される金の駆け引きもちっとも興味がない。どうしたものか。やっぱり嘆いているではないか。私の文体がもう少しまともであれば、良かったのかもしれない。文体は、私を表すとでも?もう、私の思考体系が非常に滑稽なのだ。だから、いつも鬱々として日々を暮らしているのだろう。前頭葉が熱を帯びていた時代も、とうの昔に過ぎてしまった。今は、目を半目にだらけて、ものを書いている次第だが、それも悪くない。人間の神経は本当に、健康は、ただ、食べ物だけからやってくるものではないのを、如実に証明しているではないか。いいものを食べればいいかもしれないが、いい関係も非常に大事だということだ。

 

私は非常に強い憎しみを持っている。例えば、高校時代。私は部活に入るか、何も考えないでいた。練習に参加し、球拾いもした。ある日、早い段階で、部活の顧問が、部活をするのかしないのか尋ねてきた。私は、非常に権威的なこのメガネをかけた、こざっぱりした髪の白衣を着た男に、憎しみを持った。部活に、入るのか入らないのか。これほど、馬鹿げた質問はない。私は、拒否されたのだと今考えれは思ったのだろう。あるいは、私は、彼の権威を疑っていた。尊敬もしない、練習もせず、顧問という立場しかないこの男の言うことを今後きくのかと、問われた気がしのかもしれない。私は、練習に顔を出すのをやめた。それは、大正解であった。下らない人間関係の外は、非常な妄想が広がっていた。人間関係の妄想を信じ続けるより、一度外に出たので、より客観的になれた。そう、私は思った。それは、自分を褒めているのか。客観的な私とは、えらいのか。馬鹿げている。つまずく場所でもないはずだ。私は、おそらく、人間のやる気に非常に興味を持っている。動機だ。なぜ、それをしようと思ったのか。なぜ、バレーをやらないのかではなく、なぜ、バレーをするのか。私は精神的に自殺してしまった気がする。気がするので、実際はどうだろうと検証してみても無意味だ。私の心は、いったい誰が引き出すのか。どうしても濡れない女は、男が嫌いなのだろう。そう考えるのが、わかりやすいのか。非常に抽象的だ。

 

意識を投げ捨てよう。心からも離れよう。

 

ラカン精神病者を「無意識の殉教者」と呼ぶ

 

世間への不満

「世間ってホント不満だらけ。みんなつまらない常識にしがみついているんだもん。それって、息苦しいのよ。どうしてかわかるかしら。わからないかな。それって、結構あなた頭おかしいってことよね。常識の裏側にある、非常識な振る舞いに不寛容なのよ。それを、悪いことだって頭ごなしに怒り狂うの。怒りって、嫌い。怒る人間が嫌い。いかなる理由があれ、怒るのはまちがっているわ。それは、戦争と一緒よ。いかなる目的の元であっても、戦争をしちゃいけないの。それが、悲しい理由からであっても英雄のも右側からであっても、戦争はしちゃダメなの。なぜかわかるかしら。戦争しても、何も変わらないからよ。戦争がインターネットを生んだなんて嘘ね。インターネットは、人間を愚かにしたのよ。知識ばかりを、追い求める。価値のわからない人が増えた。価値は無限大だって?そんなことはないよ。価値は、君の許容範囲の広さみたいなものじゃない?って、また、若のわからないことを言い出す癖が治らないのはもう病的だからみなさんあきらめてくださいな。こういう人間がいても、別に痛くもかゆくもないし、無視してくださればいいのですから、でも、せめて無視されるのだから、その排除の心にそってすこしはわたしの妄想も展開されるべきなのよねっていう話をしたいだけなんだと思います。私って、本当に馬鹿ね。バカだからいろいろ考えられるのよ、頭がいいと評判のいいものしか口にしないでしょ、あれって、絶望的ね、自分の生存本能を殺しちゃっているのと一緒じゃない。どこでも暮らしていける人と、お家のベッドの上でしか寝た切りて生きていける人って、いったいどっちがいいんだろっておもったことないのかしらね。私は、どこでだって生きられる、変なベッドを作らない人の方がすごく好きなんだけれどね、私は、それを好きってだけで十分だと誰が言ってくれなきゃ、私何かしなくちゃならない気がするの。それって、すごくだれからも好かれることじゃないから、私のように、常に公平に生きようって大きな心を持っている人からすれば、とてもつかれるの。平身低頭で新聞を売りに来た小汚い男がいてね、わたし、家にいませんから新聞読めないんですって言ったの。ほんとうにいないんだもん。それでも、早口で全然話す機会を与えないのね。平身低頭って、無礼よね。礼がないひとって、すごく嫌い。だから、バタンってドア閉めちゃえばいいのに、できなかったの。ずっと話を聞いてたの。私、心の汗かいたわ。すごく疲れた。こんなに疲れるんだって思ったの。絶望もしたわね、こんな男って信用ならないじゃない。どうすればいいんだろって。心配と同じよ、この男でさえ受け入れてくれる女がいなくちゃ、どうするのって思ったの。本当に迷惑な話。人の家に来てさ、心配だけ与えて、結局ケロっとお隣へ行くのよ。あたしこれが普通なのかと思っちゃうから、本当に忘れたい記憶でもあるけれど、嫌いなのよね。ああ、嫌なことは忘れなくちゃね。慣れるしかないのよ。ほんとうに、私って変よね。どうすればこうも変になれるのかしら。白髪が増えるまで、生きるのかな。わかんないけど、ほんとうに私って、なんか女の子みたい。なんの話してたか忘れちゃった」

