アウトプット

相手の視点に立ってみよう

楽しいことがあった、どうでもいい。じぶんは悲しみが好きなのだ。貧しさを好んでいるのだ。そう思えた。アホだと思った。認めたらおしまいだと思った。精神分析とは、そんなものだ。そんなたいそれた、名前をつけなくてもいい、なんか、素直に思ったことを、いや、考えていることを線を描くように書けばいい。何かを人に強いないようにするのは難しい。それは、間接的に何かをするように仕向けてもいるのかも指令のだから。何が正しくて、間違っていて、それは、本当のところどうでもいい問題に過ぎない。そこに視点がいって、何か大事なことを見過ごしているのだから。それだからこそ、議論は永遠と終わることなく続けられていくのだろう。ただ、話すために、思っていることを口にしてそれが相手に受け入れられるために。べつに、何かやりたいことがあるわけでもない。でっち上げるしかないじゃないか。何かをでっち上げて、みんながやりたいことになれば、大成功といったところだろう。大成功さえ求めなくていいのだ。別段、人を差別することもない。ただ、性関係があるのみ。だれとセックスして、セックスする相手とそうじゃない相手がいるだけ。だから、愛は、他の人間関係とはちがっていなくちゃならないんだ。そうだろ?定義なんて、してもいいけれども、把握しきれないね。ひところうまいこと言ってみたところで、それを他人にも理解させなくちゃ気が済まない。そんなもんさ。自分一人じゃ何にもならないってあきらめがあるんじゃないの。あいてのリアクションがないと、自分の存在がないように感じるんじゃないの。だから、自由に感情を表現すれば、喜ばれる。存在するのだから。そして、受け止められているのだから。ときには、ケンカさえ、そうだ。本当に馬鹿らしいように思われる。何を求めているんだ。それは、おれから奪えるものなのか、俺が与えられるものなのか。それをわかっているのか。わかっているけど、わかったふりして、やっているのか。人を裁くことは誰にもできない。ただ、自己主張があるのみだ。わたしは、主張がないおしとやかですと、黙ってニンマリしているような人間は、相手の心にものを言わせようとしている怠け者だ。嫌いだ。実に嫌いだ。それは、私もそうやって、相手が動いてくれれば、楽だと思っているからだ。それを知るべきだ。何も。自分の思っていることを何でも口にする人なんていないのだ。ただ、あいての反応を知りたいのだ。自分の話で相手が応答してくれればそれでいいからすきなように口を動かすのだ。音楽もそうかもしれない。ひとり、自分のために作られた話を、他人にも聞いてもらいたいと思うようになるときに、どうして、それをしようと思ったのか自分に問うべきだ。じぶんが、つまらなく感じるからだろう。感情が枯れてしまったからだろう。なにか、得意げに振る舞いたいと思うからだろう。そのためには、他人が必要だ。他人は、ただの、自分を承認してくれる人に過ぎないじゃないか。それは、自分を失うことに他ならないじゃないか。自分は他人に嫌われても他人に好かれても同じように接するだろう。それこそが、誠実さだろう。誰に対しての?誠実という言葉に対しての誠実さである。あの人は誠実な人だというとき、それは、ある一定の人であってはいけない。もし、ある一定の人に対しての誠実さであるのならば、彼は誠実さを利用するだろう。自分の誠実さを受け入れてもらうために、誠実であろうと振る舞うようになるだろう。そのとき、かれは誠実な人であって、誠実ではないのだ。誠実な人は、誠実っぽいけれども、それは、誠実じゃないときもあるということだ。誠実だというとき、誠実であろうとすること、言葉は、本質を言い表すのか、それとも、相手を誠実に落とし込めるのか。どっちもある。

