アウトプット

相手の視点に立ってみよう

グリーンブック

 最高の映画だ。涙が出た。床一面に涙が垂れてたと思う。グリーンブックを見た人ならわかるかもしれないが。もう主人公の名前をわすれっちまった。名前なんてどうでもい。イタリア人と孤独な黒人の映画だ。イタリア人は家族がたくさんいて幸せそうだ。といっても、運転手だから金持ちではない。金はないが人が多い。一方黒人は天才ピアニストだ。そんな天才ピアニストがわざわざ差別の地に赴く。アメリカ南部だ。州の名前なんて忘れた。とにかく南だ。警察官に車を止められ黒人は夜外出禁止だと差別され、演奏会場のレストランにも伝統的な理由で入店お断りの始末だ。アメリカの差別解消は1960年代に一気に進んだ。確かそうだったはずだ。詳しいことは知らない。映画の時代は1962年場所はアメリカ大陸だ。

 ゴロツキが警官をぶん殴ったことで牢屋に入れられた二人は演奏を控えている。このままで演奏できない。困った黒人は電話をかけさせろという。南部の警察にそんなことを言っても無駄だが、黒人が人権があるはずだと冷静にいうと、若い白人警官は確かに弁護士への電話は認められているとでっぷり太った署長にいうと電話が認められた。しばらくして、電話が警察署にかかってきた。その一本の電話で釈放されることになる。鶴の一声はケネディだ。

 北部での出演料の三分の一のギャラで南部に行くことになった孤独な天才ビアニストは、クラシックが専門だが要求されるのはポップだと嘆く。黒人がクラシックを弾いても受け入れてもらえないと嘆く。ゴロツキは、あんなつまんねー音楽よりお前の弾いてるポップの方がいいぜと励ます。にこりと笑うが、俺の弾くショパンは俺唯一のものだと呟く。は〜。

 レストラン入店を拒否られたホテルは最後の演奏会場であったが、ボイコットしゴロツキイタリア人と黒人バーへいく。そして、ピアノを演奏する。俺は思った。クラシックを弾いて周りの黒人から白い目で見られるんじゃないかと。そんなことはなかった。楽器を持った奴らが集まってジャズになった。店の外に出ると酒場で天才黒人ピアニストが札束をポケットから出すのを興味津々に見ていた少年たちが車の後ろに隠れていた。ゴロツキイタリア人はそれに気づいて背中に隠してピストルを空中にぶっぱなす。少年たちは逃げていった。

「バーで札束みせんなよ」とゴロツキはいった。

 俺こそ黒人だとイタリア人は言う。金のない暮らしをアメリカでしている。貴様こそ金があっていいじゃないかと。黒人ピアニストは嘆く。家族もいない暮らしで金ピカな骨董品に囲まれてクリスマスを過ごしてる。どこがいいんだ!と。

「さみしいときは自分から動かなくちゃダメだよ」とゴロツキが言う。

 クリスマス。眠気が限界に達したゴロツキの家族はクリパを始めてる。モーテルにもう泊まりたいと言うゴロツキだが我慢して運転しろと非情な命令を黒人ピアニストは言う。車がゴロツキの住む家に着いたとき、運転席から出てきたのは黒人ピアニスト。後部座席で毛布を被せられ寝ていたのはゴロツキだった。

「うちにこいよ」とゴロツキがいう。しかし、黒人は遠慮しとくといって家に帰る。

 家族とクリパしてろと召使いをさっさと帰らせて。一人椅子に座りゴロツキがくすねた思い出の翡翠を取り出し机に置かれた皿の上に置く。

 一方、シェイクスピアのお帰りだいと騒がれゴロツキは奥さんとぶっちゅーして典型的なテレビ的なイタリア人を皆演じている。そこに、黒人がやってくる。奥さんは手紙ありがとうと耳元で囁き、一瞬滞ったゴロツキ一家もすぐに彼を招いてクリスマスを過ごす。

 一言でいえば素晴らしい映画だが、初めは超退屈だった。レビューではユーモアが溢れてると書かれていたがそうでもなかった。しかし、ユーモアは自然に出てくるもので笑いを求められるユーモアとは違う。寒くない。日常のあったけーユーモアが満ち溢れていた。それは爆笑ではない。クスッと笑えるユーモアだ。クスッと笑えるだけの心の余裕が自分いあるのかどうか見極めることのできる映画だった。俺の顔は多分鉄のようだった。

 右隣の婆さんは最後すすり泣きを始め。左の婆さんは退屈な場面でスマートフォンを操作していたくらいだ。字幕が悪かったのだろう。もっと、字幕にキャラを持たせればいいと思った。しかし、気づいた。ゴロツキ野郎は相当英語ができねえ奴なんだと。だから、字幕がなんかイマイチなのも納得できた。しょっちゅう黒人ピアニストにゴロツキはアクセントの注意を受けるんだが、その場面で黒人は気取っていた。アクセントも笑うところなんだろうけど日本人には馴染みがない。黒人専用モーテルで宿泊者が外で団欒している際声をかけられると黒人ピアニストは反応せず気取り野郎と声をかけられていた。設定上、気取れと言う支持でも出ていたのだろう。

