アウトプット

相手の視点に立ってみよう

論証

 論証が嫌いである。論証は不可能である。人間には論証を拒否することもできる。目の前で包丁を持った男が、女子供を刺し殺したとしても。私がそれを目撃したとしても。現場の出来事は歪められるのだ。取り押さえられた男は、過去という幻想のストーリーのために絞首刑台に立つのだ。

轟音

 轟音を轟かせた飛行機が頭上を飛んで行った。機銃掃討だ。子供が撃たれた。脳みそが破裂している。もはや人間としての魂が感じられない。いや、人間だと思いたくないのだ。なぜならば、いずれ自分もこうなるだろうという恐怖が私を襲うことを予感しているからだ。怯えにすぎない。彼は子供だ。そして、人間だ。私も、人間だ。打ち砕かれた頭蓋骨にこびりつく白いタンパク質を私も持っている恐怖に震えるのだ。

 陽の光が射し込む布団の上で、鈍りきった感覚が動き出す。現代人に足りないのはセンス。刺激が強くなったが、感覚は鈍くなった。そうだとは思わないだろうか。これくらいのことで傷つくなというが、人を傷つけではだめだ。ダメなものはダメという究極の理由がある。

 

 

 言葉で人を説得しようという試みに関して弁論でもてはやされるレトリックの技を使ったところですでに多くの人に広く認知されているからすることなし。

 論証が素晴らしいとわかる人とわからない人がいる。どちらの人にも通じるような話が物語だろうと思うのであるがどうしても私はこう考えてしまう。オリジナル性を捨てたくないのだ。誰かが考えているようなことはつまらないと断言したいのだ。それは退屈だからであり決して真理を語っていないからという理由ではないのが不埒であるが、私はどうしても面白い考え方の方が好きなのだ。

 だから、昨今話題になるプログラミング技術の広範な適用に私はうんざりしているのだ。ポケモンとおんなじで、自分の能力とは関係のないところで物理世界をコントロールして乗りやすいmotogpマシンを作るようなもの。F1がついに終焉したのも、誰も死ななくなったからに決まっているのだ。古代ローマ人は馬車を走らせて毎回のレースで死人が出た。その名残がF1を支持していた者たちの血に流れていたはずなのである。血の流れないF1は面白くない。もし、死ぬのが怖いのであるならば去ればいい。F1はドライバーが苦労して積み上げたキャリアのトップに君臨してお遊びのレースをして観客を一喜一憂させるというエンターテイメントになってしまった。F1はエンターテインメントではない。人間の情熱を掻き立てる何かである。

 

断定口調には罠がある。

 断定口調には罠があるのではないかという疑念がある。全てを疑うという態度の心身ぶかさは事実であるのだけれども。究極僕は相手の望むような人間になるのかどうか、そういうことはしないようにしたいのだ。それが自由だからだ。生き方がかっこいいという馬鹿げた言葉のためにどれだけ自分が不自由に生きてきたのかを振り返るべきであろう。なにも焦ることはないではないか。いきの構造を忘れてしまったのか。意地、色気、恬淡洒脱である。軽やかな気持ちで生きることがどうしてこうも気持ちいいのだろうか。そこに仏教的な根拠を見出して私との連関をとろうとするしつこさがない。私は要するにしつこい人間であるからだるいのだ。自分自身がだるいのだ。どうすればもっと遠くに行くことができ本を読めるかというと、このしつこさからサヨナラすることだろうと思われるのだ。特に目標もなく人生を歩んでいる人からしてみれば、それはサラリーマンになることであろうけれども、日本経済の行方が気になる。他人がきになるのだ。それも、自分がどうすることもできない人間が木になるのだからしょうがない。あと、私は人を放っておくことをするべきだろうと思われる。他人がどうなろうと知ったこっちゃない。それは、皆孤独であるからだ。絆を断ち切れと仏教はいう。

正直

 正直しんどいのだ。アウトプットしていたときの喜びがなくなっているにもまた事実なのである。自由にさせていたらおんなじことしかしないのが人間だ。だから、欲望を他社からもらって元気を出すしかないのだけれどもそれも金がかかるようなものばかりだからうんざりしているのだ。今の私の気持ちはうんざりと、しんどいである。