アウトプット

相手の視点に立ってみよう

足つぼマッサージは役に立つ。

それにしても文字が打ちづらすぎる。俺がいけないんだ、俺が。この観念がどうしても止まらない。後悔あるのみ。土下座してすみませんと謝ろうと言う気力もない。ただ、漠然と、自分という人間を不埒に扱ってくれる人のところへ赴くばかりだ。熱湯風呂に入れたり、崖から突き落として見たり、怪訝な顔をして見せてくれる人のところへ赴くのだ。周囲の視線というのが伝わる。うなぎのようにヌルヌルしていて耐え難い。一体全体どうしてこうなってしまったのだろうと原因を探って見たところで出てくるのはガラクタで、さらら一つ一つを集めて適切に配置し組み立てるような果てしない作業をしているようだ。いろんな人間のいろんな人生をみたとて何になる。それがいいたいのだ。自分にとって最適な人生とは思う?そういう考えがないことが幸せなんだろうと思わないでもないないが、コンピュータに慣れきった私たちの思考の形態は、それに寄せてきているのでどうしても効率的なことを追求し、人類があっとそうであるように、全く不快な気持ちで負の感情を大量に生産しながら、効率的に生きているように仕向けられる。およそ、何かを得たいという気持ちほど煩わしいものはない!何かを得なくては、一人前の人間ではなく、何かを得ることで社会に参加できるような、そう言った思考は苦しい。消費社会のモデルが、一定の行事に沿って毎年遂行され、年末になると帰省ラッシュで混んでみたり、オリンピックがはじまるとテレビは運動ばかり流す。どうも世の中はだらけきっている。精神がだらけ、肉体は尚一層だらけきっている。だから、ダメなのだ。ダメなのだ。否定すべきは、私自身であると同時に私が居座る環境であろう。そして、私という存在自体を捨て去ってしまいたい。では、だれが考えるのか?自分なしに?という問いに対して、私自身がいなくなるというあり得ない想定の意味するところは一体どこにあるのだろうか?

やせたいというけれど

 やせたやせたいというけれど、本当にやせたいからこそやせられないのだ。それがわかっちゃいない。痩せたいという気持ちは、痩せたくないという気持ちを連れ添って歩いている。だから、人間の欲望は叶えられない。好きで買ったバイクも、そのうちカスタムでもしなくちゃ好きでなくなってしまう。つまり、弄らなくちゃ愛情にならない。そのままの君を愛せない男たちの宿命。

 「質問です!やせたいけれど痩せたくないという気持ちはイコールですか?」

はい、イコールです。欲望は、その欲望がかなえられないように人間の無意識は動くのです。欲望を叶えるには、人間についてもっとよく知らなくちゃなりません。おもちゃが欲しいと言って駄々をこねる子供は、黙りなさいと言って親に叱られておもちゃを買う買わないの問題は遠くは言ってしまいます。子供をどうしつけるのかという皆が食いつく話題に持っていかれます。日本を良くしたいという人間がいます。今の日本が良いとは思えないのでしょう。私はそうは思いません。もし、今の日本に不満があるのであれば、どうして、日本のために云々できるでしょう。あるがままを受け入れろという話です。そして、あるがままというのも、自分の視点によっているのです。つまり、誰一人日本になんか住んじゃいない。ここまでくると意味がわからないでしょうけれども、どこか腑に落ちるのではないでしょうか。私は法律をやっていますから、世の常識やら相手への批評がいかに適当で主観的なものであるのかと思いを巡らすことがあります。私たちはすぐに物事を判断します。保留することができません。早くしなくちゃ他人に居場所を取られてしまうのです。椅子取りゲームの最中に、運動場に隕石が落ちてもそれを見に行こうとしない好奇心もない、そういう人間が経済を支えているのです。しかし、どん詰まりです。今までと同じことをしていても、縮小するばかりの経済。経済なんてどうでもいいよ、どうせなんとかなる、経済がダメになっても人間はダメになんかならないと考えるのもそうでしょう。経済がなくなることはありませんので。

 経済について言いますと、財源ですね。政府のプライマリーバランス黒字計画は2020年らしいのですが、それも見込めないという話ですね。財務省は、もうただ頑張るとしか表明しておりません。墜落するとわかっている飛行機のパイロットと同じです。しょうがないのです。では、日本が生き残る道を考えてみましょう。そうです、企業があります。彼らにお金を回せば、政府が破綻しても企業間で人々が互いのことを思えば日本という国の財源が破綻しても、日本に住む人間への打撃は少なくなります。だから、民営化するのです。自立させるのです。もはや、日本も無政府状態になるのかもしれません。ただ、住民票だとかはどうするんですかね。役所の仕事に縮小されるのかもしれません。おかしな話が、企業間の格差が広がるという話ですね。どうも、相手をおもいやるなんて気持ちはないので、ワタミはくそまずそうな昼ごはんを宅配しはじめるのです。もちろん、外に出るのが億劫な人にとっちゃいいサービスでしょうけれども、根本的に、そういう気持ちを持っているのが不幸じゃないかと思うわけ。ワタミはやっぱり黒いなと思わざる得ない。金にならないことはやらないんだから。という、企業への偏見はワタミに反映されます。もちろん、作られた笑顔ほど君の悪いものはありませんので。