とにかく書くことだ。するのだ。なんの理由もない。売れるものを書く、芸術的なことを書く、それを認めるのは相手だ。しかし、危うさもある。いつまでも認められない。相手の価値判断は相手に政治的に利用される。その時、芸術なんてものはどうでもよくなる。大きなる道があって、それに沿うのが大事なのだ。政府が、法律を多く整備して社会制度が整ったという時、安心するかい?君は、弱いね。自分の自由がうばれて喜んでいるのだ。何も挑戦せずに。僕がこうなったのは、社会制度のせいだ。そう、言い訳すればいい。自分を責めない。制度を責める。それは、本当に卑怯だ。卑怯で結構。楽しく楽に生きられれば、それでいい。何もかも過ぎていって、後に残るものは何もない。法律がちょいちょい変えられて、慣習が残る。反吐が出そうな、不自由さと汚い言葉が浮かんでいる。洗っていない風呂の水の淵に浮かぶ髪の毛。何を、叫ぼうか。ここで私が叫ぶことの無意味さ。意味のなさ人間は耐え切れない。意味なんて、どうにでもなるのに。つまり、自立していない人間は会社に利用され働かされとどのつまり不平不満の顔になる。満面の笑顔は期待できず、友達も、気が合わないとすぐに捨て去る。そんな奴らが大嫌いだと言ってみても、少しだけ。私はそれが人間だと諦めている。電車の中で女の奇声。何かに憤慨。興味もない。怒りは、何も生まない。交通事故にあって怪我をしてその後遺症で痛みが疼くようなもの。怒りは、そういうもの。相手にも自分にも跳ね返ってくる。一方で、教師の優しい怒りもあるのか。あるだろう。しかし、生徒がどう思うかであろう。私は、仕掛けられた優しい怒りなど拒否する。多くの教師も家に帰り、ネットにふけり女とセックスをして、趣味やら、眠りたいやらである。教師が免許制になって最悪になった。勉強もしなくなった。最初はうまくいくだろう。しかし、長く続かないのは、教師に向かない連中が、公務員という待遇を求めて比較的こなしやすい、そして、そういった人間は周りの連中とつるむのが好きだから、同じ価値観の人間で集団になり、偏屈になり、人の話を聞きはするだろうが、それが、権威にかなっているのかを比較検討するくらいしかできない。だれひとり、勉強を教える人間もいない。親のせいにする、子供のせいにする、時代のせいにする。理由はいくらでもあろう、勉学を怠る理由は。どうすればいいのか。しかし、こんな疑問も薄っぺらい。自分でわかっているはずだ。それなのに、人にどうすればいいのか解決案を求める。言いたいことはわかる、何をすればいいのかわからないから教えてくれ、教えられないのならあなたの意見は受け付けない。都合の悪い意見の排除の仕方、拒否の方法を身につける。まるで、ソフィスト。それも、議論に参加もしない、相手を言い負かして終わり。それで勝ったと思い込んでいる。ちっとも教師ではない。てめえの給料のために、点数稼ぎをしている生徒が哀れである。人間関係を重視する必要はない。友達がいなければ、いなくていい。友達がいれば、いてもいい。誰と喧嘩してもいいし、ケンカしなくてもいい。忘れればいいんだから。喧嘩が長引くのは、喧嘩をしたいだけだ。そういう人間関係の形で付き合いだけだ。なんら、本質はない。いろいろととらわれすぎなのだ。自分が居心地の良いようにすればいい。相手は、あなたの居心地に合わせるだろう。あなたもまた、居心地の良さを相手に感じそれに入ることもある、同伴することもあるだろう。とくに、人間関係においてわるいのが、愚痴である。愚痴は、相手を不快にさせるだけだ。愚痴ま・で・も共感の材料にする。女は集まって、互いに相手の共感を得るだろうことをいう。それまでだ。不思議だ。男が相手の男と違うところに目が行くのに、女は相手と同じところを見つけようとする。兵士は服を着る。同じ服を着て連帯意識を持たせなくては、男同士は協力できないのだ。男女論は、面白いが、諄いと疲れる。やはり愚痴は、すこしもよくない。まず、本人の不満は本人で解決したらどうか。悩みと愚痴は違う。愚痴は、どうしようもなく従わなくてはいけない硬直した状況にある。愚痴をきいてやるのは、いいけど、慣れていないだけかもしれない。それも良いかもしれない。ちっとも面白くない。自分の文章が。相手に阿っている。変な癖がついた。評論ばかりしているからだ。だれにも文句を言われない文章を書こうとしているからだ。今時、ちっとも流行らない反抗。金にならない。しかし、自由の心地はする。相撲は、ガチンコですれば体が持たない。故障ばかり。星でうまく、回せば長生きできる。短く太く生きるのか、星でダラダラと居座り続けるのか。好き嫌いで物事を判断しないので、私は力士の身体に気を使うばかり。非常に難しい。自分が絡まなくては、なんの意見もない。どうでもいい。ダラダラすればいいし。ガチンコでもすればいい。本人たちに委ねられている。テレビのネタは本当にくだらない。殺人にしろ、何にしろ。主人公は私ではないのだ。(なりたくもない)マスコミは、ただ、自分の意見ばかりを押し付ける。こんな馬鹿とは付き合いきれない。フェアではない。フェアを求めるなら、マスコミは消えればいい。金がある人間が、メディアを作ったとしても、ネットがある。電気がなくなれば、テレビもネットもなくなる。自分たちで物を考える。何が必要か。欲望の生産。これが、今日の課題だ。昔ほど、盲目的でなくなった視聴者。広告も嫌われる。何か相手に与えるとき、相手の喜ぶものをやろうとする。参考になる広告。自分が欲しいものは、広告の中に決してない。広告にならって買ったときのやるせなさを知っているはずだ。「何も欲しくないという欲望をもて」老子より。

