アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ぼーっとすること

 急いではいけない。君は失うだろう。感覚を。言葉を。感情を。

急げばロボットになる。ロボットは命令がなければ動けない。今は違うかもしれない。AIは自分で学習し命令がなくても動く。私たちはAIを破壊するべきだ。運転が下手な奴がAIの技術で事故を減らせば運転が上手な奴の価値がなくなる。AIがトイレ掃除をしてくれれば、トイレ掃除をしてくれる人の価値がなくなる。AIは人間から労働を肩代わりして、労働に価値づけられていた人々を亡き者にしてしまう。労働とはある種の人間にとってみれば生き甲斐である。私はここでAIに賛成か、反対かを言いたいのではない。AIがもたらす社会を考察したいわけではない。AI技術に関わる人間の人間性に疑問を呈したいわけではない。私は何にもしたくないのだ。私は価値は私自身が作り上げることが可能であるのかを考察したい。他人から承認されること、つまり他人から優しいと思われたり頭がいいと思われたり気がきくと思われたり羽振りがいいと思われたり、そういったことに対して疑問を呈するようなこともしない。ただ、俯瞰して眺めてみれば彼らはその他人の評価にしがみついて自己について何も知らずに死んでいくのだと考えたらAI技術なくとも既に機械化された人間がそこら中にたくさんいるではないかという話をしたいのだ。しかし、私はこれに対しても否定的である。おそらく現代は人間的な価値観をさらに強めようという方向に向かっておりそれに対してAIが対峙する構造が見られる。例えば、AIに仕事を奪われる人たちがいるという事実だ。しかし、AIの導入を決めるのも法的な整備も考えれば、人間的な判断が下されることに違いはない。恐ろしいのは、AI技術者がどんな1日を送っているのであろうかという労働環境である。しかし、私はこれらのことに首を突っ込んで空論を呈するようなことは一言も言いたくないのである。別段AIを恐れているわけでもないのに話のネタとしてAIを持ち出している自分が腹立たしい。多くの人は何かを書くために自分の立ち位置を決めて論調を進めており、無意識である場合も多くあり、それを幸せと呼べるのか私にはちっともわからないでいるのだ。

感覚

 一滴の水が舌を這いずり回る感覚を忘れている私たちは、音楽を聴いても雑音を聴いても美を見出すだけの力を持っているのだ。それは神話の世界の神になり、現代ではファンという読者になって金を投資して自らの崇める神を確認しているのだ。私にはわからないという態度をするのが気に入らない。わからないといえば何も考えずにただわかっているという人と会ってその人から意見を聞けばいいというのが気にくわない。それがコミュニケーションと呼ばれる形態で、各々私たちは他人に期待される行動をとることで他人の記憶や他人の世界観を押し付け合い生きているのだ。その押し付け合いとは、互いが完全には了解しあえないことを哲学により暴露されたときに実学に走り子供が欲しがるおもちゃを大人になっても欲しがるような眼差しで消費社会に突っ込んでいくのだ。私たちはゴミを買わなくちゃ社会が成り立たないという妄想を互いに共有し、その苦労も互いに共有することで社交的な人となり皆から支持される政治家にまでなれるかもしれない。それが真理だと納得できれば私は苦労しないが、私は論理で考えると人間の感情は互いの創作的意欲により作られた幻想でしかないと感じずにはおられない。今問われているのは、私たちは人間を今度は如何なる存在として規定しようかと悩みあぐねているのだ。人間という基準が変わることで私たちはかつてに古代ギリシャ人たちや平安時代に生きた記録にも残らない人たちと全く別であるという感覚を持つことになるのだがそれは全くの嘘で人間が今まで創作的に作り上げてきた概念のその基体には変化しないのではないだろうか。ラカンがそれをなんといったのか私にはわからない。構造は変化しないということを私は言いたいのだろう。

 私たちは疲れてはいけない。疲れてしまえば私たちは私を失うだろう。私を失えば私は存在せず炉端で死んでいるだろう。その黒い死体は夜の闇に紛れて人に気づかれずいつの間にか白骨して風化した塵となり大気中に分散して世の人の肺に入る血管に入り誰かの恋路を船を漕がせるオールとなって力強く湖畔に波を立たせるだろう。

 死んではいけない。死んではいけない。誰が決めたことでもない。誰も悲しまないかもしれない。でも、死ぬという心持ちを持てたのなら社会を変えられる。同じような道を歩んでくる人たちに先回りしてベッドやシーツ、暖かいご飯やシャワー石鹸やシャンプーリンスを用意して待っていることができる。死にたいということを無碍に否定はできない理由がここにある。