チャンスなのだろう。言葉に対する反応速度は遅くなるが、洗練された返しができるのかもしれない。僕はラカンを読まなくてはならない。自由とは、常に流れていく。つかみどころがない。論理的であるところだけが、唯一の取り柄である。非常に困った話だ。いったい何をすればいい。つぎはぎだらけではないか。一度、静かに施工してみよう。おそらく、強い風が吹いて、その情熱は容易に消えるだろう。その時、私は絶望する。しかし、絶望も悪くはない。皆が、絶望すれば、絶望は常識に変わる。今の世の中を、変えようとする気持ち。今が、すべてであると考える者たち。それは、安泰だろうか。絶望からか。どっちだって構わない。私は情熱と堕落を好む。勤勉さと、冷酷さはいらない。私は非常に繊細だ。繊細であるがゆえに、私の心は捉えがたい情熱を持ち合わせられない。冷たいコンクリートにぶつけて割る卵のように、私の頭は飛び散ってしまう。思考が散乱する。自分がなくなる。意味不明だ。自分は確かにある。しかし、ないのだ。以上のような考えに、とらわれた。病気のようなもの。診断名は、偏見と行こう。それか、プラシーボ効果の反対だ。回復を願わない患者だ。私は常識が我が身に宿るのを非常に恐れるだろう。簡単な神話に身を委ねるだろう。私は皆が嫌いだと、そう考える。非常にアホらしい。考えが暗すぎる。だから、明朗になれない。不安も、快活さも持ち合わせないゾンビだ。一切傷つかない心を持ち合わせた、機械のような人間だ。常に合理的で、間違いなどない。謝罪など決してしない。悪さえ、存在しない。なぜ、謝るのか。相手が迷惑を被ったのか。ならば、迷惑を被った相手の馬鹿さに、自分が頭をさげるのは、ご愁傷様です、といった意味なのだ。私は、常に過剰であった。ついには、過剰さえも意識されなくなった。その時、私はすべてを嫌悪した。この感覚は記憶に残るか。わからぬ。反応速度が変わる。経験が、私を常識的にする。もしくは、私を、非常識的にする。経験は、一種、結果を予測した仮説の実証だ。偏見から経験は作られる。絶望した。人間の内心に自由はない。自由を、ラカンは笑った。自由よ、私は自由が欲しい。願うほど遠くへ消失する、恋人よ、自由よ。願うほどに、変質を嫌う自由よ。自由は掴めない。山の上に光、海の中に潜り、風の中に消える。風のように思考する。経験はちっとも役に立たない。ボールを投げ犬が追いかける。経験とは、ボールを追いかける犬を言う。自由とは、ボールを追いかけない犬だ。それも、ボールを眺めもしない。飼い主ばかりを見ている。常に、マジックは人の目をそらし、カードを服から取り出す。私も、マジックに陥る。人間のごまかしは、人の目をそらすことだ。マジシャンも誤魔化される。それが、偏見だ。意見を求めない。我が意見を求めない。理論付けて記録しようか。名案だ。しかし、誰が。もちろん、自己責任。私が引き受けるべき。ただ、意味がない。意味が必要だ。やる気も必要だ。行動とは、なんだ。行動とは、言葉を壊す作業か。言葉がある。人間がいる。言葉は動かない。言葉は動かないのだろうか。意味を共有する。常に自分自身に否定的であれ。自分の考えと逆に行動せよ。思考とは、常に自分を欺く。悪者はいい者に仕立てる。真実は必要か。哲学と命名するのは、天才の発想だ。雄弁なのは、相手を思っている時ではなく、相手についてどうでもいい感情を持っている時だ。非常に好意を寄せた異性には、どうしても、本当のことしか言えないのだ。本当を言おうとする。気持ちの真意を伝えるのではない。言葉が足りないのではなく、見つからない。恋人は、常識人ではないのだ。常に。隣に座った夫人と、駅のトイレでセックスできるはずがない。性的関係こそ、オアシスだ。常識を外から眺める。人間の騙されやすさを、常識が救う。人は常に騙される。憤怒は馬鹿げている。当たり前ではない、毎日を過ごすのが常識人だ。彼らは非常に豊かな心を持っている。隠し持っていて、表に出すことがない。彼らこそ幸福をみつけられる。幸福は、免許である。幸福を維持できる力が必要だ。

吐き出したもの

私は常に書きすぎる。特に、心理描写なんて雑だ。雑というのか、感覚としてそう思われるのだ。自分が書いていて、なにもしっくりこない。納得のできる文章ではないからそうなるのだ。究極は、最高のおナニーネタを探し回っているのかもしれない。自分が楽しくなるネタを探して走り回っているのだ。政治もそうかもしれない。どんなに悪いことがあっても、どう法律や世間の流れを汲んで言い逃れしたら、うやむやにするのかを考える。徹底的に追求することはないので、

禍根は残る。未来の子供達のために二酸化炭素の排出量を減らし、国土が海に犯されるのを防ごう。異常気象も二酸化炭素上昇のためだ。確かに、そうかもしれない。政治家は子供をも利用する。天気が悪ければ、外で遊べない。学校へ行くとき傘が必要になる。必要なら、傘をさせばいい。外で遊べないなら、体育館で遊べばいい。なんのために施設があるのか。閑散として、建物を作るだけ作って、そこで楽しく遊んでいるのは特定のお友達だけじゃないか。

 

