ゆーみん最高!ふうう!

 っていいながらね、今日もね、お送りしたいと思いますよ!って誰も読んでないんだろうな!ってしかたないわな。

 まあ、記事なんて、自分の好きなこと書く場合はひとり言と変わらないんだから、がんばってひとり言を書こうじゃないかね、きみ。

 前置き、最悪。

「きみなき世界」前奏から悲壮感たっぷり。悲しい旋律から一気に、軽やかに歌いだし。ゆーみんが無理して高音域を出してる、この感じが、無理して人前で自分を繕ってるようで、なかなかいいです。

 曲を先に書くか、詩を先に書くかという分かれ目がある。ゆーみん曰く、「詞先はまずあり得ない」「作詞というのは、メロディーの中に埋め込まれた詞を掘り起こす作業なんだ」らしいです。つまり、曲先でした。曲からイメージを掘り起こす。クラシック音楽をきくように、音から気持ちを紡ぎだしていき、言葉を与える。

 なるほど、そういうことだったのか。雨音にも意味を見出せる方がいいもんね。思えば、詩先っていうのも、心の中に悲しいメロディーが流れているのかも分からないしね。言えば、詩先も曲先も境界が曖昧だ。

 だから、この疑問は対して曲の良さを論じる際に参考することではないのかもね。だって、曲の良さって自分が感じた範囲のことなんだから。相手の作り方を知って、そこから、ポイントをおさえるってのは、やっぱり作り手の気持ちを自分の感情に取り入れて自分が感じたんだと主張するある乗っ取りのような行為なのかもしれない。

 でも、そんなこといっちゃ気持ちがおさまらない。自分の感情とか他人の感情とか峻別することはそう簡単なことじゃあない。

 およそ、自分の感情ってのは、他人の感情が自分に「転移」して作られるものだってうまいこといったやつがいやがる。自分の感情ってのは、他人の感情なんだ。だから、共感のように相手の気持ちがわかったような気になるのだ。

 でも、この分かったってのがまたくせ者なんだよな。何せ、いちいち細かいことまでわかるわけないんだから。

 じゃあ、どこで分かったって言えばいいんだい。他人の気持ちはわっかんねえんだよなんて、身も蓋もねえことはいえねえ。

 思うに、方向性が共有できればいいんだと思う。どこを目指しているのか、その感情が。方向性というのは、相手がその気持ちをもつことでどういう方向に気持ちが流れて行くその方向のことだ。

 方向が行く先ってのは、例えば、大切な人と会いたくても会えない。現実には存在するんだけども、私の心があなたに会うことを禁止してる。物理的に会うことはできるけれども、心は物理的にあなたと会いたいとおもっていないし、会ったって何も起きないことをわかっている。わかったふりをしている。けれども、実際に会ったら何を言おう、何か大事なことを、大事な行動をしなくてはいけないっておもってしまう。

 つまり、矛盾した心が方向性にあたる。

 そして、ゆーみんのきみなき世界の私の解釈である。この解釈を共有することであなたはあなたに自分の感情を押し付けるのである。そんな押し付けがましい行動はあなたのプライドとあなたの自我が許さないであろう。だから、批判することが人間同士の間で共有されることがひとつの潤滑油となるのだ。

 そして、批判することは孤独になることだ。友達という幻想を壊してしまうことなのだ。その破壊のもたらす悲惨を先取りして、友達を作るべきなのは誰だ?オレだ!!!!!!!!!でも、この悲惨を共有できる友達が私はほしい。だって、そっちのほうがより私にとって理解しやすい筈の人だし、同じような問題に立ち向かうときに、より友達である実感をわきやすいからである。つまり、友達である確信を持ちやすいからである。容易に壊れない友達関係というものだろう。

 とまあ、思考を巡らし批判してきたんだけど、おおよそこの文章を読み返しておもったのが、てめえは道ばたに落ちてる?を全部拾いたがるんだなってことだ。むしろ、遠くの外国なんて行く前に、近所で一生終わっちまうよ、こんな身近な?にひとつひとつ反応してたら。

 ところが、近所でみつけた?と同じものが外国でみつかることもあるわけで。むしろ、普遍的な?はどこにいっても見受けられるものなんだってここで断定してやる!だってそうだろ?人ってのは近所にいたって外国にいたって死ぬもんなんだから。

 そして、人の死ってのは、不思議なもんで、お墓を作るんだな。お墓が集まると霊園になるんだな。霊園ってのは、なぜか、神聖な場所のようなんだよな。お墓の前で悪いことはできねええ。

 ところで、話がなんだか込み入りそうなので、この質問の回答はここでは放擲します。

おわり