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経済最優先の先に待ち構えるのが言葉の失墜であり、文藝である

 文章芸術その他あらゆる芸術は経済活動に巻き込まれるがために芯を揺るがす事なかれとは、かのゆうめいな芥川龍之介がない奥に秘めていた思いである。言葉が出てこないというのは実に、自分の今目の前にある物から着想を得て物語を紡ぎだす事ができず、無益な労働とつまらない与えられた物語を楽しめるだけの状況に身をわざわざおく事でしか、言語活動に参加できなくなるのだ。

 私の言っている事が分からないという人間はおおよそ、文章を書いた事がないのだろうし、その喜びすら知らないのだろう。よく、お金持ちが本当に信頼できるのは人間ではなくて猫だったりするものなのである。なぜならば、みなさんも私がそれに与える理由を推察する事は容易であろうが、つまり、なぜかといえば、お金持ちに寄ってくる人間は、その人間性にではなくお金に寄ってくるからなのだ。だから、お金持ちというのは人を疑ってみると必ずお金がその人を信頼たらしめており、友好的であるのもお金がある故にということになるのだ。まずもって、その金持ちがそのような思考になるのは当然である。

 ところで、お金とは言葉であると私は断言する。お金持ちは、金を手放す代わりに自己同一性さえも放棄する権利を得ているのである。しかし、言葉における信頼性は自己に、自己の同一性を要求する。其の点が、お金持ちと貧乏おしゃべり上手の人間の違いなのである。自己同一性を重視する事は、とても大事である。質素倹約に勤しむ事が美徳とされた中世日本を今ここで再現しようというわけではないけれども、ようはお金はすぐに手に入るけれども技術というのはすぐには手に入らない。また、その技術を使い捜索する喜びはお金では決して買えないのだ。

 私が何故このようなことを言うのかと言えば、昨今の日本は再び拝金主義に立ち戻ろうとしているからである。居酒屋ブームも去りこれからは、趣味の時代である。再び個人主義的趣味の時代が力を持ち始めるのである。

 これは、十数年前の流行の焼き直しではないか。なんら新しい事ではない。歴史をふりかえって、これは昔の事だと片付けることに何の意味もない。その言葉に隠された事実というものが、つまり伝えたい気持ちがあるとすれば、もう忘れたから何も言う事はない、といったところである。

 文章を書くにあたってやはりホンネをぶつける事が一番大事である。ホンネから出発した文章や勉強は身に付くのだ。

 またしてもつまらない文章をかいてしまった。