私がいいたいこと?そんなの一言もありませんよ。セックスすれば子供も生まれるし、髪も切らなければ、アホに見えるでしょう。世に、闘いの意思がないのです、私には。常に、自分は従ってきたのだからという自負がありますが、なんの役にも立ちません。学生時代何をしましたか。よりも、これから何をしたいですかと問われても、どちらも答えようがない。なにせ、自分が、切実に何かを変えようという気概もそういうった境遇にもないからだ。だから、どうでもいいことをきかれたら、どうでもいいですね、何か起これば、何かすらします、くらいのことしか言えない。どう考えても、いろいろと人間はだましあって、生きているのだと考えると永遠に疲れる。私は騙し合いに疲れたし、それを勘ぐって相手に真理を読む解くようなことはしたくもない。自分が本当に思うことだけをすればいいのだろうと思う。しかし、金がそう人を解放させないのだ。世界の数パーセントが金を持って、小金稼ぎが頑張るのである。それで社会は回っている。社会は回ってさえいればいいのだ。忙しくて、何も考えることもできない、具体的には、読書ができない。ネットニュースばかり見て時間を過ごす、ゲームをして時間を過ごす、テレビを見てといった風に、一種、生まれてきた人間は諦めの気持ちがあるからうまくやっていけるのだろうかと勘ぐる。もう、私は世の中を評論するのに興味がない、ただ、偏見を持っているであろう人物をめちゃくちゃにやりこめたいと思うのだ。そのためには、決してイエスとは言わないことだ。映画ではハッピーエンドであったろうか、イエスマンは。彼は、女を裏切る。まあ、どうでもいいことだ。うらぎるにしても、それさえも一つのフェイクだとしたら、一体、何を人間は好むのだろう。決して、あるものに満足しない。いずれ消えていくご飯をありがたがるのは、興味深いものである。ここに書いても意味がない。じゃどこに書くのか。各場所がないから困っている。紙に書けばいいのか。手を動かすのは、脳に良い。良いことを純粋にすればいい。しかし、良いと言われることが次第に悪くなっていく、もしくは、初めからよくもなんともないということになる。しかし、手で感じを書かなければ忘れてしまうじゃないか。だから、書いたほうがいい。微妙な曲線であるとか、手の繊細であろう動きは脳を活性化するであろうし、脳の活性化は喜びでもある。一番良くないのが、観念論に走ることであろう。世界は、であるとか、愛は、であるとか、そういったことに書かずりあっていると最初のうちは本当にいい気持ちになるが、後の方から何も聞こえなくなる。意味はわかるが、意味が分かるだけなのだ。それに対して、リアクションがないのだ。世の中は、相手が抱えている問題と呼ばれる病的状態で、胃もたれし顔色を悪くし心配させていることを、吐き出させること、栄養を与えることで成り立っているのかもしれない。フラストレーションを回避しても、根元にストレスの生える木があるのだから、それは気晴らしであって、喜びにはならない。私は、脈略のない文章を書くかあら人に読まれないし、自分も一応一人の読者であるから、この文章はなんてひどいんだと思わないでもない。しかし、書きながらにして頭にポツポツと記憶が浮かんでくるのだ。台風の日の鹿児島であったり、その帰りに土砂降りに高速道路で土砂降りに遭遇したり、あるいは、別の日に、高速道路で時速百九十キロ走っていく日産キューブを見て、こいつは頭がいかれているのかと思ったりもした。私もバイクの乗り方をたまに忘れてしまうので、ここに書くのであるが、そうはしても意味がないとは言えない。私は書くことで脳に書いているのであって、決して掲示板に書いているのではない。例えば、私は講義中に口述筆記をする。それだけで、終わりだ。何を考えもしない。あるのは文字だけである。それを討論するとなると、しかし、そういった議論になったことはないので、また、避けたい状況であるのでしかたない。この国の人たちは陽気ではなく、陰湿でもなく、ただ、腐った雑巾のように、何か、一つの価値観を持っている。話が非常に面白くない。独自の見解を見せれば、異端者と思われる。面白ければ救いようがある。面白くなければ変な奴だ。たぶん、普通であるのが勝ちなのであるが、今まで普通であった人間がリタイアした先に変人になったとしたら、普通をありがたがる人間の先を行っているのであるから、別段変人であるのを卑下することもないが、普通は自分が変人であるのを卑下したほうが、普通らしいので、やはり普通に落ち着くのだ。新しい世界はもうないのだろうか。非常に難しい。恋すれば、森が海が美しく見える。絵が、美しく見える。それは恋を通しているからなのだろうか。わがままになれば、そう見えるのだ。本当に、嫌なことをしていれば、絵は値段でしかなく、多恵が時間の中作られて、動機不明の、俺だってかけるといったところに落ち着くであろう。何もテーマなく書いているので何が口から飛び出してくるのかわからない。私の口から飛び出してくるものなんてたかが知れいているだろうと思う。法律かも金持ちの奴隷になって、あくせく働いて裁判官の顔色見て大変だろうと思われる。一方で、法律的にある貧しい人や社会的に不当な扱いをされている人間を救うのはやりがいがあるように思われる。金を追い求めるのは結構だ。しかしそれは、金を今まで手にしたことのない人間がすることなのかもしれない。金儲けに走れば、より金持ちに利用されるのだ。そうじゃないか。興味もないのに研究をして、会社からもらった金で女と遊び、金をチラつかせて女を呼び、ホテルでセックスしたり、内心は、俺はお前を金で遊ぶ女だと思っている、女はそんなもんだ、と粋がっているのだろうと思われる。もしくは、善人で、世の女性のために自分があらゆる苦しみを担ってやろうと十字架にかかる人間もいる。女からしてみれば、金持ちの男の愛は信じたいし、善人の優しさもまた信じたいがどこか胡散臭さがあるのだ。そういうもんだ。世の中は実に胃の中に何か汚いものを入れて喜んでいるのだ。私もまたそうなのだろう。結局善人は悪人になり、金持ちは貧乏人に成るとすれば、より金持ちになりたければ、貧乏人になり、善人になりたければ、悪人になるしかない。より、善人になることは、善人が悪人であるということだ。再び、話が善人だとかつまらないことに及んでいる。心の底から善人も悪人も同じだと思っている。警察も、犯罪者も同じだ。市民も犯罪者も同じだ。人間は、もし、人間同士つながっているから人間であるとするならば、犯罪者もどこかでつながっているのだから、人間である。何が言いたいのだろう。死刑をしろという時、死刑を代わりに自殺者志願者が買って出ればいいのだろうか。それでは、悪人を殺すという、人間たちの要望にお応えできないのかもしれない。私の日本語のチョイスがおかしいのは、テレビとネット記事の読みすぎなのかもしれない。なるべく、日本語の記事は読まないようにしている。誰が書いたの書かれてもいない。いずれ来るかもしれない経済破綻も、世の中すべてが破綻すれば、おそらく日本人は安心して破綻するであろう。日本が、世の中に先んじて破綻すれば、相当嫌な人も出てくるであろう。なんと、腹の中が気持ち悪いことか。何が観念だとか、もうまともに思考ができないのか、私は。