アウトプット

相手の視点に立ってみよう

私も持っていないから貴方も持っていないという事に出来ないかしら

 言葉にしない本音を明確に認識する事で私は文章から一定の距離と私にとっての居心地の良い場所を確保する事が出来る。それが考える場所である事に間違いない。考えるには場所が必要だったのだ。この頭蓋骨を隈無く調べる事が私には必要だったのだ。それにしても、考える場所とはどのように作られるのか。考えてみたいと思う。おそらくは内的な喜びが生じる事にある。それは、私は考える事に依って喜びを認識できるという間違いから来るのだ。喜びあれば考え、悲しみがあれば考えるのが自然で素朴な人間の姿だ。狂信者になりたければ、考えた上で感情を持てばいい話だ。この世の中に精神障害なるものはない。医学の作った非人道的な枠組みの事を精神障害というだけの話だ。医学は人の肉体を大いに救いはするが、人の魂を救いはしないのである。それは宗教に任せっきりだと言っても過言ではない。宗教は信じる事ではない。如何に信じさせる事にあるのだ。それは如何に患者に手術をうけさせるかにきまっている。体の痛みがありそれを取り除き苦痛のない体にしてもらおうと言う動機がある一方で、宗教においては精神的苦痛が宗教の求心力になる事は万人に疑いの余地のない事実であろう。精神的苦痛は貧乏人の貧乏な姿から生じるのであり、金持ちの喜びから来るのである。どちらも退治する事が私の指名なのかもしれない。日本人は人をあまりにみすぎる。だから窮屈だと言っているのだ。自分の精神の汚れには恐ろしく無頓着である。それは宗教がないからであり、日本の社会は男はひたすら魂の純化を図り学問をして女が暮らしやすい社会を作る事に苦心しているのだ。女はと言えば偉そうに物を語りまた恐ろしい優しさでもって私の人間性を脅かすのだ。女々しい男はきっと女の体全体から来る優しさに嫌悪を催すに違いない。私は女をみてもセックスをしようだなんて今は思わない。あんなに奇麗な体をしているのだ。彼女達の服を脱がす事は彼女達の魅力をぶち壊す事だ。私は何も期待はしていない。ただ、彼女達の要求が服を脱いだ彼女達自身をも好いてくれということであるのは十分に承知しているが故に、ただのマザコンではないのだ。マザコンとは愛する母の絵姿を他者に見る事にある。他者はもちろん母の投影で敷かないのだ。精神分析は単純素朴で実に気分爽快である。一方で小林秀雄は彼の批評が彼自身なのである。彼自身が何故そういう着想や批評に落ち着くのかを知ることは不可能である。不可能とは時間がいくらあっても無理だという事。またやる気も起きないということ。私は先人達になんと言えばいいのか。彼らの持っている意見に何故耳を貸さなくちゃならない。私のしでかした事を崇め奉ってでもほしいのか。その執着心はどこから湧いてくるのか。死んだら誰からも読まれない文章とは、まさに私の文章に他ならないのであるが、死んでからも生活が続くとしたら死んだ後の文章はただの嘘になる。嘘とはつまりもう書けないという事。しかし、同じ気持ちを二度もつ事はできないのと同様に私は文章の一回生を重んじる。それが文章として尊敬される為には一度読まれれば十分である。さらに、一言二言コメントをいただければそれで幸いであると私は考える。しかし、それは私の基準に他ならず良い文章なるものは後世大事に読み継がれるのだ。私の文章は金にもならないのだから。金になる事が如何に自分を捨てる事に依って成り立つのかそれを考えただけで私は自分を捨てる事を躊躇してしまう。自分を保持したとしてもそれだけの価値がないのを分かりつつ私は自分の捨てる事を躊躇せざる終えないのは何か因縁めいたものがあるに違いない。価値のないものをすてるのは非道なのである。非道であるが故に私がその道の犠牲者にならぬようまたそうならぬよう願をこめて私は価値のない自分を捨てたくはないのである。自分というものをすれば名誉だって金だって手に入るだろう。しかし、そんなものをありがたがるのは老人のする事だ。彼らは自分が動けないから金に説得させて他人を動かすのである。なんとかリズムだとか、なんとか主義だとかを嫌っているのなら、小林さん、貴方はそれについて何も言っては行けないのだ。それを根絶やしにする気がないのは小林さんの文章から読み取れる。むしろ嫌いなものをネタに商売しているようにしかみえない。その文章を書いているときに小林さんは苦痛だったのだろうか硬骨だったのだろうかと考える。およそ考える為には疑う事が必要である。愛を疑う事が必要である。しかし、疑えない愛もあるのだ。それは私の示威生の中で決まる。過去に翻ってそれを打ち消すような事もしない。そんな事は自分への冒涜であり、自分のこれからの行動をすべて否定する事に終始するだろう。私はいったいなぜ人間がこのように不安から腐っていくのかを良く知らなくちゃならない。私自身が腐ってしまえばかような疑問は終わる。

 めくるめく観念を瞬間的に捉えるのにパソコン程便利なものはなく、現代においてタイプライターの発明があったということは何を意味するのだろう。かつてはペンもなかった筈である。当時は社会はどのようであったのか。約束なんて破られただろうか。破られたら即死刑だっただろうか。詩人はわけのわからない事をしていたのだろう。文章から人が出てくるように。人は文章の中におさまってしまったのかもしれない。それを取り出す事が大事な事なのかもしれない。凧揚げをしなくちゃいけないのだ。言葉から抜け出さなくてはならないのだろう。私は器用じゃないからある一つのいいもうけ話をきいても、飽きればやめるだろう。苦痛と自由な時間をくらべてみれば私の選択の理由を納得もできるだろう。あまりに鋭敏すぎるがために飽きがくるといっても過言ではない。先先考える事は大事な事だが味わう事をしないのはいただけない。食べてばかりでは生きているのかどうかわからない。味わいこそが生の充溢に間違いない。文章だってそうだ。文章から抜け出した行動だってそうだ。そして眠りがある。眠りの中で濾過された頭が次の朝につながる。私は今日を一生懸命に生きるしかない。明日の為に体力をとっておくような考える事をやめるようなことをするのは、一生涯にわたって考える事をしない人達のいいぶんだろう。彼らは晩年になって習慣に飛びつくのだ。晩年否ってやっとむくわれるのだ。