アウトプット

相手の視点に立ってみよう

他人の視線ばかりの記事

 自分の興味関心に従って動け。

「そう言われましても、社会は私一人で成り立っているわけではありませんので、多くの人と共有する価値に従って動かなくてはなりません」

 

 みんなさ、幸せになればいいじゃない。でも、そんなの無理だってみんな思ってるんでしょ。馬鹿げているよね。無理なことないなんて、励ましてるつもり?あなたの身長はもう伸びない。それでも背が高くなろうってわけ?

卵が先か、鶏が先か

 近頃は、めっきり文章を書く機会も減って、自分の言いたい事を文章の形にできずに、どうすれば世の中に認められるような言説をはけるだろうと、いわば、いかにすれば人から変人だと思われずに好き勝手にものを言えるだろうという無理強いを自分に半分自覚的に、半分は脅迫的観念から自らに強いているのを自覚するようになった。本当に私はどうしようもないバカだから、と思ってしまっているのも、問題だ。これが嘘ではなくてどうする。本当の話だから困るのだ。世の中に入って、まともな事を言えるのは非常に難しい。できれば世の中で黙っていたいのだ。だれかつまらない事を言っても、笑ってやればいいじゃないか、自分に畢竟そういう面白い事を言えないのだから。また、そういう時期じゃないのだから。いつまでも面白い人はいない。必ず、面白い事が言えなくなる時期が来る。だから、いつまでも続くわけじゃないのだ。永遠に、この人が私より偉いというのもないのだ。そして、だいたいそうなのだ。なぜなら、私の中で尊敬の念がうすれてくる。面白いと感じる事も変わっていくので。車を買う。チューニングをする。お金をかけるしかない。熱中できる環境があるほどに、その人は別の感性をうっちゃっているのだろう。自分の年齢を考えてものを言わなくちゃならないほどに、人間は他の人間に教育的であるべきだろうか。何をするべきかを、人に言うのは非常に簡単だ。特に、社会的地位があれば何でも人は言う事を聞くだろう。しかし、果たして言説の内容に対してか。それとも、ニコニコ聞いて服従の意志を表示し相手からお目こぼしをもらうためか。どちらもあるだろう。社会が実際にそうであるとは言い切れない。なぜなら、自分から離れる必要がある。社会的地位から出る事が必要だ。常識は危険だ。人間を追い込む。脅迫する。変な事をしちゃいけない。あれもこれもしちゃいけない。大勢と同じ事をしなくちゃいけない。なぜなら、変な奴は社会的に信用できないから。当然である。しかし、信用で成り立つ社会において、どうしてこうも信用を相手に要求するのか。自分が信じられないからだ。信用して相手に裏切られた時の保険として、相手を疑うのだ。やっぱり。ほら。思った通り。俺の言った通りだろう。つまり、占いと一緒。相手の性格を相手の言動から推し量るのも占いと一緒。占いの方がよほど合理的で誕生日入力さえすれば性格なて一発で検索できる。占いもやめたほうがいい。相手をどういった性格だとか、ここの土地はこんな歴史があってだとか、非常に社会的に役に立つ知識も、個人間では煙たがられるだけだ。どうしてだろう。社会的なものと私的なものを分けるからだ。線引きは非常に怪しい。恣意的に政治が介入して時代で変わる。意見を公の場に匿名の形で提案もできる。しかし、環境は整っていないため刺激的な発言をして目を引く必要がある。記事を書いているのはそう言った輩であろう。自分を見てもらいたいというのが、叶えられない。自分について話せないほど臆病である。だから、せめて自分の生き写しである記事を他人が読んで理解してくれれば満足するのだ。それが、社会参加といった馬鹿馬鹿しい賞賛とともに迎えられる。ゴシップ記事なんて読む必要はない。経験がものを言う時代が終わってしまうのか。経験とは他者と決して共有できない感覚だ。絶対的に個人的なものだ。バカはいう、俺のほうが経験がある、と。確かに、職人と弟子にしていかんの技術の伝達はあるだろう。しかし、くだらない。弟子は、師匠に甘えて自ら考えない。必死に、関係を守ろうとする。自らは、師匠の下らない技を身につけて立派だねと言ってくれる人も、時の風化とともにいなくなる。大いに、馬鹿らしい。時間の浪費である。しかしそれは、時間を無駄にしたわけでもない。ただ、大いに、時間を浪費したのだ。それは思い出になる。テレビも思い出が好きだ。芸能人をテレビに出させて、その家族の由来を調べてみたり。余計なお節介だ。根底には、非常な呪いのようなものがある。自分の家族が一体どういう人であったのか知りたいと思うだろう。先祖は、もしかしたら偉い人かもしれない。だったら、君も偉いのか。先祖が殺人していたら、君もその素質があるのかもしれない。人を殺しちゃうくらい情熱的に自分の酔いしれる事ができるのだろう。と、すれば、先祖もなにもかも社会の枠組みってやつは、馬鹿馬鹿しいけどもバカにはできないね、人生といった芥川竜之介のきもちがわかるってもんだ。ひじょうに馬鹿げている。さ、ひとりであゆめ。けっして他人に期待も依存もするな。それが君が自由に生きる道だ。そして君はすでに自由だ。ゆめゆめ、金があるのに金がないとわめくようなまねはよせ。