日常

 日常に埋め込まれた情報を何一つ知らずに気にしもしないでいられる自由を手に入れたけれども、人間がそれで幸福になったのか知るすべは見つからず、この瞬間の快楽だけが今までの人生を肯定する格好の時間帯出るのに気づかない人間がいるだろうか。痛みは架空の未来の話として保存されいつ開封されるのかわからず死を迎えた人たちは過ごしてきた無為の怯えた日々に懺悔して夕日を見つめ今日も素晴らしかったと呟くのだろうか。私自身という話になるときに私は判断という仕事を全うせずに遊び暮らしてどれだけの知恵を絞って今日生きてきたかその苦労も忘れいよいよ無為の生活に介入していく運びとなっている。断定口調は結局何を語れるのか不問のままリズムに乗せて偽りの環境を作り出し人々を洗脳していく装置でしかないとすれば、言葉の厳密制を担保する論理を強化すべきだという結論は納得もいくが、今日の人間は論理ではなく感覚で生きておりお金がなければ幸せではないという公式も感覚的に捉えれば人々は繋がり合い互いに縛り付け拘束と束縛を続け互いに口を押さえつけ相手にものを言わせない暴力を振るっていることに気づかないわけもないだろう。こんな時代になった理由が諸説あるとして僕はどの説にも納得のいくことはないであろう。考えて分だけこの世界は実りの多い世界となり悩みが少なくなりもするんだ。多くの人がなぜというほどに思考が似通っており自分に固執しているのか、自分の意見や利益に固執して自分の存在を信じ込み他人を無視して一人孤独に生きているのか私にはわからない。

 今日人々は互いに迷惑を掛け合っていないことを誇りにしているが本来人間は迷惑を掛け合って生きているわけであり、迷惑をかけているにも関わらず迷惑をかけていないと思い込んでいる人間が権利主張をし相手の立場も考える余裕もなく必要性も感じていないために、自分勝手な振る舞いをしてそれを自由だと豪語し人間同士のつながりを喪失しあっているのが実に貧しい人生であることを私は主張したい。論点は無数にありそれについて議論する用意はもちろんあるけれども大抵は自己の考えを否定されたことからくる脊髄反射でありそこに反省はなく、自らを省みる姿勢は皆無であり、むしろ自らを省みることで恥ずかしい自己を見出しこれ以上自分が他人に迷惑をかけていないという空想からくる自由を手放したくないという思いが、必死であるのに私はなんの違和感も感じないのだ。

 人は弱く脆い存在であるために、何かにすがることで自己を確認している。自己喪失観念は今日であるよりも私は自己革新とは快楽であると思われるのであるが、世の人は一度掴んだ利益の構造体系を壊すことにもちろん反対であるし、虚像である利益の生産の仕組みを共同体で支え合うことに賛成できない人たちの行き場はどこであろうと考えるのだが、私にはいい案が全く思い浮かばないからあまり話さないことにしようと考えている。

 

脳みそリフレ

 ちっとも面白い話がないんだけど。ちっとも。だるいとか辛いとかそんなことしか滞留してないんだよね。物事を正確に理解しようとしたら想像力死ぬんじゃねーかってレベルで想像力死んでるからアニメとかみて気持ちよくなってるんだね。脳みそを解きほぐしてくれる人をみんな待ってるんだよね。脳みそリフレ。 

 ああ、金にならないことばっかして時間を浪費するよりも金儲けして車買ってドライブ行った方が楽しいっての。そんなことも知らないで何をだべろうと一円玉人地にもなりゃしない。馬鹿らしい。ホームレスよりも無駄なことしてるこれってなんだろうね。

 俺の中にいる細長いタバコ吸ったお姉さんが話してるあんた別れちゃいなよってね。このお姉さんは、まあ私のことなんだけどどんな辛いことも辛いままに受け取るはみ外れた力を持ってるから、自動車の安全バックなんてちっともなくてもフロントガラスに頭ぶつけて脳みそ潰れても痛いとか言いながら病院で線香あげてくれる生き方がお似合いって感じの人。

 お姉さんはイツもだるそうに歩いていて笑うことなんてない。笑うことがないから怖いイメージだけど実際に怖い。優しさなんて分かる人にはあるけれども想像力や他人を思う気持ちの死んだ人にはわからない優しさがあるから彼女は偽善者じゃないんだ。