 好きでもないことを書かなくちゃならないのにも理由があるのでしょうか。日本経済と共に生きている私にとって、この機構が壊れてしまえば打撃を与えられるのはやっぱり私なのです。そして、孤立した私は一人になり、悲しく死んでいくのでしょう。家で孤独死するのも、独房で死ぬのも、変わりないような気さえします。富士山のふもとまで行ってきにぶら下がるのも考えものです。

 あんまり暗くなりすぎました。近頃は日も長い。7時なのに昼のような暑さと日差し。どうにかならんかね

あれなんすよ

 いろんな人が頭のなkない思い浮かんでくるんだよね。じっとしていれば何か起こるんじゃないかって。ここでのルールとしてその善悪の判断はやめよう。と、書くこと自体矛盾しているんじゃないか。この問題点についてどう考えればいいのか。あくまでも、ルールは私の心の中にあり、滲み出るものなのかもしれない。私は、いい人間だと思っているから、いい振る舞いができる。といっちゃ、またつまらない記事を書くんだなーっと、ぼーっとしてりゃいいのに。べつに、なにかを取り繕ったりしなくていいのに。余計なものが多すぎるよ。情報だって、関係ないものはすてちゃえばいいんだ。ゴミ箱にね。散々、悪口言っても構わないよ。だって、関係ないもん。言葉の平板化。ネットのコミュニティーである問題提起がなされても、関係ないもん。無責任だって。ネットがなければ関わることもないような事件に、何を言えっていうんだよ。そこまで、暇じゃねーしつまらねーことに付き合ってられねえんだよ。鬱になるわ。

 ネットでみんながおんなじことを考えるようになる。予測ができるようになる。ネットだから、発言者にすぐにたどり着ける。ネットの誹謗中傷は、ネットにつきものだ。考えもしない、ろくに読みもしないのに目の前にはコメント欄が用意されている。刹那的に反応する。それだ。体験を、内面化するのは私自身なんだ。バタイユが読みたい。死体の錯乱の先に何をみるか。わたしが漂いたい世界は、こうした世界なのだ。すべてに理由がある。それが隠されている。理由のない出来事は何一つない。わたしの記憶が衰え始めたのも、私が心地よく生きるために無意識に仕組まれた機械仕掛けの運動に過ぎない。あれこれ言ってみたところで、そこに触れられない。

 なんというざま。いきているのが恥ずかしいと。そうも思えない。

犯罪者は金になる、正義感も金になる、だから、正義感を持て。犯罪者を罰する気持ちを持て。さすれば金が手にはいる

 さて、世の中金ですかね。どうも、そうじゃないと言いながらオールオアナッシング。金こそ世間だと、白黒つけてみたところで、何になろうか。犬は四つ足で歩くよね?走っている瞬間は一瞬飛んでるけど?みたいな話だ。世の中の定義を曖昧にしておく。きれいな川に魚は住まない。鳥にみつかっちゃう。他にどんな理由があるかしらないが。論理的に文章を書けば、どこかで言葉に思考が飛躍していく。言葉の延長線上に自分がいる。決して言いたい言葉の中に自分自身はいない。

 電車内で足を組んでいた女の足をわざと蹴り上げた男を目撃した女が、駅を下車したのち女に「力になれずに申し訳ない。あなたは邪魔になるような足の組み方はしていなかった」とフォローした。加えて、男に対しては「わざと蹴りましたよね。その必要はなかったんじゃありませんか」といった。男は、証拠があるのかと女に言い、女は男に対してダセェんだよ、と言葉をはいた。男は、女に対して、いきがってんじゃねえよ、糞ガキだと言った。

 さて、この事案でありますが、要するに蹴った男も蹴られた女も互いにコミュニケーションができていた。電車の中で足を組む行為を多少は悪いと女は思っていた。たとえ、それが邪魔になるかならないかではなく。だから、目撃者の女は、ただ、同性だということを理由に女をフォローしたのだ。なぜ、男に対して、「足邪魔でしたよね」と言えなかったのか。そうは思わなかったからだろう。つまり、自分の価値観で行動した結果。女は共感が好きだから、それを互いにし知っている。連帯して、あなたは悪くないという。女子会をして、男に対して、世の男に対しての裏切りを足蹴り男に感じて、世の中そういうもんじゃないよね、そうあって欲しくない、だから、自らの世界観を守るために男に対してものを言ったのだ。そして、情けない男は、蹴ったにもかかわらず蹴っていないという。男は決して、非を認めれば許してやるという世界には生きていないときが、しばしばある。俺こそ正義なのだ。女も、私の感覚は狂っていない。なのだ。実際は、男の正義は自分勝手で、他者をいつでも裏切るような冷たい人間であるし、女の私の感覚は狂っていない、それを確かめようという気力も強迫観念的である。実際に、女は心拍数が高まっていたらしい。

 要するに、暴力はいけないのだ。しかし、暴力は発生してしまう。発生するたびに問題にすればまだ、暴力は制御されるが、暴力に慣れてしまえば世の中がDV化するのだ。人をたたいてまで笑いを取ることに、身体的痛みを感じる人もいる。感じない人は鈍感というわけではない。しかし、他者への愛情表現だと言って叩くとき、「そこに愛はあるんか」本当に、あるんか?