汝の症候を楽しめ

 僕は病気だ。恐ろしいくらいのひどい病気にかかっている。それは、美しいというのがもはやわからないのだ。なにか、美しさが権威を持ち始めてそれを所有しようという気を抱かないように細工しようと私は、私に対して不思議なインビ工作を行っているのだが、それは、私自身の自覚により、暗黙のうちに遂行されている公然たる出来事なのである。私が、私という時、私はどこにいるのか。いま、私はこう思っている。どうやら、とうとう私も狂ってしまったようだ。そう弁明しなければ、これを読む人間は、客観性のない戯言だと判断するだろうと私が考えているからだ。ところで、そう考えている私はどこにいるのか。私とはいったい、どのようなことを考えているのか。ここで、ナショナリズム的な偏見のおそれがいささかあるようなことをひと段落書かせていただく、ところで、私はいったいなぜ、「書かせていただこう」などと、およそ子供ではない相手であろう何者かを想定して正常を装おうとしているのだろう。化粧で顔はごまかせても、心はごまかせないというのは、たいてい、多くの女性が納得しない主張であるように、化粧により私を隠すことで女はある儀式を執り行うことができるようになる。それも、いささかの疑問もなしに行えるのである。内容は一切関係ない。極論であると切り捨ててもらっても構わないが、何かを判断する時に、必ず極論が前提となっているのだからしょうがない。例えば、私は、ここに文章を書いているが、誰かが読んでいるだろうという推測と、しかし、私について誰も知らないのだから、私は「私」から離れて、ある種仮面を着用していると思い込んでいるのだから。つまり、誰かに見られる可能性は必ずあるのだ。それを、全く無視しているわけではないけれども。と、口数が増えるごとに主張は説得力を失い、判断には極論が含まれているという主張がもろくなる。これでは、自滅である。

 これで、判明したことは、かんたんだ。何か主張を君が持てば持つほどに君は主張という檻の中で君の檻の中に入ってくる人間をひたすら待ち続ける。君の主張はすべて、君を守るためである。そして、君が守られるためには君を一歩も外に出さないのが最良であると判断されているのだ。議論に勝ちたければ、多くの人々の納得する偏見を利用するのだ。ネットはバカと暇人の空間だ。何一つ役に立たない。しかし、自分を捨てるつもりで読めば最高の空間だ。バカと暇人は余計なものを持たずに生きていける世界に生息する。多くの忙しい人は、自分の金のために暇もなければ、バカになりきれず賢そうに振る舞い上のいうことを何なりと聞いて動く。そこにあるのは、新しいことではなくて昨日と同じ日々が維持されるための約束事だ。