 俄然、イタリア文学に興味が湧いた。多分イタリア人はなんでもないことをなんでもなく扱わない。感情に言葉がのっている。だから泣けるんだ。もう仕方ながないのか。日本では感情的な言葉は嫌われる。バカにされる。イタリアでもそうなのだろう。どの国へ行ってもそうなのかもしれない。しかし、こんな考察はどうでもいい。とにかく、黒人のピアノが超絶うまかった。本人が演奏しているんだからなおさらすごい。カメラで指をドアップにするシーンなんかひっとつもなかった。あれは練習なのか、ピアノが上手い人を雇ったのかどっちかだろう。アメリカは本当に広い。近頃鬱屈した日本の古典ばっかり読んでいたせいか、憂鬱だったが久しぶりに中身の詰まる思いがしている。「意味を見出すのではなくて、意味を付け加える」それがイタリア人なのか。タタール人の砂漠という本を帰りに立ち読みしたが、軽く読んだだけでイメージがすごかった。イメージの氾濫。細かい礼儀ばかり互いに押し付けあってマウンティングしている日本人の肩身の狭さを日々思うのだが、帰りに親子だろう、「言いたいことは言わなくちゃね」とか「涙がとまらなかった」とか言っていたけど、言いたいことはやっぱり言えない。言いたいことを言えばニッポンでは人狼的に吊り位置、世間では変人扱いだがイタリアでは死人扱いだろう。イタリアでは日本人は死んでいる!

それにしても

それにしても僕は、本当にどうでも良いことをたくさん書き散らすのが好きだなあと思う。どうしてこうも自分はダメなんだろうと考えてみることさえキザなことだと思っている。自分がいいと思っているからそのような疑問が湧いてくるんだ。自分がダメだと思っていれば悩むこともない。だって、それを受け入れているわけだから。しかし、それでいいのだろうか。人間は自分が思っている通りになるというじゃないか。私は私を作り上げ方にはめる奴隷使いでもあるのだ。私は私の奴隷である。私はどうしても捨てられない何かを持っているのだけれどもそれを捨ててしまうほどに自分が何か大事なことを成し遂げようという機になれないのである。ただ、何の目的もなく書くことだけが私に突堤喜びなのであるとここに書いてみてそれを後で読み返すこともなく何かに向けて、その対象さえなくなったときに初めて本当に自由になるのではないかと思う。人間は必ず環境のどれになってものを話す羽目になる。だからいつまでも嘘ばかりついてそれで疲れている。自分で自分を使役して疲れさせるまでに疲弊させていることに自分自身で気がつかないというのはどういうことだろう。悲しいことに違いない。作家も本当に苦しいと思うのだ。

三島由紀夫文学館

 山中湖周辺の雑木林にある。入館料大人五百円。広くはないが、内容は充実している。小学1年生の時の作文から豊饒の海四部策の原稿まである。中でも創作ノートは面白い。原稿用紙には綺麗な字を書いているが創作ノートの文字は崩していてよくわからない。しかし、均整のとれた文字なので綺麗なのだ。他にも、彼の書斎を模した展示もあった。驚愕したのは、古典の本の多さである。整然と並べられた薄焦げ茶色の分厚い古典の本が彼の体験した掛け替えのない実感であるような気がした。彼の脳みその中に日本がある。俺が死ねば日本は終わると彼が行った時、彼は輪廻を超えて日本に帰ることなく潔く「別れ」を市ヶ谷のバルコニーで叫んだのかもしれない。漢文の素養のない日本語の文章はダメだと、彼は嘆く。今の日本は翻訳調が主流だろうから、村上春樹ライ麦畑はやっぱりよく書かれている。特に会話に日本語の細やかさと英語の多弁が合間って臨場感を演出しているように感じられる。村上春樹にはハマらなかった。しかし、堕落した今なら差し支えないように感じられる。彼の文章は苦労がいらないから避けてきただけなのかもしれない。三島は視覚的に文章を書く。説明が美しい。描写がくっきりとしている。対象から連想するイメージが錯綜している。三島は古典に視覚的な美を求める。彼は古典とは美しい日本語の姿だと言った。フロイト精神分析など必要がない。何が書かれているのかではなく、どう書かれているのかが彼にとっては重大な関心事であり、意味を問うような野暮を嫌った。今改めて三島由紀夫の文章を考えると、フォーマット化された自動筆記なのかもしれない。彼もまた哲学を小説にはっきりと書いて見せた。奔馬では唯識を論じた。目があるから見えるのだ。耳があるから聞こえるのだ。目も耳もなければ、太陽は存在しない、サイレンも存在しない。触覚さえなければ、全て何も存在しないのだ。だから、死ねば世界は終わる。死ねば、苦しみさえなくなる。喜びもなくなる。彼は虚無だろうか。虚無を見つめた眼はまん丸としている三島の目だ。さて、そろそろ文学館を出よう。この辺は紅葉の時期になると綺麗らしい。次は秋に来てみよう。散歩しに。でも、やっぱり三島由紀夫文学館にいくと雰囲気に魅了されて背筋が伸びる気持ち良さがある。古典は日本人の最高級ホテルである。精神のね。精神の宮殿はシャーロック。