老子ってひとについて、語るのは難しい。まず、老子ってのが、誰かわからない。耳が長い人らしい。司馬遷も、3人くらい仮説で人を立てている。が、誰かわからない。だから、とりあえず耳が長い人だ。老子ってのは、それに、81編も文章を書いたが、なにせ、昔の人、誰かが付け加えた部分もあるだろう。なにせ、昔の人だから。生活の状況はうまく伝わっちゃいないけれど。何か、耳をそばだててしまう。自分は、人の意見にすぐ追従するくせに、人がある人の意見を盲目的ん信じているのを見ると、とがめる。優しく行こうぜ。それもいいじゃないか。それが、老子。いや、甚だしい間違いかもしれない。あっているか、間違っているのかの話であるなら、間違っている。自由に、物が書けない。なんたる、不自由だろう。坂爪圭吾さんのブログを読んでいて、あ、これは「かつて」の自分だと思った。自分が抱いていた妄想を全て打ち砕いた後に来るのは、妄想の建設だ。一度壊れたモノをもう一度作りなおす。もし、尾崎豊が今歌っていたら。彼は、崇拝されなかった。悲しいかな。生きるというのは。しかし、老子の言葉にそって生きるのなら、面白そうだ。坂爪さんの考えも、わかる。ネットワークをつくりたい。目に見えるものじゃなくて。目に見えるものを支えるネットワークを作りたいのだ。惑わされたくないのだ。その点は、わたしとおんなじ。そんなことって、なんのはくにもならない、だけどね。

ちっとも自由じゃないから、私は何も言えないんだ。気づきがないからね。だから、書くことがないんだ。何を書けばいいんだろう。太宰治なんかは書くことがたくさんあって、どれを書くのかふるいにかけていたという。たぶん、私が色々な物事に関する興味を断絶しているから、あまり、何も書こうとは思わないのだろう。まあ、無理に書くために何かをしなくちゃならないというのなら不本意であるのは、確かなことのように思われるけれども。今面白い人の文章は、かつての私を見ていたような人だ。どうも、私は嘘をつくのがいやらしかったのだが、いまではすっかり慣れてしまったのだ。そのことについて書けば、いずれ意味をなしてくるように思われる。誰しも、長続きはしない。文字を書くのも。毎日が、心に栄養の行き届いている生活であれば、文字にする楽しみもあるだろうが、私は恐らくできるだけ毎日が、あまり変化のないようなものにあ、ひとつの普遍的な生活に堕落してしまおうという気持ちが強いのだろうと、思われる。

青空の昼下がりに、線路沿いで。

 

「ご気分は?」

「ええ、結構です」

「といいますと」

「いい気持ちです」

「温泉でもはいられた?」

「いえ」

 

