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電車が通り過ぎた後に、ホームにかつての自分がいた。その自分は私をみていない。目を閉じていた。

 過去とは、未来のことである。例えば、人殺しを野放しにすれば人を殺すだろうと考えることがあるだろう。例外からいえば、ある特定の人間を殺したのであって不特定のある誰かを殺すことはないだろうとおもうだろう。しかし、この例外に私は反旗を翻すことにする。かつて人を殺した人が殺したのは、殺された人物の未来である。いずれの形にせよ、人を殺したということはずっとその人はある一人の人の未来を奪ってしまったことの責め苦を本人が自覚したとするならば、情状酌量などということで反省とはいえない。自分の未来さえも呪われるのである。それを呪うのは自分自身である。人を殺すということは、まわりまわって自分を殺すことなのである。

 後悔とは、またも同じようなことが起きるのではないかと心配することである。喜びの中にも後悔はある。あそこでお金を得なければ、今頃もっとましな人になっていたかもしれない。金持ちだって辛いのである。もちろん、反論は容易い。極貧生活仕事に終われ時間はないという人には金持ちのつらさは分からないであろう。みずからに欠けているものをほかの者が所有しているとそれがあれば自らは満足できるのにという思考のことだ。まず、極貧生活になるまでの過程を考えてみよう。そうすれば、容易い。パチンコへいきお金がなくなる。パチンコへいけばお金はなくなるが、お金がないという憂さ晴らしをすることができる。気持ちとお金が相関関係ではないという証明にもなるのではないか。わずかなお金で、憂さ晴らしをできるのだからパチンコへ皆足を運びにいく。それは、とてつもない欠如を、根本的でないやりかたで埋め合わせようとする行為に他ならない。しかし、この手のパチンコやろうはまだ救われている。憂さ晴らしをするためにわずかの金を稼いで、それをパチンコをつうじて憂さ晴らしできているのだから。問題は憂さ晴らしが出来ないひと達だ。パチンコもせずに、お酒ものまずにじっと家に帰り仕事場へいきとしているひと達だ。私はこの人達こそもっともストイックなひと達におもえる。内心はつらいであろうが、憂さ晴らしをしているパチンコにいるひと達よりはまだ救われるとおもうのだ。パチンコを打つひと達は何をいっているのだといって、自分の憂さ晴らしの機会をおとしめるようなことをいう私たちに反感をもつであろう。もっともな話である。自分のやっていること、信じていることにケチをつけられる。つまり、信じられているものの仮面をはぎ取って質問攻めにすれば、誰だって不安になるか、質問形式の不備を声高に叫んで抵抗しようとするだろう。抵抗そのものがメッセージなのである。中には、抵抗していないようにみせかけて抵抗せよというひと達がいるかもしれない。私は抵抗ということは正直であるようにおもうのだ。正直者だからまだ可愛がられる。しかし、静かなる抵抗というのは裏切りという要素をもつ。それはスパイのようであり、正面切って対決という分けにはいかないのである。もし、あるスパイの対象、反抗の対象となるものにたいしてどのような心をもって相手に向かうかである。

 外の世界。誰も話さない。誰とも話さない。そんな文字のない世界には意味がない。東京にいるけれども、私は意味がないとおもっている。特に意味はないとおもっている。はやく部屋をかたづけなくては。