 僕が生きている理由がさっぱりわからない。もう死んでもいいとさえ思っている。死んで仕舞えばいいんだ。と、でも、これは僕がそう思っているのではない。僕が、大好きな人たちの無意識の思惑に忠実であろうとする精神だ。忠義といってもいい。日本人は偏屈だ。死んで詫びるという精神に赦しはない。民族の儀式は続くだろう。しかし、居心地はいいだろうか。互いに、監視し合うことはゆるくなっても、決して助け合おうという気持ちはない。それは、アメリカだって同じかもしれない。別に、外国と比べる必要もない。しかし、それとは別に、世界の多くの国で、自分の国の内部が混乱しているのを目にする。世界が一つになるわけはなかった。互いに、グループの代表者が仲良くしていれば、世界の秩序は保たれる。一体僕は、世界に何を求めているのだ。まるで、おねだりだ。しかも、声なきおねだり。欲しいものは抽象的で、決して触ることはできない。しかし、抽象的であるがゆえにあらゆる形態に憑依する。自由が欲しければ、それは一体身体の自由か思考の自由か、いずれにせよ、ここに好き勝手に書いているのは一種の自由であろう。だから、抽象的な願いは叶えられやすいのだ。おまけに、自分が愛されているという実感をなんの証明も必要としないのならば、いささか奇妙ではあるが、わがままは満たされる。そして、やっぱりわからないのが、自分は一体何を考えているのかという疑問だ。これは、おそらくは外部、すなわち社会的に必要になるであろう弁明として課されるであろうという自分の生み出した世界からの宿題なのだ。いささか面倒くさいのであるが、これに答えるのが社会参加である。しかし、社会に出ている人間は参加なぞ子供の文章に思われるであろう。子供の感性を必要とされていると想定される絵本でも書きたい気分になるのはそういった、自らの幼児性を社会的な大人のポジションに見つけ出そうするところにあるのだろう。

 世界が腐っているのではなくて、私の中の世界が腐っているのだ。腐敗している。だから、私は私の中で一人もがいて不幸になっているのだ。世界は何度も再構成される。私の中で。子供であったり、大人であったりしてね。そして、私は世界に退屈する事なく、私の世界の中を生きる。私は、私を牢屋にいれる。私は、私を励ます。私は、私が考えている事を私が解釈して本が出来上がる。他社とは想像的な産物だ。実感が伴わない。完璧なる外部の存在だ。世界よりも遠くにある。否、世界と他者は切り離せない。他者の反応を私が解釈する事で世界は明るくもなり、暗くもなる。なぜ、世界がどこもかしこも同じに見えるのか。それはネットで世界の視覚的にだけ捉える方法をとっているからだ。アメリカ人が、アメリカ旅行に行くだろうか。フランス人は、フランス人気質なしにフランスに住めるだろうか。

 沈黙は金なり

小田原厚木道路での話

 夕方になりますと太陽が傾きますので、太陽が出ている方角への視界は強い光でみえづらくなります。そんな時間帯の出来事。サイドミラーをみると400メートルくらいの少し距離があるくらいの後方で、白い車の後ろにパトランプつけた覆面。私は白い車に覆面を知らせるため、追い越し車線に入りオーバーリアクションして「なんだこいつ気狂か」と思われるくらいの、速度落とせリアクションをする。白い車は車線を戻り無事な模様。パトランプ覆面は追い越し車線を怒涛の勢いで疾走。白い車もすぐにパトランプ覆面の後ろにつく。俺もつく。メーターで140キロ。走行車線には2、3台の車がいる。しかし、パトランプ覆面は、夕方の逆光の中、白い車と私を置き去り前へ前へとぐんと加速していく。走行車線にいる先頭の車の前に出るかと思えば、その車の後ろにベタ付け。そして、白い車も私も走行車線に戻る。追い越しをバイクが来たので、速度下げるように右手を上下させると、相手のバイクは左手を上げて、わかってるぜポーズし、走行車線に戻る。すぐに、覆面は追い越し車線に入り、加速していく。