 5月の空も過ぎて6月が来た。緑の山も一層濃さを増す。私は、青空の中考える。世の中の人は快感を他人に求めすぎている。自分の中から生み出されないものか。テレビは許す。勝手な人間を。しかし、形式的だ。実際は、勝手な人間というのも、勝手な人間じゃないのだ。ただ、警察を存続させるために殺人事件の犯人を適当にでっち上げるようなもんだ。警察が、殺人をするようなものだ。医者が、患者を止めるために患者を病気のままにさせておくようなものだ。全ては形式的である。それが素晴らしいと言って三島は死んだのだ。そこには、えも言われぬ、内容という空虚さを埋めてくれるものがある。すべての内容は形式的なものによって構築されている。つまり、内容さえ形式から成り立つ。形式こそが実態なのだ。唯一信じられる物なのだ。そして、観念こそ幾多の形式によって成り立つ物なのだ。そして、形式的だと思われる祭りなどの行事は決して形式ではなく内容で充満している。そこには、形式が煮詰まっている。だから、儀式は決して形式ではないのだ。それだけの話なのだ。内容のある話など、空虚なんだ。

 上の事案に当てはめると、蹴られた女も蹴った男もいない。いたのは、ふたりの人間に共感した女がいた。その女の奮闘記だ。彼女は泣いたらしいが、その涙は、世の男性への恐れからか、世の女性への不憫さからなのか、それとも正義という殺人事件が起きなかったこと、つまり、男が蹴られた女にではなく、それを目撃していた女の前で懺悔するという、買いもしない会社の車のリコールを実施した会社の社長が目の前で謝ることに、何かしら、それが筋であろうし、それをここで見せてみろと言わんばかりの、なにか疎外感がある。

 私の考えは非常に面倒くさい。本能的に、男に詰め寄って何か言えばいい。女も、男の言葉を無視してお前何蹴ってんだよと、そこから入ればいい。ける必要があったのか、それをクイズ形式で相手に聞いたのがまず方法として、男から糞ガキと言われる始末に陥ったのだ。女は、男に何を求めていたのか。男は、何を恐れていたのか。蹴られた女は、何も言わずどこへ行ったのだろうか。女の敵は女だ。男にこう言いたかったに違いない、なぜ、もっと蹴らなかったのか。目の前で犯罪が行なわれている、そこから逃げるのが女だ。巻き込まれたくないから。しかし、それは犯罪を見過ごしているのとかわりない。だからといって、止めに入ればトラブルになり衆人環視の注目の的だ。それを嫌った。自分を捨て切れなかった。それで十分じゃないか。女の涙は、おそらくは後悔の涙だ。あのとき、注意すればよかった。しかし、それができなかった申し訳ない。そして、その後悔を埋め合わせようと男に詰め寄ったが、男は知らんぷり。後悔後に立たず。

 諦めの世界。一体全体ものを買う手段しか皆考えない。広告宣伝だ。いいものを売るんじゃない、相手を惑わせてものを買うんだ。消費者も賢くなった。しかし、今はバカになってる。金さえあれば、いつでもものを買うだろう。決してそれで自分が偉くなることなど微塵もないのにね。現代人は一人の時間を失って、周囲に常に警戒を払っている。話のネタも、すでに知っていることは話さなくていい。楽だ。しかし、苦痛だ。あまりにも。話すことと、知っていることは違うんだ。現代はやっぱりおかしい、いきにくい。楽だと思うのは錯覚だ。工場で働くよりも、外に出て走り回りたいのだ。そうだろう、現代人。走れば疲れるさ、車にはねられるかもしれない、急な悪天候で雷に打たれるかもしれない、でも、工場にいたらベルトコンベアーに乗った情報を食べるパン食い競争じゃないか。ぶくぶく太って、消化に血が回って頭はからっぽになるんだ。人間の理解ができるというのが、一番の間違いだ。相手に自由を与えよ、そして、相手と共感できないということに自由を見出せ。それを自由と呼ぶのか、距離感と呼ぶのか。おそらく、どちらでもある。風を吹かせよ。君の行為は、きっといつもの癖に縛られている。いつもの習慣の奴隷に成り下がっている。自由は、習慣からは生まれない。自由は、常識と同じ次元に立地しない。自由は、脱力して意味もなく相手を揺さぶり自分は喜ぶ、お笑いだ。大笑いだ。

 現代人は情報食べて太ってついには生活習慣病になり周囲にひれ伏し死んでいくのか。現代人は一人で生きられない社会において、ついに自由を孤独と読み込んで一人くじに食べる夜食を楽しみにビール片手に野球選手を応援することか。

 さて、自由よ、私を殺したまえ。私の心臓はすでに自由のまな板の上に置かれている。