科挙

 中国は凄い。科挙という試験制度の話。古典を丸暗記しなくちゃならない。そんなの無理だから来ている服の裏に文字を書いてカンニングする。ばれなければいいのだ。一番良い成績だからと行って幸せに死ねるわけではない。イケメンで頭も切れた美男子は、外交政策において弱腰で結局切腹を命じられ死んだ。人生万事塞翁が馬。人生訓なんてたかがしれてる。うるさい道徳に聞こえる。当たり前だ。当たり前なことをやれているのかという当たり前な返し。結局は言いたいことがなければ書くことなんてできやしない。中国人は片言で話すから話が長くなる。大声になる。

「私 ごはん たべる」

「いま 10時 はやい」

「きのう 夜 ごはん たべてない」

日本語なら

「ご飯が食べたい」

「わかった」

 狐につままれたような感じだ。

 最後まで読ませる文章が最も良い文章であるのは確からしい。

書くヒント

 本屋で丸谷才一の思考のレッスンって本を立ち読みした。すっ飛ばして読んだ。

 「良い問いかけは良い答えを上回る」

 とにかく、書くには問いを自分で立てて自分で答えることだ。他人の問いかけは結局他人の問いだ。他人事はどうでもいいものだ。自分で問いを立てなくちゃならない。そう訓練すれば、自ずから答えようとする。

 今はネットですぐに検索して答えを見つける。おまけに記憶する必要がないと豪語する。他人の質問だから記憶する必要がないのだ。空っぽの脳みそが今日も歩いてる。

誰も読まないブログ

 誰も読まないブログで誰を相手に書いているのかって言えば俺なんだな。俺さえも読み返さないから結局は今俺が考えている俺という存在と対話して楽しんでいる。サリンジャーもそうだったんじゃないかな。彼って森の中に引きこもって結局色々ものを書きまくったけれど世の中には発表せずに死んじゃうんだな。それとおんなじで、もう妄想を文字に起こすことが楽しくて仕方がない。世界で何が起こっているのかとかどうでもいいくらい自分の中でわからないことがたくさんありそれに答えようとするのが一番楽しい。

北朝鮮が平和になったら困る

 北朝鮮が平和になり、朝鮮戦争終結すればアメリカ海軍が日本に駐留する意義を別に見いださなければならない。対中国、対ロシアにね。北朝鮮がミサイルぶっぱなしてアメリカ本土脅かすってな事態を妄想しとけば、平和憲法のもとアメリカ海軍がいてくれなくちゃ日本は先制攻撃できませんから、稲川淳二風なこわいよ〜こわいよ〜でアメリカ軍がいてくれてありがとうってなる。トランプはたぶん、海軍とかどうでもいい。日本とかどうでもいい。というか、子分でしかない。日本語も知らないだろう。よくわからんが。金だけはとりままあまあもってる日本。妾のかねみたいなもん。貸してといえば、くれたも同然。中国はそうはいかない。中国でものを売ろう!今まで作ってきた車だとかエアコンだとかは、もうみんな持ってる。アメリカ人日本人みんなもっちゃってる。次は中国だ!中国で売りさばけ!ってな感じ。とにかく、北朝鮮が平和になったら、なぜアメリカ軍がいるの?日本に。あ、中国と戦争するつもりなのかな!それともロシアかな!ってなる。でも、どっちも手ごわい。多分日本単独行動じゃ負ける。靖国神社を参拝してみても戦争には勝てっこない。アメリカがいてくれなくちゃ困る!アメリカに依存することで、中国にも偉そうにものが言えてロシアにも偉そうに物が言える。でも、中国もロシアもわかってる。バカじゃない。日本が虎の威を借りた狐ってことを知ってる。歴史的に中国に勝ったことがある、ロシアに勝ったことがある。でも、次戦争するときは勝てるのかな。とにかく、日本がアメリカ海軍を追いやったらもう、虎のいない狐。パンダに襲われるわ、シロクマに襲われるわで、てんやわんや。北朝鮮が平和になっちゃったら、もうちびるしかない。貿易でも、アメリカに追従する。マーケットもちっさい日本。だれも儲からない日本。儲からなくてもいいじゃないか。ベンツ100台持ってる奴がいい生活してると思えない。病んでんだろ。jk