 覆面が違反者を取り締まる、または、取りしまりたいのは当然。取り締まられ側も取り締まられたくないのが当然。そんな話。

稚拙で素朴な疑問

 世の人はどうして、嘘をついてまで金が欲しいのかと考えるほどおちぶれる自分自身を見放し、自分に心がなければ嫌なことでも耐えられると言って聞かせ、本当に心がないように思われる時、どう世の人と交わればいいのかちっともわからないでいる。さて、ネットを通じてでしか世界と通じることができない不幸を嘆くな。世界は広いという時に、それは人間の意識の下にあると言われる無意識をも含めれば、世界は以上に広く、今日も何十億人の人の1日があるわけで、どれ一つ取っても同じものはなく、もし、その人の1日を知らんと思えば、何十億日かかる計算になるわけだ。つまり、世界は混沌としている。噓偽りと罵り自分は上手に嘘をついて生きている。自分の嘘がうまく機能していないから他人の平易な嘘が世に流通していることへの嘆きでしかない。ああ、私という人間についてついに飽きてしまう日が来るとは、いつまでも威勢良く筆を動かすこともない。どうにもならないと愚痴をこぼす。覆水盆に返らず。水下に流れて楽をする。さて、つまらぬ人生はつまらぬ。これが粋の構造に通じるのかしら。下らない理由、例えば、オリンピックで金メダルを取るための4年間の嘘、そんな遠い人参さえ信じられるほどに妄想は強烈だ。下らない妄想が世の中に蔓延してしまえば、いま人参を食べられない人にとっては耐え難い難関も超えられるもんだ。ああ、にんじんを食べたいだけなんだ。腹一杯一度食べればいい、そうすればにんじんだって所詮くるしみの元なんだって気がつくだろうに。ああ、面倒だという自分が面倒だ。私はちっとも大人になっちゃいない。むしろどんどんわけがわからない。ひとつひとつ世の秩序の亀裂が目につく。欲望でしかうめられない社会が出来上がっているのをここに見る。やすらぎは忘れ去られ、それはとても由々しき事態で、人が津波で死ぬなどどうでもいいほどだ。津波の恐ろしさを教えてやりゃ、あとは知るか。山に逃げるなりすればいい。壊れた家を安くで立てられるよう契約してやりゃいい。どうせ、永遠に残るものはないんだ、どうせ。なにが津波だ。防波堤だ。哀悼の意だ。そんなものを感じちゃいない。目をつむって1分間黙祷すれば被災者は満足するのか。テレビで被災者の苦しい生活を放送してりゃ被災者は満足するのか。満足するのはいつも与える側だ。テレビだ、黙祷する人間だ。被災者はもう、与えることもできず、いつも願うしかない、私もまた被災者をやめて与えたいと。それしかないじゃないか。補助金もらってずっと嬉しいはずがない。それでパチンコしても構わないさ。そういった人間には哀悼の意はないのだ。目の前の人参に食らいつくだけの向こう知らずがあるだけだ。卑しい品性を垣間見れてホッとする連中は被災者支援など馬鹿馬鹿しいという。ひとくくりに被災者というが、人格は何万とある。それらに衣食住がまず基本だ。金出して、自由に各々やればいいってもんじゃない。パチンコ大いに結構、病院大いに結構。でも、癖になる。金貸しも、被災者には寄り付かない。金がついになくなる。食うものがない。死にはしないが、だらしなくなる。服も。さてさて、被災者について。いや、それを取り巻きネタにする一時的な人について、それを眺める天邪鬼について。下手な文章書いてちっとも動かず、手だけは余計に動いてピアノの旋律は流れない、パチパチ音がするだけのこの場所で、私について考える。私の将来について考える時私は決して私ではなく、誰かに気に入られようと必死に奴隷になる哀れな人物だ。金が100億円あれば、周囲の目が変わる。なんでも言うことを聞くだろう。自己を非常な確信を持って、周囲について語るだろう。所得により教育が違うのではない、金にモノを言わせる連中が強いのだ。金のない連中は、精神に余裕がないので、いつもどこかに奉公するために柄にもない躾を受けさせれて疲弊しているに違いないのだから。ああ、天誅。チェスト。狂人。玉砕。これら全て、金の椅子に座るものたちへの刃物ではなかったか。経済的支援を必要とする少年は右翼になり、彼の守る精神は金よりも価値があるのだ。社会を良くする名目で、慈善事業に乗り出し被災地に炊き出しへ行って、こいつを悪者扱いすれば自分が変人だと思わされるような行為をして、精神は欲望と打算の計算づくめ、そんなのばっかりじゃないか。世の中が一概に素晴らしいのか、そうでないのかは、神秘主義的な人間に任せよう。世の中は素晴らしいのか?そうではないのか。私にはわからぬ。あまり世の人について考えたくないのだ、出し抜こうと考えているのはむしろ自分の方だ、だから、世の人の嫌なところに目が行くのである。どうしてかというと、私が見る世界は世の人だからである。ああ、無情。無情だね。こうやって私は世界を見ているのか。なんという暗澹たる世界であろう。毎日が夕方だ。カラスが飛び交う大手町だ。夕日が暮れて意識が目覚め始める。酒を飲み朝起きる。繰り返し繰り返し。

あれをしようこれをしよう

 感覚に身を委ねてみればいいんじゃないの。だって、そうしないと死んじゃうよ。いろいろあるさ、でも、死んじゃ何もできない。新しいことをしたいのなら、いまやってることをやめてわすれっちまうことだね。なにをしたいのか、明確にするなんてやっちゃだめ。計画なんてたてないほうがさきさきに物事は進んでいく。計画なんてのは、ベールみたいに周囲に受け入れてもらうためのものだ。自分一人で何かをするのに計画はいらない。どうやったらこの、計画だとか、やる気だとかから解放されるのか。