ある朝、起きたら胃さんに苦しめられた。

 

 太宰が、志賀直哉をボロクソに老人呼ばわりして殴りかかっていた。素晴らしい。作品をけなされて、頭に血が上ったのだろう。太宰は、執念深い。良くも深い。キリストに傾倒している。「汝、自己を愛するがごとく隣人を愛せ」が合言葉だ。

 どうも、僕の言葉は心に響かない。心をシャットダウンしているからに他ならない。豊かな心を持つべきた。自分の精神を開放するべきだ。昨今はあまりにもお行儀良く社会が回りすぎている。慇懃無礼ばかりだ。快活な笑いを最近しただろうか。どこか苦渋に満ちた、卑下に満ちた笑が多くないか。量の問題ではない。皆、言いたいことを言えないでいる。それは、「資格」がないからだと本人たちは思っている。根底的に、社会の奴隷根性を賛美している。働かざるもの食うべからず。そういう輩は、魂を売ってしまったのだ。彼らに、言葉はない。魂はあるだろうが、非常に排他的だ。日本人の多くは、他人に興味がなく甘えん坊で冒険を好まない。成績優秀で、立ち振る舞いが上手、自分の意見を言うよりも相手の意見を尊重し、問題が起きれば相手のせいにする。賢くない。ただ、ずるいだけだ。それに、鼻につく男も女も増えてきた。自分が一番だと思っている。服装だけじゃない。精神が、悪い。余裕がない。時間で給料を稼ぐことしか興味がないのか。嘆いてもいいだろうか。お笑い芸人なら遊んでも許されるのか。哲学的問題を云々するだけが唯一世間の許すまっとうな悩みの道なのだろうか。

 太宰は「弱くなれ、もっと悩め」と喝破した。まるで禅僧だ。非常に純粋だ。それゆえに、酒にも染まる。兄に、フランス行きを提案された、金も出すらしい。しかし、文学の基礎をわきまえてからいく兄に返事をした。本当は、女と離れたくなかったのだ。女の、金のない生活のほうが大事に思われたらしいのだ。どこか、貧しさに寄り添う英雄気取りも太宰にはある。例えば、ジョンレノンも太宰治とどこか似ている。それは、金と物よりも精神に重きを置いたのだろう。金とモノを感じるのも精神だ。貧しさには寄り添うも、世間を徹底的に嫌った。太宰は、神になりたかったのか。彼は、実家が金持ちであるが自分は稼げないことに引け目を感じて、価値の大転換をはかり貧しさこそ幸福であると自分を生き長らえさせたのかもしれない。そんな太宰にとっては、女を裏切るのは最も苦痛だったに違いない。守れないと、落ち込む太宰は、女とともに玉川上水とやらに飛び込んだ。

 翻って、現代である。テレビはある、食べ物もある。安い物件もあれば、働き口もある。贅沢はできなくても、インターネットで暇を弄べる。皆が世間様になった。だれも、世間から逃れようとも思わないでぬくぬくと生きている。それで構わない。構わない。ただ、どこか納得がいかない。私は、誰よりも不幸だとも思わない、また、誰かを不幸だとも思わない。かといって、幸福かと思えば、確かに幸福だ。路頭に迷っているひなびた服きたおじさんをみると、嫌な気持ちになるくらいだ。それも、明日はわが身という言葉と、自分は優しいと思い込んでいるのに、人を選んで、ちっとも優しくないからだ。都合の良い人間を周りに配置する。そうすれば、自分はちっとも傷つかなくてすむ。太宰は、弱くなれと言った。弱くなくては、弱さの美しさもわからない。そんな美しさをどうでもいいと思うなかれ。太宰は今生きていれば、どこにかれは悲しみをみつけるだろう。美しい悲しみを。いま、街には、楽しい顔ばかりが溢れている。彼らの嘆きは家に持ち越される。外には出ない。インターネットに転がり込んでいる。ネットさえ、近頃は日向に出される。何もかもが明らかなようにみえる。外に出れば、幾多の人がいる。

 