ただ、書きまくって書きまくってそれが後世に伝わるのかどうか知らないが、それだってどうでもいいことなのだろう。人に読ませる記事を書くよりも、自分の書いた記事が読まれるところに行きたい人間だ、人に合わせるのも嫌いであるし、人を矯正して合わせる気もない、とするならば、人間同士は本音でコミュニケーションすればいいのだ。しかし、恋に関してはやめてほしい。最後人間の安全地帯までを壊してほしくはないのだ。めいめいが持っている希望や夢にケチをつけると人間は怒る。それが彼のよりどころなのであるし、なぜ生きているのかという問いに対してのひとつの確信めいた結論なのであるから。それにケチをつければ、おそらくソクラテスは、そういったことをしたのであろう。金を稼ぎ、自分が一番弁論がたつといった雄弁家たちは、この、ソクラテスというなんとも奇怪な男の前では、太刀打ちできなかったのだ。もはや、嘘はやめろ。本心のままに生きろ。そう思うのだ。私の本心はなんであろうか。私について知ること、それは社会全般について知ることでもある。他人の考えに、寄り添っているような真似はよしたほうがいい。特に、こんにちは離婚が流行っているが、それは、自分の意見を捨てきれないからでもあろう。結婚なんてする必要はない。ただ、集団的に結婚するのだ。だれも、個人的に結婚なんてしないであろう。結婚制度がなくなれば、どうだろう。浮気も、不倫もなくなるじゃないか。生まれてきた子供は、皆が面倒を見ればいい。他にすることがあるだろうか。たすけあうにも金がいるのだろうか。娯楽を追求するために。ゲームに課金をするのと、バイクに乗るのはどう違うのであろうか。感覚的な違いはあるだろうが、好きなことをしているのに変わりはない。いったい、どうしてしまったんだ世の中は、と言ってみたいが、昔からもそうなのかもしれない。ただ、職業選択の自由はあまり良くなかったのかもしれない。それは、人に努力をさせ疲弊させ慣れないことを死ぬまでさせることになる。職業が、その人の魅力になる。おそらくは、資格社会がいけないのか。しかし、それは無理な話だ。人よりも抜きん出ようという気持ちを持てば、地獄である。好きなことをして暮らせばいい話だ。それに、ある程度の常識を持っていれば働ける社会にするべきで、何かの専門的な知識を必要とするような社会は、よくない。専門的な知識があれば、金になると持っている。確かに、ある程度金にはなるであろうが、自分が成長することもないであろう。いろんな経験をしたほうが、より社会を理解することにはならないだろうか。それとも、社会とはあまり関わらないほうが身のためであるし、精神の安定に寄与する部分も大いにあるのかもしれない。一生懸命働いている人間の、娯楽への追求と自己主張の強さは異常である。中には、そうでない人間もいるであろうが、私は娯楽は娯楽として楽しみたいと思っているし、何も、憂さ晴らしに休日を快楽の中に暮らしたいとはちっとも思わないのだ。なぜならば、快楽には不快が必要であるからだ。不快を求めるようになる。次第に、愚痴がふえる。愚痴が増えて、私は苦労話と愚痴が大嫌いであるから、それを聞かされる私は疲れる、疲弊する。それだけのことだ。私はいくら自分が疲れても、決して他人にそれを見せたりはしない。そうしないのが、自分のポリシーでもある。しかし、他人からすればどうでもいいことなのだ。では、他人に必要とされる人生はどうだろうか。私がいなければ、楽しく生きていけないとするならば、相当な奴である。自分が先に死んだ場合、誰が面倒を見るというのだ。放り投げ出された人間は、また、似たような人を探し求めるのだろう。それが人生だと、結論づけるようなことはしたくないのだ。なぜならば、自分から楽しみを見出せる人間になるべきだからだ。人に何かを期待して楽しさを提供してもらうのが大嫌いだ。ディズニーランドも大嫌いだ。なぜ、大人になってもディズニーランドへ行くのかちっともわからない。ちっとも、趣味趣向が高尚なものに変わっていない。高尚なものとは実に、地味である。地味であるから味わい深く、心に迫る。ミッキーがおどけて一緒に握手して写真を撮っても、それを3秒たりともまともに見ることはないだろう。もし使うのならば、家の飾りであるとか、映画のワンシーンくらいだ。見ることは決してないのに写真を撮って飾りにして、3秒も見ないのだからおかしくはないだろうか。雰囲気を楽しみにしているのであるにしても、私はディズニーランドへ行けばもちろん多少は楽しいが、これを根っから楽しんでいる人間が家に帰ればいったいどういうった面持ちであるのか、非常に興味がある。非日常の世界から抜け出した時、待っているはずの日常。日常があまりにも、ファンシーでないから、非日常に喜びを見出す。それは、いったいなんだろう。アラブの王様が蛇口をひねれば金が出てくる。さて、何をする。金で女と遊ぶこともできるだろう。金で車を買いかっ飛ばすこともできるであろう。それらは楽しいに決まっている。楽しいに決まっているのは、それが彼らの日常であるからだ。日常的に楽しいことをしたほうがいいではないか。疲れた。それで終わりだ。日本人は疲れたら、あとはその緊張にみちた体を弛緩させるために、お風呂に入ったり、布団に横になるのだ。時には、ビールを飲んで気を紛らわせるだろう。しかし、健康的ではないようなのでビールは控えるようにとこうくるから、何か少し打鍵罪悪感を一緒にしてビールを飲むのだ。それか、もう仕事なんてしたくないといってビールを浴びるように飲むか、それだけである。私はビールのほうがいいかもしれない、ウィスキーは熱くなるが気分はあまり良くならない。ビールを飲むと糖分があるせいか眠くなる。それくらい自分の体について何も知らないから、人間ドッグに行かなくちゃならない。気持ちのいいという体の状態を知らないからだ。下手なコメディーはすぐに下ネタに走る。何もおもしろくないわけではない、ただ、笑いが習慣化されているのだ。人間は面白いから笑う時は非常に少ない。なぜならば、それは突発的であるし、見る人によってお笑いは違うからだ。私は笑いを吉本から奪い去りたいのかもしれない。あるいは、世間から。何が楽しいのか、何が貴重であるのか、それをテレビで知りたくないのだ。彼らは広告主のいいなりでもあるからだ。公共放送は、くだらない倫理観の元で放送している。自分で自分たちの首を絞める。お笑いは習慣化されてしまった。感動もそうかもしれない。人の優しさもそうかもしれない。人間はすこし惑わされすぎているのかもしれない。自分の本当の気持ちを前面に出す人間がいるだろうか。俳優も、日本の俳優はお遊戯だ。習慣的なしぐさがあるだけだ。セリフの言い回しもそうだ。端的に言おう。魂がない。魂のない幽霊が大きな映画館のスクリーンに写っている。魂が、ないのだ。魂は、この八百万の国では嫌われてしまうのだ。神があらゆる細部に宿って、魂は、非常に窮屈な思いをしている。法律で行動を縛り、習慣と常識で価値観を縛り、まずいものを美味しいと食わされて、質はいいが何の喜びも楽しみもないではないか。わたしは、この国に絶望しているのはなく、この国の人間に絶望しているのである。チャットをすれば、何歳と聞いてくる。彼らは、それ以外の会話を知らない。自分が見て聞いたことがないのだ。ちょっとした、石ころの描写さえできないのに、いったい、彼らはどこを生きているのだろう。