ひさしぶりの投稿だす

 わたしは新聞を読んでいない。中学生高校生の頃は新聞を毎日のように読んでいた。おもしろかった。朝日新聞と地元紙を毎朝読んでいた。ただ、内容に食い違いがあるかどうかといったことは気にも留めずに文字をつらつらと読んでいると気持ちがいいことに気がついた。私は高校生の時理系であったが化学式や数式をみていると無機質で実につまらない気持ちになった。しかし、数学は好きであった。とくに、数字を扱っているときが一番おもしろかった。とはいっても、数字を扱うためにはまず自らの解釈なり解法なりがあってはじめて数字を操作する作業に入るので、私は数学的に考えることに関してはあまりよい着想ができず思い悩んだ末イライラして、結局は数学はおもしろくないと思うようになった。私は思うのだが、数学は毎日どっぷりつかっていると頭が疲れてしょうがないような気がする。かといってそれに慣れてしまえば、人間としていかがなものか。人間としての喜びを生み出す言葉から隔離され数字に身を費やす行為に息苦しさを感じずにはおられなかった。数学に関してのエピソードは数えきれぬほどある。こんな私でもベクトルのテストで満点を取ったのだ。あのときは、冴えていたというよりただテストに出るところを勉強しただけだったので、私の数学的思考力が試された訳ではなく暗記力記憶力が試されたにすぎなかった。しかし、着想といっても何も知識がなくては生み出されない筈だ、数学はゆっくり時間をかけただけのびるのではないかと思う。私も、新聞を読みはじめた頃は文字を読む速度が遅かったが、結局新聞以外の活字媒体に手を出すことを通じて文字を読む速度は向上したように思える。(いや、そうであってほしいと願ってい)つまり、慣れなのではないだろうか。ジョンレノンはいった。原始時代に書かれた絵をみたまえ。彼らは何も教わらなくてこの絵を描いたのだ。とりあえずやってみればいいんじゃない。っと。ジョンレノンともあろう人だって何か特別な解法、人間の作業は慣れであるといっているのだ。どこかに、数学力が鍛えられる真理があるわけではないのである。いろいろな道を歩んで、時には迷い込みそこから脱出するとともに学び、数学ができるようになるのではないだろうか。しかし、現代の高校生は点取り合戦の中で培われる、事務を処理する機械人間のうような教育システムにどっぷりつかっている。

 また、学校という集団の中で作られる価値観も、事務処理のための教育に対する価値を、それを知ってか知らずか、猛追しているのだ。

だから、私は学校が嫌いなのである。単なる事務処理なら学校で学ばなくてもできる筈なのである。また、事務処理が人間にコウフくをもたらすであろうか疑問である。金はもたらすだろうが、はした金である。

 しかし、1円ももらえないよりはましである。

 この国の教育システムは一体誰のためにあるのか、疑問である。子どもたちを無機質化して純情に育て上げることが目的であったり、または、事務処理に秀でた人間に育て上げることが最終着地点として想定されているのかもしれない。たしかに、国の作った教育プランに従うのであるから国家を維持するために子どもたちは教育されるのである。しかし、われわれは国の奴隷ではないのである。あまりにも常識的なことばかり歌っているようではつまらない人間になってしまいかねない。だからといって反抗する人間たちを賞賛する気にもなれない。しかし、自由には発言する雰囲気作りや、もし、言葉に出して発言し議論を闘わせることが苦手だったり嫌だという人間に対しては絵なり絵画なり数学なり教えれば良いのである。先生も大変である。生徒はひとりのときはおしゃべりであるが、全体の中で発言しようとすることはしないので先生も当て推量でまたは自らの考えが支持されようがされまいが気にもせず生徒たちの黙秘権の上にあぐらをかいて我を押し付け楽を使用とする。先生はたいへんである。実に大変である。おまけに、毎年同じようなルーティンをこなすわけであるから、慣れるかと思えば生徒はコロコロ変わるのでその都度対応を考えたりしなくてはならず、また、行事なども多くたいへんそうである。また、生徒も大変である。体を動かしたいのに机の上に暗黙の強制労働を強いられる。話を聞き流すことのできる生徒や、反論を思いつくような生徒はほくそ笑みながら先生の話をせせら笑い授業をすごせるであろうが、純情な優等生は自分を日々殺して学校へ向かい、みえない秩序を肌に感じつつ、そのみえない学校の秩序が実は表面だけの物だとしらず、それを自らの信条にまで高め絶対的におもい、盾にして言わば虚像たる学校の生徒間に共有される秩序を最終的な武器にまで高め、中途半端な反抗精神で己の倦怠をかくしあぐらをかく人間たちを恐れ戦かせることができるのだ。なぜならば、生徒間に共有される秩序なくして学校生活は成り立たないことを考えると我慢がならなくなり耐えきれなくなるのが人間もとい生徒なのであるからだ。虚像や虚構といえども、絶大なる効果を発揮する。実存は本質に先立つとサルトルはいった。私は、サルトルのことは全く知らないから言葉の使い方を間違えているのかもしれない。しかし、なんとなく実存は本質に先立つという言葉が頭に思い浮かんだのも何かの縁であろうからここに引用させていただく。

 受け取る愛は結局与えた愛の量に等しいとジョンレノンは言った。私は愛を欲しない故に人を愛さないし、人を愛せないから愛を受け取ることもないだろうと思うのだがそうでもない。ジョンレノンはgive and takeに愛をという言葉をくっつけただけで、非常にシンプルな言葉をさも真実であるかのようにみせかけた格言を残した。それが、これだ!

 ちと指示語が多すぎたようだ。