言語を私的に使用する際につきものの挫折

 私が今までの私のディスクールを検証した結果「事」や「物」という言葉をよく使う「こと」がわかりました。なるべく使わないように文章を書いていきます。

 断定は選択と関わります。懐疑主義者は死ぬまでエポケーを続けるつもりでしょうか。何とも関係をもたない懐疑主義者の態度は、孤独な人達です。そして、孤独を愛するのが近代日本人であります。

 ところが、先頃バーベキューや同窓会等々夜の飲食関係の仕事が活気を帯びているのは失われた過去の私を所有する旧友に会い今の私を否定する格好の材料にしたいからであると考えます。思考というのは決断しなければ到達する事はありません。到達した結論の吟味はソファーで横になっている懐疑主義者に任せれば良い。そう懐疑主義者とは常に証明を必要とする人達で、証明のないようにケチをつけようと必死になる人達であります。それをわろしとはいいませんが、思考が鈍ってしまいはしないかと恐れるのが私であります。

 否定すべき対象さえ見出せない今日の私は苦痛に見舞われています。否定すべき対象を呈示してくる人達が私のもとから去っていったという事でしょうか。(事や物という言葉は実に私の文中においてよく使われます。)

 人間の思考がシナプスのつながりに寄って見出されるとして、シナプスのつながりにはある一定の結論を人間に生み出す配列があるとすればドラえもんは制作可能となります。私たちが人間であるという最後の砦がドラえもんによって否定されます。我々が人間である根拠はただ生身の人間の母体から産まれたという事実によって支えられます。

 っていうかつまらないんだよ。人間がどうだって、そんなこといっても楽しくないだろ。本当にオレは自分で自分を殺したくなるときがあるけど今まさにそうだね。