この現実の世界に彼らは生きていないのではないか。会社の後に飲み会をして愚痴を言い合う、または、褒めあう。褒められたら、それに縛られる。同じ行動をしようと躍起になる。これは、束縛ではないか。好きだという、相手はもっと好きになってもらおうと努力するかもしれない。これも、立派な束縛ではないか。相手を束縛する方法はあらゆるところにある。確かに、そういった束縛の中を生きるのもいいかもしれない、自由になったところで何が楽しいことがあるのかちっともわからないという人間もいるが、彼らはそもそも自由が楽しいという固定概念があるのでちっとも自由じゃない。どうしてそうも、固定概念を持ちたがるのか。彼らもまた、固定概念を信じたくもないが、どうも社会で力を持っているのは、ある一定の価値観であるのを感じた時に、自分もそれに習おうとするのである。自分の生命を守ってくれる価値観にとびつこうするのである。それに尽きるとすれば、人間は生命の奴隷である。生きることのどれになっているではないか。生きることは素晴らしいと、ブッダもキリストも言っちゃいないはずだ。生きても死んでも、なにも変わることがない。だから、キリストが生き返っても、そこに価値はないのだ、迫害をして人が死んだとて、それが何になる。生き返ってみたとすれば、その迫害に何の意味がある。迫害の無力さと、迫害に会う人たちはそう感じてはいないのだろうか。変転常ない世の中で、ほとんどすべての価値観はやはり滅び去るものであるし、質を変えて全く受け入れられないものなるであろう。今を謳歌しているように見える若者も、老人も、男女も、大人も、子供もそうである。世の中は無常であるから、意味もなければ、生きがいもないし、無常さえないのだ。いったい何があるのか、という時、何もないのだからといっても、また、意味がないのだ。何かがあるから、何もないというのだ。それは、習慣から、常識から、言わないだけであるのか、それとも、それが何であるのかわからないから言えないのかはわからない。価値観もまた人を惑わす、自分がしたいことをできないでいられるのも、価値観があるからだ。思えば、皆金縛りにあっているようなものだ。夢遊病者のような気がする。やりとりにしても、なにも新しいことがないのだ。会話にしてもそうだ。仕事の話しかできないようであるし、それ以外の話をすれば、きっと仕事をしていないのだろうと思われるのだから。わたしはきっとなにも話したくないのだろうと、自分を断定することもしない。自分を断定して、あらゆる可能性の幹、頭にあるニューロンの働きを無視するのは不快である。私は自分が文字で気持ちがハイになればそれで十分なのである。歴史的事実は今日全く意味を持たないし、生半可な知識であるならばちっとも金にもならないが、自分が興味を持って話したいこと、楽しいと思ったことが、金にならないほど、高級なことはないのかもしれない。いくら金があっても、英語は上手くならない。いくら金があっても、死んだ人間を喜ばせることはできない。せいぜい、死んだ人間に対する悲しみを、酒を飲んで忘れたり新しく女や友達を作って忘れるか、英語を話せずしどろもどろしている自分に対して、英語を話せる人間を連れてきて横に常駐させるかであろう。つまり、言葉もわからないのに、話そうとするのはいったい何のためであるかと疑問に残るのである。言葉がわからないなりに、お互いを理解するために、話すのであるならばいいが、互いに理解することなど困難であろう。相手の価値観を受け入れるのか、それを受け入れて楽しい思いをすることもあるだろうが、その間に相手に依存していく自分は、自分の価値観を捨ててしまっているのだから、何かがなくなっているのだ。しかし、維摩が説いたように、森羅万象不二である。良いも悪いもないし。ないもないのだ。また、そのないというのまた、ないのであるから。すべてがないとするならば、今触ったこのキーボードもないし、また、液晶画面もないのだ。何にもないのだ。意識を飛ばしてみよう。その状態の時に、人間の体のどこからかが話しかけてくる。恋だけが、唯一、文字化された人間の心理的または身体的な情報で、その情報は生身の人間にアクセスできる。それ以外の、理念であるとか、理想、道徳的価値観は、人間の生身から発せられたものではないので、異質感があるのかもしれない。そう考えた時に、最後の維摩の教えは沈黙であった。沈黙とは、黙って相手をにらみつけることではない。沈黙とは、放心状態かもしれない。心を解き放って、あらゆる作られた状況を取っ払う作業かもしれない。見えなかったものが見えるようになり、見えていたものも見えなくなる。そういった状況なのかもしれない。メディアが氾濫して、読む記事は多くなったと勘違いしている、ただ、何も興味もない記事はよまないようになり、気になるニュースばかりを取り上げてそればかり見る。つまり、どんどんバカになっていく。人間は、どんどんバカになっているじゃないか。プログラミングができて、動画で人間を釣ることはできても、それは非常に低級なものだ。やはり、文字こそが一番人間の生身に近いものであろう。何か道具を使ってでしか、自分を表せないのであり、伝えられないとすれば不便だ。次に来るのは、絵であろう。動画は、人間が作れるものではない。些細な感覚を書くのは神経に答える。一人の時間が欲しいのかもしれない。そこから生まれるものは何もないけれどね。でも、自分を取り戻す時はいつもそうしなくちゃならなかったような気がする。相手に合わせるのは気苦労がある。まともに合わせようとしているからだ。結局は私は排外主義的なのかもしれない。反知性主義というものがあって、怖いものも目を瞑れば怖くないのであって、自分たちの社会も、借金なんて気にしなければ怖くもないし、怖くないのであるから、楽しく過ごせるのだ。まさに、理にかなって入るし、確かにそうであるように思われる。あまりにも辛い人間たちが、自分たちの社会福祉を手厚くしてくれる政党に票を入れるのではなくて、景気のいいことばかり言っている人間に票を入れるのは、当たり前のことではないか。何も、財政を再建した国があるのであれば、そこの国は立派であったというわけで、この国人間は特に立派な人もいないので、皆気軽に話せるが、しかし、貧困はあるので、それらが、一色単に集まっているのだ。ルーが固まった鍋のようなものかもしれない。何も主張するべきでもないのかもしれない。浮かんでくる想念をもはや文字にさえしたくないのである。私はもう自由なのだろうか。私は意識を失っていしまいたいと思う。何も楽しいことがないわけではない。どこか暗いのがいつもついてくる。それが陰影になって、彫りが深くなって見えるのかもしれない。それはのっぺらぼうよりマシな顔立ちだろう。気晴らしに書いているだけだ。しかし、私の言いたいことだ。私の言いたいことに価値はない。それは、私の言いたいことだからである。誰かの言いたいことを代弁するのであるならば、価値がある。人間が社会的な環境に左右されるのであるならば、ある人間の主張は必ず社会的な環境のもと生きてきたんいんげんの心に響くのであろう。しかし、私は環境さえ共有したくないのだ。自分独自の世界観ともまた違う。気楽になれと社会を説教する気も起きなければ、自分が社会に合わせて自分を変えてしまおうとも思わない。