行く手を阻むもの

 親というものはありがたい存在である、ご飯は作ってくれるし学校にはいかせてくれるし、実にありがたい存在である。私は親が大好きである、嘘であるけれど。大嫌いである。大嫌いになったのは親のせいであるし、また、相手に責任転嫁することを幼いという言説に屈折ずに思ったことを口に出せるこの民主主義社会においてこの手の言論は用語はされずとも発言は許されるべきであるので、躊躇することなく言わせてもらおう。ゴーマニズム宣言を親がするというのなら、子どもだってゴーマニズム宣言をしてやろうじゃないか。

 親は子どもを害する。親が好きな人間が私は大嫌いである。親が好きであることについてただ無条件に愛してくれる親を好きなる子どもは、後々それが子どもの自律を阻むことになるし、妙にさばさばした親は、子どもを野放しにして子どもの気持ちをつまらないドラマや統計学からさばかれた類型化された子ども像を通してしかみることのできない、頭の弱いバカ親であろうが、実に不愉快である。

 甘えの構造という本があるが、そんなもの読むつもりはない。構造ができあがり、それに沿ったそった行動をすることと学校の教師が我が子でもないけれど思入れはあるという気持ちの悪い教育を行うことなんらかわりがないではないか。

 親が子どもを馬鹿にする。

 私はそう主張する。なぜならば、たとえどんなにいい親であっても子は親のコピーにしかならないとしたら、それは、親のように社会で自分が上手く他人を出し抜き信義を捨て生きていくことと変わりがないからである。つまり、卑怯な勇者なのである。

 私の父親は酒飲みのアル中である。とはいっても、医者からアル中のハンコをもらった訳ではないけれど毎日焼酎を飲んでいる。飲まずにはいられないらしい。これは、アル中という社会的には堕落した人間の典型ではないか。

 そんな父親をリスペクトする子どもがはたしているのか、いたとしてまともに相手をするのならそれは介護のたぐいである。私は人の介護などゴメンである。

 介護されたからといって、恩を返せとせびるような人間はあほで人情を介していない野暮な人間のすることなので、嫌いだ。

 だとすると、祖父母も私はあまり好きではない。

 一方的な献身的な愛を要求するのは宗教のたぐいであり、全人類にそれを強制することはできないと人は言うであろうが、ならば言わせてもらおう、そんな愛をしらない人間こそ不幸であるし、不幸なままでいいのならせいぜい金勘定で生きていけ。

 貧乏暮らしをしたことのない坊ちゃんの発言であると人々は言うであろう。しかし、私はこれから貧乏になるかもしれない。しかし、人に愛を要求したりはしない人間に鳴りたいと思うのだ。それは、楽な生き方かもしれない、けれどもさっぱりした瀟洒たる気持ちでいられるとしたら、それはお金にも勝る価値を有する精神のありかたであると言わざる終えない。

 金はあっても、ギターはうまくならない。金はあっても、良い文章は書けない。

 金はあっても、素晴らしい職業であるわけではない。素晴らしい職業とは金をたくさんもらっている仕事であるというのなら、土地持ちのマンションオーナーは素晴らしい職業かと問われれば、私は否と答える。その程度の、反骨精神を持たぬ人間の話は実につまらないし、その人生もつまらない。

 つまらない人生を送ることは死に値する。生きることとは、苦しむことである。