 脳みそに常に騙されるのは、あまりいい気持ちではない。例えば、君が何かをしようとあくせくするとしよう、脳はその状況を大いに楽しんでいるのだ。

つまり、脳みそには楽をしようという気持ちもあれば、同じように苦しんでやろうと思うところがある。タバコだって、一度や二度吸っただけで依存症になるのは初めの方で、しばらく禁煙期間があれば、タバコを1日に数十本吸ったくらいでは、依存症にはならないのだ。体は、悪い物質への反応を快感を感じてしまうところが、どうもあるらしいのだ。だから、一番はじめが一番依存症になりやすいのだ。他に趣味が見つかれば、そちらに脳みそもシフトされて、いわば、脳みそを騙すのだからそれでいいのだ。意識をぶっ飛ばすことで、一度脳みそからの支配を免れるのは、悪い経験だとは思えない。

 長谷川豊さんが、いろいろと日本を変えるために、政策を打ち出してこのあいだの衆議院選挙に千葉から出ていたらしい。それは構わないのだ。彼の動画を昨日見た。とても良かった。しかし、簡単に殺せだの死ねだの言わないほうがいい。確かに、病人を減らせば医療費を削減できるだろう。しかし、それでは本末転倒ではないか。思うのだが、医療費自体を安くしちまえばいいんだと思う。なぜなら、ある程度医者は確保できたではないか。何故医者に高額の診断料を払わなくちゃならないんだ。医療の世界でももっとコスパが良くなればいい話だ。看護婦が大変というが、それだけの給料をやらなくちゃ誰も面倒をみないという世界もおかしいのだ。いろいろ入りやすくして、病院を大きくすればいい。とにかく、あまり医者にはかからないことに越したことはない。医者という人柄をそう誇示する必要もない。病気でもなければ、何の用もないんだから。医者が嫌いというわけじゃないが、世の中の風潮として医者に従っておけば、悪いことはない等ながれがあるような気がしたからだ。たぶん、世の中を元気にするには、自分が元気であればいいように思うのだ。長谷川豊氏の動画は、確かに言葉は悪いし行っていることも理路整然であるけれども、それをいっちゃおしまいよ、というところがある。しかし、彼はもっとちゃんとした現実的な妄想に従ってそれを実現するだけのいっちゃった脳みそをおもちですから、何か、劇場で漫談をすると本当に受けると思うのだ。それくらいしか思いつかない。

 かくもわけのわからないことを脳みそは受け入れる。私は自分が考えるよりも先に自分の気持ちを表す訓練をしなくちゃならない。何かを考えるときにすぐに没頭しなくちゃならない。それは、仕事でもきっと役に立つだろう、としたをすりすりして唇の周りをなめなめしているのだが、あまり、期待できない。というのも、私が破綻しているからだ。私はもっとハイにならなくちゃというプレッシャーもあるけれども、ハイがきついのもよくわかっているので、あまりハイになりたくない。なろうと思えば、なれるのだ。そこが面白いとこである。突然怒りが湧いてくる人は、自分をコントロールできないのだ。私はたまに、なぜ他の人なら嫌な顔をする場面で自分は平気でいられるのかわからない時がある。それは、わたしはあらゆる経験がいろいろな諦めの元に動いているせいもあるかもしれない。おそらくそれしか、思いつかないのだが、もう一つ思うのは、やはり自ら文字を起こすことでその状況を楽しめるところもあるかもしれない。笑い転げたり、またもう一度そのような、人が嫌な気持ちになるような状況に居合わせた糸はちっとも思わないが、おそらく、私のイライラポイントは、私の速度を邪魔されたときにあるように思われる。例えば、前に遅い車がいるとき、私は自分をぐっとこらえる快感に酔いしれる。自分が思っていたスピードではない速度を強制されるのだから、相当に私は自分の心のアクセルとブレーキを抑えているのだ。節度は、ある程度人間に快感を与える。ある程度の快感がいいのであって、度を越すと、酒を飲みすぎて路上にへたり込みゲロを吐き散らすように、気持ち悪さが増して快感を受け付けないようになるのだ。ほどほどがとてもいいのだけれども、それを肯定する気持ちの意味のわからなさは格別だ。決して書物は伝えるためだけに描かれるのではないし、書物は私の場合自分の考えを明らかにするところにある。なぜ書いているのか問われるとき。私の体調を良くするためだとなぜ思わないのかいつも不思議なのだ。私にとって書くというのは喜びそのものであり、それを他人に見られるのは少し恥ずかしいけれども、どこか嬉しいのだ。その気持ちを忘れないでいるのはとても難しく、ときには暴走してつまらないことを永遠と考えて、でも、長く、出来るだけ長い文章を書こうとしているのだから、とてもじゃないが普通の人じゃこんな退屈なことを続けられないように思うのだ。しかし、見た景色等を自分が文字にするのはとても心が落ち着く作業であるのもまた同じだ。私の場合は、文章が綺麗なわけではなく、どこかもどかしさがある。いきなり飛躍することもあれば、詳細に書きすぎて、行き先を忘れてしまうことがある。近頃の私は、どうも記憶力が怠けてしまってちっとも名前を覚えないのだ。シシドカフカが、きのう私がみた新しい名前である。なんでもいいので、名前を文字にするのがいいように思われる。しかし、なんでも考えているとイライラするのもまたそうだ。相手の気持ちがわかったつもりになって、相手の怒りを自分に転移させるのの文字は有効なツールだ。相手からダウンロードする際は是非文字に起こしてみるといい。しかし、文字にしないことでダウンロードを免れることからしてみれば、こちらに、削除のツールがない限り難しいかもしれない、ダウンロードするということは。

