人の記事なんか読んで何が楽しいのかわからない、作家ならまだしも勉強にはなるけれども

 でしゃばったことをいってすみません。私の記事なんて誰もみられないんです。悲しいことですがこれが客観的な現実であります。ここにたどりついた人間は私の自由に巻き込まれた被害者であります。今すぐココから立ち去って不忍池ダイブしてください。そして、カップルが乗り合わせているボートを不忍池の奥底に沈めてください。任せました。

 冗談はこの辺にして、私はいま文章を書くことにこっているのだが。人間の思考をより明瞭に伝達する手段として文章はあるという人も入れば、文章は芸術だという人もいる。わたしは後者の立場をとりたいとおもうのだ。嘘、虚構であっても形が美しければまたおもしろければ、そして名文であれば、その文章はすばらしい文章であると思う。私はそう考え手本を読んでいる。何か真実らしいものを嗅ぎ付けるだけで、決して物自体としてみいだされない真実を。真実は真理とどうちがうのだろうか。私は言葉の意味を辞書からではなくて、文脈から学んでいるため、真実と真理の違いがわからない。真実というと何か漠然とそこにある揺るがしがたい客観的な誰の目からみてもひとつの説明しかなされないものであると考える。そして、真理とは目にはみえないもので、それは美しい物でなくてはならないと考える。私たちが美しいと感じるものは流動的だと考える人々もいるのは重々承知である。しかし、美しいものは確かにそこにあり、ただ、目が濁ってしまってまたは何かにたぶらかされて美しい筈のものが美しくみえなくなるときがあると言うこともできる。たしかに、揺るぎない美というものが私たちのなかにあるのだと、考えた方が生き甲斐があるし、揺るぎない信念というものは私たちに物事の画一的処理を促し、安心感を与えてくれる。物事を一面的にとらえるとは安心を得るための心的装置の働きによる物だと考える。私はそれを否定するつもりは毛頭ない。安心を求めるのは人間の自然な気持ちであるからだ。しかし、安心は退屈なものでもあるのだ。

 貧乏人が金持ちの憂鬱を理解できないように、安心に満たされた人間の退屈さを忙しく危険な作業に身を費やしている人間にとっては理解できない物なのである。このふたつの卑俗な具体例をとってしてみても、人間は断絶しているのである。しかし、私はこの人間の断絶を乗りこえようと考える。自らの境界線にいることに安住し、頭の中では恐ろしく稚拙な恐怖心を煽るメディアに飼いならされた老人たちのつまらなさよ。そして、そんな世の中を案じるようでざまあみろと言わんばかりの顔をしやがるコメンテーターとこれまた老人たちよ。実に、残念である。

 私はあまり長生きしたくない。長生きして老いぼれるというのは罰ゲームである。しかし、若い年で病に苦しみ死ぬのもこれまた罰ゲームである。もっとも、中庸は退屈である。したがって、人生は何一つ良いことは与えられないのであると早急に結論づけるのは、あまり良くない。熟慮に熟慮を重ね、非人間的な考えをもちながらいきなくてはいけあに。とはいっても、その場しのぎの直感にばかりしたがうバカにもなりたくない。直感は瞬間的には楽しいが、長期的には実に退屈な観念しかもたらさない故に、やはり、退屈なのである。楽しいのは、文章を書くことである。科学的に言えば、頭のなかのニューロンとダンスすることが楽しいのである。私の頭の中の消しゴムなんていらない。鉛筆がたくさん欲しいものだ。しかし、年齢とともに頭の中のニューロンも死滅してしまう。そして、つまらない想念に身をまかせることになる。退屈な生の始まりである。

 私の人生観は韓愈ほどに冷徹無比というか、たちがわるい。韓愈の文章は私のそれとはちがって論理明晰で比喩もおもしろい、らしい。少し読んだけれどあまり記憶にないため人の韓愈批評をパクっているのだけれど。

 私という人間は書散らすのだ。文章を書散らすだけの存在だ。しかし、それを加筆修正すればすばらしい物になるかもしれない!ところが、書散らす方が効率的だし合理的だしおもしろいので、文章を加筆修正するのは誰か大切な人に文章を送達するときであろう。

 ところで、今までの私の文章は本当に直感的な文章で、全く推敲をしていなかったが故に読みづらいものであったが、最近の私の文章は書きながらも微力ながら文章に修正を加えることができつつある気がするのだが。

 これは、私の独りよがりな偉そうな態度なのであるけれども、どうか今回も許していただきたい。