多分、何も書きたくないのだろう。書きたくないのだから、こうして書いているのだ。海が見える。遠くに太陽が眩しく船を照らす。一匹のクジラが飛んだ。大きなクジラが太陽をさえぎった。そして、海に落ちると大きな波が押し寄せ、船は転覆した。投げ出されたわたしは海に沈んでいく。海底に行くほどに、暖かくなった。また、呼吸もできた。ついに海底についた。上の方が真っ暗だ。よく目が見える。周囲には魚が泳いでいる。見たことのない魚だ。オレンジ色をしてる。しかし、光がないのでわからない。ペンライトで照らしてみたのだ。それにしても、暖かい。沖縄位煮るような暖かさだ。どうしてこうも暖かいのだろう。わからない。わからないけれども、本当に暖かいのだ。ここで死ぬのだろうか。泳いでいる魚を食べる気も起きない。それは、不気味な形をしているからではない。食べる気も起きない。呼吸もできるし、暖かい。海底の砂は布団のように柔らかい。しかし、周囲は真っ暗だが、なぜか自分の周囲だけ光が照らし出されている。ここは天国だろうか。天国は上にあるものとばかり思っていたが、海の底にもあったのか。それとも海の底にあるのが天国だろうか。わけがわからない。一匹の蟹が歩いてきた。巨大で不気味だ。ハサミで足をはさんできたが、痛くない。心地よい感じだ。魚が目の前でゆらゆら泳ぎ回っている。歓迎しているのだろうか。しかし、目で追いかけていると少し気持ち悪くなる。ここにいないのは、女だ。女はいない。自分は男だ。しかし、女がいないと男も存在しないんだ。自分はたぶん生きていないだろう。しかし、死んでもいない。魚であるとか、女であるとか、価値観だけで生きている。それは偏見であると、誰が言えようか。いや、やはり偏見なのである。地上の人間はすぐに価値観を共有したがっていた。何か美味しいものがあると一緒にご飯を食べた。綺麗な場所があると一緒に旅行にも行った。結婚しなくちゃならないと言って、経済的な地盤を固めようとした。ちっとも面白いことがなかったわけではない。ただ、だんだんと色あせてきたのだ。それは、人間が慣れてしまったからなのだろうか。簡単である。新ことをすればいい。それも、どこか全部に通っていた。しかし、ここにあるのは、奇妙なカニと魚たち、それらは動くものだが、海藻も揺らぎ、砂もある。水槽の中にいるのか。外に目がある。その目は私の行動を監視している。行動は監視できても、私の頭の中までは監視できない。何かを表現して自分の内面をさらけ出すのは、どうだろう。それが、きっとロクデモナイクラダライものだとみなから笑われるものだとしても、自分はまだそれに興味を示すだろうか。私の持っている価値観とやらを外に出して、皆が見向きもしなければ、私はその価値観を捨てるだろう。私が偏見に付き合わされて自家中毒になっているのも、自分の内面をさらけ出せないからであろう、自分の持っている価値観ほど不要なものもないではないか。それは、素晴らしい価値観であるのならば、お世辞でなく。本気で人は尊敬するであろう。しかし、尊敬されるための価値観であるならば、尊敬はされないであろう。つまり、世の中を投げているのは、自分がこの心の中にあるたまったなにかを吐きだすバケツがないので嘆いているだけのことで、もうそこらじゅうがバケツだと思えばいいのかもしれない。ほんとうに、心で記憶するのは難しいことだ。私はこれで1万文字を書いた。一文字一円だとしても一万円である。何も書くこともなくなったのでこの辺りにしておこう。それにしても、自分は非常に難しいことをしているのかもしれない。普通ならば、専門用語と常識的言い回しを多用して、自分が常識を持っているとアピールすることもできたであろうし、そんなことあhちっとも考えないまでも、それが楽だったかもしれないが、ちっとも楽でないのは明白である。わたしはもっと黙らなければならないし、何か憂鬱が忍び込んできそうになったら、そっと他のことに注視しなくちゃならない。自分が生きているのが何かに見守られているよりも、誰かに非難の目で見られることに無常に嫌悪感を感じるのである。どうせ見るのであるならば、直接見ればいい話ではないか。多くの人は喧嘩を装うというが、小さな喧嘩くらいしなくちゃどうしようも生きていられないじゃないか。喧嘩となればすぐに暴力が思い浮かぶ人間がいて、すぐに戦争と考えるのもまたおかしな話だ。どうしても、理論武装しなくちゃ外に出られないのならば、理論武装すればいい。それは、理論を守ってくれる人間がいるから武装できているのであることも忘れないでいるといい。必ず誰かに破られ武装解除をさせられるのだし、その前に、もしかすれば、その不要な武器の重荷に耐えかねて武器を捨てかねないのだから。私はちっとも悪くないと言ってみたところで、私の無意識は、私は最高の悪者に仕立て上げる。スピード上げて解釈しなくちゃならない、そこに、異論も反論も金も名誉もない。そんな世界で価値観はない。何をしても楽しくないということにもなりうる。その時どうするか。やはり、この苦界にいきているのだから、なにかしら間違ったことをしなくちゃならないするならば、なんと悲しい世界であろうか。人を好きになれないというよりも、人は好きだけれども、人が嫌いな方が楽だという気持ちがあるのかもしれない。いずれにしろ、私はもはや何を言いたいのかちっともわからない。だれも読んでくれないこの文章を書いているのだから、頭がきっとおかしいのであろう。誰かの意見を聞いて、その人の話を聞くといつも書くが、誰も私に意見してくる人もいないのでちっとも役に立たない。議論をすれば、それは無駄だからやめろといった宮沢賢治は今死んで星になったのだろうか。何か明るいことが転がっていないのかと、自分の心が落ち込んでいるから、明るいのを見ると少し嫉妬するのである。なぜならば、私だって明るくなれたのだし、それは私だと思うからだ。そう考えると、私はよく深く執着心が強い。何に対してかというと、世間を馬鹿にすることに対してである。しかし、逆に自分の立場を表明している言える。つまり、自分は、ちっともこの世の中で輝いていないし、人からうらやましがられるようなことをしていないと。ある日僕が行きついた結論は、とにかく一生懸命に何かに没頭して、そして、元気になれることならば、それが自分のつまらないポリシーや自分の価値観のために壊されてはならないと、そう思ったのだ。これは至極当たり前の話かもしれない。間違ってもいるかもしれないが、少しでも自分が生きているのを感じなくちゃならないのである。私はこうして奇妙にも文字を多く書いてきた。芥川龍之介は私にとって非常に、文字に生き、文字に死んだ人と言える。文字が好きだ。文字を愛しているのだ。なぜなのかはちっともわからない。次は、自分の気持ちが楽なるために考えていこうと思う。真実らしきものはたくさんあったけれども、どれも人間を幸せにするとは思えなかった。何か楽しいことを考えていきたいと思う。その時に、誰かの意向に従って考えるのは少し休んでしまいたいと考えている。第一にその誰かも、私が楽しいと思っていることを楽しんでくれるかもしれない。それに賭けるしかないのではないだろうか。私はこうしてずっとここにいるのだけれども、いつ追い出されるかわからないので非常に不安なのである。