どうやら書きすぎてしまったようだ。私は内部でだいぶ言葉を抑制しているのだろう。自由に言葉を発せないでいるのは苦痛だ。周囲の事物を、新しく見るために、また、従うために沈黙を強いられているのだ。沈黙も、実は悪くない。沈黙は、素敵である。言葉というのは、酒のようなものかもしれない。あまり、飲みすぎると酔わなくなるし、飲まないではいられない。言葉で人が動く快感を身につければ、言葉から離れることはないだろう。言葉でモノを考えるのもアリかもしれない。私は言葉で思考するのが楽しいのだ。だから、ある人の意見が完璧であるようには思わない。支持するなんてこともなくなってしまう。政治で世の中が変えられないほうが、小さな政府と言えるではないか。だからといって、政治をするためだけに食事会は宴会を開くのは最も恥ずべきことだが、こんな単純な倫理も、今は口先だけの人間が非常に増えたのでダメになってしまった。ダメならそれでいい。失敗と認識すのならば。それを延期ばかりしているではないか。それをどう言い訳するのか。私の状況に非常に良く似ている。もしかしたら、人間は自分の置かれた生理状態を分析に使ってはいないだろうか。だから、ある人の価値観は彼の服従の精神と、そして、彼のしたがう倫理観に属しているのだ。

人間は理論的であろうとすると感情が損なわれる

 理論は宗教である。核は危ない。それならば撤去だ。原子力発電所を壊すか?爆弾を仕掛けて、放射能を撒き散らす。私は、したくない。働いている人もいる。発電所じゃなくても他に働き場所はある。老人が死に、人手は足りていない。発電所を止められる。だが、もらえるお金を減らしたくない。貧乏と人は呼ぶ。貧乏になりたくない。周りからは馬鹿にされ、相手を強く羨望する。自分もうまく立ち回れたはずだ。そして、私が羨望する相手の位置に自分がいたかもしれない。憎しみ。私は、憎しみを持っていた。羨望かもしれない。多少はあった。しかし、人より少なかった。比べられるものだろうか。皆、比べたがる。職業、収入、財産、地位、名誉、数多ある。人は、その人についてくる特典を欲しがる。それに、男女差はないだろう。数字で証明しようとする努力をして、白黒はっきりさせられるだろう。あらゆることが可能になる。あらゆることが可能になる。それを可能にするために、ぶらぶらする。行ったことのないところに行く、食べたことのない食べ物を食べる。チャレンジと呼ぶ。チャレンジだろうか。わからぬ。