 そんな姉さんももういまとなってはどこへやら。幸せに暮らして欲しくはないな。

世界は無数にある。

 世界は無数にある。夜眠っているブラジル人がみている美女がビーチで裸になり彼に腰を振って笑顔で近寄ってくる夢と、今こうして部屋で一人これを書いている私に移る世界は全く違うということを理解するのはたやすいことではないか。しかし、あたかも同郷の人を見れば同じ思考体系を持っていると勘違いしてそれ以外の差異を認めないように、我々個人も違う世界を見ているのであるが、ではどうして世界は一つだと多くの人が思いなしているのかといえば、それは言葉による世界の構築を行っているからだ。互いに話し合うことで思ってもいないことを言ったり、聞いてもいないことを聞いたふりをすることでこの世界は成り立っている。つまり、誰も世界に対して責任を負う必要はないのであるが世界の住人であり事故を忘れた人たちである群衆により責任を負わされ袋叩きにあうのがこの言葉による世界の習わしなのである。

 言葉により世界が成り立っているのならそれを虚構と呼んでもいいのだろうか。虚構とは実際にはない世界のことであるが、世界自体が実際にないのだから虚構に対応する現実が存在しない。我々個人が思いなしている世界も、それがいかなる個人的な世界で誰も相いれない場所を作り上げても言葉により成立している。それを考えてみれば言葉により世界は成り立つのであるから何れにせよ世界に現実性はなく虚構を世界といって構わないのではないだろうか。

 実際に、私たちは言葉の通りに動きそれに忠実になることで世界を世界たらしめている。たまに銃を乱射して生徒を死なせてしまうこともあるが世界はそうあるべきではないので加害者は抹殺される。

 至極簡単な説明であると思われても困るのだ。物の値段を市場で決めるとすれば、市場での価格がいくらであろうともそれを受け入れなければならないわけではない。自分で価格を設定して売ってしまえばいい話である。

 私の話には結論がない。

虚構

 言葉は虚構である。しかし、虚構でないものはあるか。そんなものはない。すこしもないのだ。むしろ、言葉を得たことで多くの虚構を手に入れることができる。虚構とは実体のことだ。虚構が虚構と認識されればすでに虚構ではない。言葉を精神が紡ぎ出す。精神は言葉の動きに現れる。代理物を動かして精神が形成される。では、死者に魂はないのか。死者は動かない。動かないのなら精神はない。精神が活動であって、加藤堂と呼ばれるものは全て精神に依っている。

 精神もまた虚構である。そして、実体である。虚構化されない可能性もまた虚構である。根拠は全て虚構に求める。虚構の中を生きるしか人間にはできないのだ。感覚さえ嘘である。殴られていたいのは殴られたからではなく神経があるからだ。神経がなければ痛くはない。健全な人間には病的な神経が宿っている。病的神経は過剰な不安にかられ危険回避行動をとる。神経に支配された心は虚構化の精神を失い常に神経を赤子のように世話をする。

 言葉について語るときは毎回舌足らずに終わる。そのために何度も言葉について語ることになる。これは言葉が私を誘惑しているからだ。まんまとやり込められた私は言葉について永遠とおしゃべりする。言葉は一体何かという問いの意味を考えるくらいしか休息を感じられない。無意味なことを人間は常に意味の源泉と呼んできたではないか。無意味であることに意味を見出す作業の創造性を感受性であり、文化の基盤として設定してきたではないか。

 現代は、意味を根拠づけるのに必死だ。無意味に耐えきれないのだ。やかましい意味の騒音なしに安心して生きられないのだ。静寂の無意味さに創造する余地を見出せないのか。

馬鹿な親たち

馬鹿な親たちは大体自分たちは立派な親だと思っている。馬鹿だ。立派な親だと思っているから子供はそれを信じて学校に怒鳴り込む。親というのは大抵馬鹿なんだからそれを認めるのがマシな親だ。親は馬鹿である。しかし、馬鹿を認めないのはもっと馬鹿。教育方針だとかうるさいことを言っている親も馬鹿。人間万事塞翁が馬。何が起こるかわからない世の中であることを忘れてしまっていることを馬鹿なことだと思っていない。クソババの書いた教育本を手に取り子供を育てる意欲は素晴らしいが、馬鹿であることには変わりない。教育本を読むしか子供を見る目がないのだから馬鹿というよりも身体に障害があると言っていい。目の前の子供を見るのに他人の力を借りているのにそれを忘れてテレビで鵜呑みにした情報と気分で子供に接する。子供は従うしかない。こんな馬鹿親に育てられた子供がかわいそうである。だから、親は馬鹿であるということを自覚して馬鹿のまま子供と過ごせばいいのではないか。教育方針は全て必ず失敗をしなくては子供は自立しないでいつまでも子供のままでなのだから。教育本は子供をてなづけ近くに起き召使いにする本であることをお忘れなく。そんな気持ちは毛頭ないという親は教養も額もない馬鹿親だから子供がかわいそうって話。