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「わかった」とは

 もし、自由になりたくば、神をこころに求めなくてはならない。それなくして、自由はない。ただ、気まぐれと打算があるのみ。そこに、情熱はなく自由への希求はない。したがって、なくてもいいような自由のみがそこにはある。

 自由とは、評価の基準である。作者の頭が混乱しているとき書かれた文章は実に作者の悪戦苦闘に読者も引きずられることになるので、少々退屈でせわしく感じる。文章には、洗練された言葉や考え抜かれた言葉を羅列する濃縮型もあれば、考えをめぐらせ結論に至るその過程すべてに主張が宿るとも考えられる。

 結論だけ知っているなんて、勉強の楽しみをまったくしらないのと同じである。それは、カンニングして答えだけを丸写しした事と何ら関係ない。

 また、我々が知るべき事は他人の人生ではなくて自らの人生である。それも間違いない。他人とは私の鏡である。また、他人の人生を知る事で私の目があやまっていることを知るよいきっかけにはなるけれども、それっきりである。そのさきの、闘いがないのだ。

 問題とは、まだ理論がないということだ。意識していることは、常にわずらわしい。それは、自己主張が強い私のなかの他人であり、私のなかの他人に応答するのが煩わしいのだ。存在そのものの煩わしさを無視と身をまかすという態度で対処することで、我々はより小さなものの声をきくことができるのであろう。

 目に見えないものが私たちの動く動因となっている。わたしがいま、この文章を打つ前にはこの画面にこの配列の文章はこの世になかったわけである。「子を産む」ように、われわれはわれわれの生み出した諸々の観念を保育せねばならぬ。他人の子を育てるのは誘拐犯である。

 刑法の罪状だけまたそれ以上に、人間の行動にはパターンがある。ある観念がそれにたらしめるわけである。貧困だから物を盗む。ちがう。貧困になってしまう貴方の心が物を盗ませたの。そう考えないわけにはいかない。貧困は結果である。結果には根拠がある。因果関係というものが、「一般的に」でささえられる刑法。私は法律を私が社会に愉快に参加する為の道具として利用した。それは別のものを産んだ。良い悪いではない。別の物へと置換されたのだ。方法論を法律から学び、それを他分野へ応用させる。方法論は通用するのだ。対象はなんだっていいんだ。やる気ではない。習慣である。勉強とは習慣であり、良い大学へもしいきたいのなら、良い大学へ行く為の習慣があるのだ。それは、嗜好の習慣を形作る。人間の行動が思考をも形作るのだ。人間の身体と心はハンドルとタイヤの動きのように、一体になっている。

 政治家がなんと言おうと、彼らは「一般」に隠れ蓑して生き延びるであろう。大衆は「一般」であるが故に、大衆である。大衆とは集団でいる事の心地よさであり、一人では何も楽しめない「想像力と表現力がありきたりなひとたち」のあつまりなのだ。互いに監視し合い、互いに評価し合い、相手を気にするが故に互いに相手の言う通りになる。これは良く道の弁証法の結果、秩序が産まれたともいえるだろう。秩序とは誰でもないのだ。しかし、言葉が秩序ある配列をもたねば意味をもたぬように、私の言葉も秩序で構成されているのだ。言葉の配列は私の物ではない。言葉は公共のものだ。書くときは誰かにわかるために書いているのだから。そして、もちろん自分も理解できるように。

 途中で邪魔が入って私の話が中断してしまった。だから、話を変える。

 「なぜ他人が書いたものを読まねばならないのか。そして、他人が書いた通りに解釈せねばならないのか」

 言葉とはなんのためにあるのか。目的は、ただ心地よいからである。しかし、どう心地よいのか。それをいざなうのが文章なのだ。他人のブログを読むのはおおいに、良く知らない人にじぶんがなるということ。良く知らない人というのは過激でおもしろくなくてはならない。つまらない、良く知っている人なら隣にいるからだ。ネットでいってることを隣の人にもいえるか?そのときどんな反論がかえってくるだろう。「わかったけど、なぜ貴方の言ってる事を理解しなくちゃならないの?私は私の言葉があるの。邪魔しないで」ネットの言葉とはなんのためにあるのか。それは、徹底的批判の為にあるのだ。それを擁護する必要は何処にもない。ただ、パソコンをとじればいいのだ。そうだろ?パソコンはうごかない。言葉が世界をかえるとおもってる。言葉でかわるような世界はたいした世界ではない。歴史にしても誰がどこで何をした。それではおもしろくないにきまっている。なぜ?がおもしろいんだ。なぜ、そうしたのか。

 大学生に限らず、世間の娯楽「ネット、パチンコ、ギター、ピアノ」趣味とは嗜好だ。嗜好とは目的がある。優美な感性に神経をまかせる等々。指を動かすよろこび等々。それを見極めないといけない。見極めないでただ、ネットに書かれている事がおもしろいからといって他人の記事ばかり読んでいると自分が言いたい事を忘れてします。これは、とても不快な出来事である。言葉をつかうのに誰かに気を使う。これがいけない。これがいけないのである。誰かに気を使うような言葉は結局ないのだ。ないものを大きく扱うのはまちがっている。

 嗜好それ自体が目的であるとしたら。オセロにならなくちゃならないし、パチンコにならなくちゃならない。嗜好それ自体はそれを好む物の姿である。つまり、パチンコ好きは労働が好きなのだ。では、バイク好きは?バイクはそれ自体目的は走る事。だから、走る事が好きなのだ。それでももたらされる喜びは余剰快楽である。

 私は何をしてもその理由が分かるし目的もわかる。それは以前何処かでしたものだ。何をしてもそれをする理由が色あせてみえる事があってどうしようもなく壊れてみた。壊れるとは現実界にかえることなのだ。そう考えれば、一つの事をずっと続けられる人は私の知らないところでビギナーになっているのだ。うまいトンカツなんてない。自分が作った物がおいしいのだ。グルメ?ふざけるな。俺が作る豚カツ以上においしい物はない。つまりは、趣味は作り出す事なのだ。古代人になることなのだ。古代人の目的は、狩猟に喜びだってあった筈だ。ただ、家が寒かった。彼らは狩猟の喜びを放棄はしないだろう。農業が導入された時、狩猟の必要性がなくなった。だから、狩猟は遊びになった。仕事はいずれ遊びになるのだ。農業から逃れられなくなった人は、農業の作業を分けていく。あるものを、①こわす②なおす③つくる。そして④うばう。うばうがはじまったとき、戦争がはじまった。④のする①は、③と共同する。

 一番大事なのは、すげえ過激な事を淡々ということ。過激なのだから淡々としていればいい。つまらない話を大声でする。これは、人間社会のありようだ。すごい話は静謐なる場所で為されてもすごいのだ。すごいかどうか、それをきめるのは。社会だ。社会とは飼いならされた耳が好むものだ。きょうようもイマジネーションも乏しい現代人の音楽が古典クラシックにかてるわけがない。古典クラシックをきいていたのは、教養ある貴族のはずなのであるから。しかし、わたしは教養ある貴族というもののなかでも大衆社会のそれがいるのだ。つまり、父親がすきでたまらないひとだ。父親であるというだけ、ただそれだけ、地位。それが及ぼす力がために。

 大衆が嫌い