ここはカルテ

 ここに書かれるのはカルテである。それは徹底的に見直されるべきであり、討論されるべき幻想でもある。幽霊をここに書いて満足している。もちろん目に見えるものだけが、確実に存在するのではない。しかし、そう思うことでなんとかやっていける人もいるではないか。本など一切見ないし、言葉なんてしゃべるものだと思っている。まわりにはたくさんの人がいる。その人たちとの見えない繋がりを絆という。絆だけは言葉にして表す。例えば、アルゴリズム思考で問題を解決する必要があるという、問題の数だけ仕事がある、決して問題じゃないのに。しかし、しょうがない。利権でしかないのだから。この世の中を根底から信じることができる人たちや、そう振る舞える嘘つきたちが、この世の中を楽しみ普通な気持ちというやつで生きていける。普通なんてのはないのを知っているのに、普通にしやがれと怪訝な目をしている。細い目で、だれかの足を引っ掛けるのも簡単にできるようなに人たちだ。ぼくは非常に弱い自分を見出したのでここに書いている。それもカルテ、誰かに見せながら自分を開示していくのだ。だれかに合わせることで確かに一定の性格を保持できるであろうが、そんなまやかしばかりに付き合ってもいられない。自分がどういう人間であるのか、自分がいったい何をしているのか、僕はいったい何をしているのか。僕の存在は、うざいのか。それは、僕自身が心の底から思っているのであろうか。アルゴリズム思考で問題を解いてもらおうじゃないか。人の話を聞けという前に、静かになろうじゃないか。人の話を聞く前に静かにしろというのをやめようじゃないか。きょうもいい1日だった。なんて思えない日々が続いて、ぼくはとてもじゃないが、死んだ1日を送っているのだ。死んでも、全然構わない。悪いもんじゃない気がしてくる。体の力を抜いて弛緩させ、頭の中にはもう過去の人たちは誰一人いなくなって、好きな人を好きと言えるようになったらいいな、とそう思う。

 

夢で僕は浮気現場を見られた。その女は、アルゼンチン生まれの女で日本語が少し不自由だけれども、その女と僕はなんだかとても仲が良かった。そして、本が好きで、趣味も似通っていた。彼女はすこし毛が散っていて、メガネをしていた。とても、しっかりした印象だ。日本に住んでいて、僕が帰るところがないというと、彼女の泊まっている家に連れて行ってくれた。陳列棚が並び、何かの店の床に布団を敷いて眠っていた。店の男がカウンターでパソコンをいじり、顔が液晶の明かりに照らされている。その男が家を貸したのだろう。それは、ある夜の彼女が寝た後の僕の姿であったのだろうか。とても繁盛はしていない、ただあるといった店だ。彼女はとても魅力的だった。それだけでも今日の夕方眠っただけの価値があるんじゃないのかな。しつこいところは微塵もなくて、ごく自然に僕を好きなんだろうけれども、好きだとは言わないんだ。静かに、僕を縛っていく。僕は彼女に出くわした。彼女はテーブルに座ってうなだれて悲しんでいる。僕はそれを見過ごすわけにはいかなかった。アルゼンチン女と新たな冒険に出立する気力がなかった。そして、僕は彼女とまた歩き出した。アルゼンチン女に出会い、付き合ってたなんて、と言われた。しかし、そんなに怒る風でもなかった。ある日突然、アルゼンチン女にあった。どこかの外国風な浅黒い女と歩いていた。僕は友達をいたのだと、彼女にいった。確かに、いい女友達であったのかもしれない。ぼくはアルゼンチン女に好意を寄せていた。だからなんだ。という話。

 