つかれたね

 つかれたね。どうしようもない。血の巡りが悪いのかな。お風呂に浸かるといいのかもしれない。でも、それだけじゃない。習慣にしなくちゃいけない・・・。でも、できない。やる気さえ湧かない。自分を洗うってことをしない。まず、顔を洗おう。油を流そう。もうなにをしていいのかわからない。自分の気持ちがよく分からない。何をしても何にも身につかない。だから、人が嫌いだ。自分よりも優れていない人が、私の上にいるのが気にくわない。それって、本当に嫌な奴だ。でも、それでもいいと思っている。そういう人生なんだと、思い込むように努力している。そうすれば、まだ我慢ができる。怒りが湧いてこないようにできる。これは、悟りの境地だろうか。だとすれば、たいしてありがたみもない。世の人はよく怒るけれども、私は何されても怒らないというわけでもないけど、どうでもいいじゃんっと思えるようになってしまったのは、やっぱりやばいんじゃないのかと思うのだが、ニュースも、人の悩みも、どうでもよくて、家のことなんか考えたくもない、案外そうして避けているところに自分がいるんだよね。奥にしまうほど、体に近くのなら、無意識こそ意識に先行して行動しているのかもしれない。いずれにしろ、これが無意識だと考えれば、それは意識的に考えているのだろうという疑いは免れないので、意識したことをしないように何も考えないように動いたり、文章を書いたりするのかいいように思われる。案外、自分が書こうと思う気負いが、テーマのない文章を永遠と書く徒労に終わることが少なくない。むしろ、今までがそうであった。特に、去年の夏あたりから私はもういろいろと元気が無くなってしまっていた。具体的にどうかというと、今まで腹の底から力が湧いてきたが、わかなくなってしまった。障害物を乗り越えようとすると闘志が湧いてきたが、今じゃどうでもいい、障害などないではないか、川を流れる水が大きな石を避けて通り過ぎればまたいままでのように流れていくように、障害物に書かずりあうのは時間の無駄であると考えるようになったのかもしれない。私自身が確信をもって私はこう思うだとか、私の考えはこうだというのを主張できないでいる。今までは、できていた。しかし、それも、ひとつの病的な症状であったように思われる。でも、それで解決できるわけではないのも感じる。それは、本当に確かなことだったのだから。意図した言葉はちっともその人を言い表していないのだから、人間は困った存在だ。もう、人間についてちっとも考察したくない。どうでもいい存在だからだ。案外本人は、こうしてほしいと思っているだろうが、すぐに飽きるだろう。本が読みたいと言われて、本を買ってきた、それを渡してもちっとも読み進めないのと同じだ。それを自分がわからないというのだろう。自分が、わかるという感覚はどこか危険な雰囲気を持っている。確かにそこには確信があるだろう。確信を持てる人生は幸福である。しかし、視野を狭めなければ確信はもてない。苦しくなったら苦しまなくちゃならない。それを努力と言ってみたりもするのだ。粋の構造にあるように、恬淡洒脱にいきようではないか。なにも、今日一日の価値を自分の価値に置き換えるのはやめよう。充実感であるとか、そういった感覚はたしかに魅惑的であるが過剰さをもたらし、いくらやっても充実できなくなるだろう。それは、退屈に感じるようになるのと似ているのかもしれない。過剰さは、ビジネスになる。金儲けが目的になる。そのうち、ビジネスが崩れる。わたしはビジネスマンではないので、ビジネスになんやかんやを例えるのは的が外れているかもしれない、そして、ビジネスというドライでありながら人間関係にしつこく執着する粘着性と、ちっともドライでもなければ、朝令暮改は毎日のこと、創造的である印象を与えながら、他人の持ち場を荒らしまくりいらないものを必要だと言って売りさばく。嘘をついてまでものを売ろうとする感性に慣れきった人たちはちっとも信用する気にならない。ビジネスに関われば、それが人生、生きていくためにお金は必要であるという感覚を強く持っている貧乏人の奴隷根性がドライなはずがない。だから、近寄りたくないのだろうか、私の無意識はいま少しだけここに開かれた。違和感を持つ言葉に、インプレッションを与えてみればいいのだ。定義のようなものだ。定義は種のようなものだ。いったいどんな花を咲かせるのか。