夢解釈博士の出番だ。さあ、解釈しよう。ラテンの血の入ったと想像される、僕のアルゼンチン女は僕のエネルギーが発散の場所を求めているのを暗示している。テーブルに伏している彼女は、おそらくは、彼女自身を僕が本当に愛している証拠である。それゆえに、今君が陥っている堕落を自分自身が享楽できず自分を責め、傷つき人に当たり散らすのだ。余裕がちっともないではないか。ジョンレノンのOUT OF BLUEを聴きながら、ぼくは将来の奥さんはきっと君だよ、と穏やかな気持ちでいる。いつ壊れるかもしれない夢を僕は頑強なコンクリートで固めようとしている。そして、自在を失って、仏には、女から離れろ、女についていくな、人生は儚い、縁が全てだ、だから、夢なんてものを捨てろと言わせ、粋の構造、そのた、夢なんて、全て悪夢だ。夢の境地から見た今僕の生活は地獄じゃないか。夢からの距離に、うんざりさせられるじゃないか。僕は非常に狡猾な、そして、下手な演技をしている。いくらここに書いても、金にはならず雇ってくれる人さえいないだろう。だれよりも低い賃金で働き、工場で同じことを何度もやって、工場員になるのだろう。一種の反逆かもしれない。仕事に名誉もカネも求めない。ぼくはいつの間にか貧乏人の気持ちまでわかるようになった。目のきついおばさんがレジに割って入ってきた。彼女の頭がよく分かる。自分勝手に解釈する。それも地獄だろう。僕は何も思わずに彼女に道を明け渡した。二度目だ。うんざりなんかするもんか。通りはバイクと人が蠢くこの駅近くの家に僕は自分で進んで牢獄に入っているのだ。気分が上がろうが、体力が落ちようが何も関係ない。今夜は何も食べずに眠ることになるだろう。それがいいのか。彼女はダイエットをしたがる。僕は非常に協力的だ。ダイエット本を買って彼女をプールに連れて行きたいと思う。しかし、彼女は金を払ってでしか自分の意思を変えられない。なぜだろう。それを人間一般金を払わなければ、意思を変えられないと思うのはやめよう。生活不安から仕事を始めるのも、趣味から始めるのも、どちらも虚妄をもとにしているから同じだ。だから、金を使って痩せてもいいんじゃないだろうか。そういう産業があるのだから。好きなように痩せればいい。ぼくなら神経から痩せるけれどね。

 

OUT THE BLUE YOU CAME TO ME 
AND BLEW AWAY LIFE'S MISERY 

OUT THE BLUE LIFE'S ENERGY

OUT THE BLUE YOU CAME TO ME 

 

EVERY DAY I THANK THE LORD AND LADY 

FOR THE WAY THAT YOU CAME TO ME 

ANYWAY IT HAD TO BE TWO MINDS

ONE DESTINY

 

ALL MY LIFE'S BEEN A LONG SLOW KNIFE 

I WAS BORN  JUST TO GET TO YOU

ANYWAY I SURVIVED LONG ENOUGH 

TO MAKE YOU MY WIFE 

 

LIKE A UFO YOU CAME TO ME 

AND BLEW AWAY LIFE'S MISERY 

OUT THE BLUE LIFE'S ENERGY 

OUT THE BLUE YOU CAME TO ME 

 

真実である。だから、主張する権利があるなんて大嘘だ。嘘でもいいから、相手のために、何かをいってやりたい。そういう気持ちがある。今の議論が嫌いな人間は、皆ソクラテスだろうか。それ以下の奴隷じゃないか。何も喋れない。ただ、家に帰ってインスタを見て帰るだけ。所詮、君はそれだけの人間だ。与えられたことをやるだけで疲れているんじゃないのか。若いうちは好きなことをさせてもらえないというが、してこなかっただけだ。(今日僕は本当に水だけで生きるのか。ポテチを朝と夕方一袋ずつ食べたが、加えてみかんのほか何も食べていない。コンビニの飯は、腹を満たし多少舌も満たすので美味しいが。結局はまずい)僕は一人で世の多数と戦っている。多数は僕が見えない。踏んづけて歩き回る。僕が多数にならなかったのが悪いのだ。貧しい考えの中、コッペパンみたいな脳みそを羨んだ。僕も阿鼻叫喚して、退屈な時間だけれども不安を解消してくれる24時間営業のレストランでおしゃべりしながら、退屈な自分を捨てていけばよかったのに、僕は最後まで?そんな下らないおしゃべりについていけなかったので、皆と共有する価値がないのだ。僕はみんなとおしゃべりして、みなとご飯を食べて、みなと価値を共有して、遊び歩くのは退屈なのだと思っている馬鹿だ。退屈だからじゃないんだ。僕は、もっと楽しみを抽出したい。そこに賭けたいのだ。一人の時間。それは創造の時間だ。金で俺を雇って見やがれ。全てドブに捨ててやる。くれてやる。仲間に。下らない。自分が生きるために、クソみたいな仕事について食いつないでいる。タバコとコーヒーで十分じゃないか。飯なんて食えるもんか。女が来ないから、吸わない飲まないでやっているだけだ。そんな奴ほど持てないんだよ。その心意気を見抜かれて、女は死んじゃうんだ。白い装飾きて川に流そう。綺麗だ。

 

EVERYBODY'S TALKING AND NO ONE SAYS A WORD 

EVERYBODY'S MAKING LOVE AND NO ONE REALLY CARES 

THERE'S NAZIS IN THE BATHROOM JUST BELOW THE STAIRS 

ALWAYS SOMETHING HAPPENING AND NOTHING GOING ON

THERE'S ALWAYS SOMETHING COOKING AND NOTHING IN THE POT

THERE'S STARVING BACK IN CHINA SO FINISH WHAT YOU GOT

 

NOBODY TOLD ME THERE'S BE DAYS LIKE THESE

NOBODY TOLD ME THERE'S BE DAYS LIKE THESE

NOBODY TOLD ME THERE'S BE DAYS LIKE THESE

STRANGE DAYS INDEED -STRANGE DAYS INDEED

 

EVERYBODY'S RUNNNI' AND NO ONE MAKE A MOVE

EVERYONE'S A WINNER AND NOTHING LEFT TO LOSE 

THERE'S A LITTLE YELLOW IDOL TO THE NORTH OF KATMANDU

 

長いからやめた