アウトプット

相手の視点に立ってみよう

分けたがる私の気持ちに嘘偽りはなくとも、断絶あり

 私はあなたが思うような人間でもなければ、私が思うような人間でもない。としたら、もんな悪事でもそれは昨日の私のやってのけたことである。断絶は責任逃れになるのだろうか。責任とは自己同一性である。これらの、熟語を私が追いかけるにはまだ早いようだ。私は私の心に起きた出来事を醒めた目でみなくてはならない。同意もしなければ、不同意することもない。漠然と眺めてちょっと気がついたことをいってみればいいのである。私にできることはそれくらいのことで、あとは山河ありの世界である。私は結局のところ何もなし得なかった。何もなし得ないどころか多くを失うことになった。社会のくれるもので何一つ私を満足させるものはない。必ず私に迷惑をかけて去っていくのである。うけとらないとは言わない。ある時は受け取ることが優しさであるから。優しさ!なんといういやらしい言葉だ、優しい人なんて当たり障りはいいけれど内面をみせてはいけない。優しさの形で悪を売り飛ばすことはしてはならない。優しさは喜捨であり、みかえりをとことん求めないことである。それしかわたしにはおもいつかない。優しさは恋愛においては独りよがりになるのだろう。いや、結婚においてである。恋愛においては優しさは交際のきっかけにはなるだろう。この馬鹿はこのようにあやせばいいのだとか、何もしなくても根が優しいからなんでもしてくれるとか。私は恋愛に理想をもたないのだ。ただ、言葉を交わすだけで十分だ。言葉を発さない人は生きてはいない、ある年齢にたっすれば言葉の毒を知らず知らずに吐いてしまうことになる。消化不良である。お笑いで慰めることができないまでに、いや、世の中にはすこぶる鈍い人がいて、冷笑でもって、言葉を蔑む人間がいるのであり、彼彼女らの冷笑の根拠には言葉があるのである。要するに彼らは自己否定の上に成り立っているのだ。私を肯定してみせよう。肯定も否定もしてみせよう。それができなくて、私は言語活動をなし得ない。私の今の生活はすこぶる自由であり、自由と戦ってもいるのだ。労働に覆い隠された自己と戦わずに生きるサラリーマンの生き方は私には欺瞞にしかみえない。彼らは忙しすぎるがあまり、それを理由にあらゆる自己から逃れているのだ。そんな彼らを羨ましがるのは、自由に疲れ果ててしまった人たちだ。それは二月の私である。私は変わってしまった。相手の弁護をしているうちに、私は私を否定しきってしまった。相手の弁護のなかで否定される私を肯定する私は、もはや、彼女の弁護をやめることのほかには私を肯定する道もないように思われるのである。論理はひとつの方法である。多くは言葉の論理であるが、言葉は事物を表しもするので事物の関係性が言葉の関係性の形を持って現れるのだ。言葉の論理を追うことは、事物の論理を追うことでもあるのだろう。そんなことを考えても私はそれを適用、つまり行為しなければ何の意味もない理論で終わってしまう。こぼれ落ちてしまうものはないのか。いつも気がかりなのは、このような問いかけである。忘れ物はないか?!身持ちが軽ければ軽いほどに、人間は幸福なのかもしれない。何もいらないのだ。すべては自己を煩わせてしまう。彼女彼氏も同じだ。いったい付き合うとはなんのことだか、私にはさっぱりわからないのだ。二人とまともに付き合ってもわからないから、永遠にわからないというのは私のきらいな論法ではある。けれども、そういうしかないような気がするのだ。付き合うとは、壊れることのほかに何かあるだろうか。培うことのほかに何かあるだろうか。楽しいとは、自己を忘れ去ることのほかに何かあるだろうか。自己の立場も、自己の顔面も知性も完成も全て忘れ去り、想像する自己がもっとも幸福であると私はいう。何かもをもとめて行う行為の全てが不幸である。すると、精神分析が声をかけてくる。あなたの欠如は何ですか?宗教が口を挟む。あなたの考えは、つまりすべてをなげすてることは良いことではあるけれども…と。欠如はなにか、わたしには何が欠けているのか探し求めることがはたして必要か?私はいくらだって答えられる。収入、社会的地位、それに見合った教育のプロセス、そのプロセスをこなしうる態度、もろもろが私には必要なのだ。必要だったのだが、時すでに遅し。考えてもみれば、今の私を好いてくれるのであって、また今の私でなければ出会うこともなかった人たちを私は愛さなくちゃならない。愛の美名のもとに、ろくでなしの自己を、社会から放蕩息子とでもよばれるべき私を、そのうち痛い目に合うだろうとしげしげと眺められる私を、その私の性格のために私と出逢った人たちを賛美し、もって、私を肯定すること。愛はやはり、優しいのである。愛はすべてを癒す。愛とは全肯定である。ロシアでは、犯罪者を不幸ものあつかいする。またはそのような風土がかつてあったのだ。ロシア人もまたヨーロッパ文化の侵入をうけた。流れをうけようも必死になるも、流れの中で消えゆく自国の文化風土に愛すべきものがあること、またそれらがヨーロッパ文化の流入で失われることをひどく恐れたのだ。ヨーロッパ文化がすべてにおいて卓越しており倫理道徳に関してもそうであると、吟味も内実も知らないで物事を処理するためだけ、便宜のために、失われる心地よさをロシア人は哀切の眼差しでみていたのかもしれない。如何しても、抗えないことに抗うことへの倦怠。絶望感からくるニヒリズム。気が乗らない、まったく良いとも思えないもののために行動する自己を捨てることだ。それは、自己がもはやとってかわられることを意味する。とってかわる人物は私の中にいる。二人の人間がいる、互いに相手に夢みる。夢をみるんだよ。相手に優しい母を。将来の私のお嫁さんを。相手もまた見る。父を。頼れる父を。互いに、互いのために行動するようになる。夢は相手の中にあるのだろう。外部にあるのだろう。夢をみさせるとは、つまりは、相手の夢の通りに奴隷になることである。相手の思うような人間になることへの反発は、私を痛めつける。自己として行為するのではなく、他者のための自己の行為しか許されないとしたら。また、他者が抽象的すぎるがあまりに他者としての資格を失うこともあるだろう。私にはもはや他者を受け入れるだけのまたはその夢を叶えるだけのやる気はないのだよ。私は2人いるのだから。夢をみなくちゃならないのは何故だろう。今の生活のその先にみられるブラインドカーブが夢である。ブラインドカーブに備え付けられた鏡が私である。その比喩がはたしてなにを語るのか?つまりは、なぞらえることは面白いということだ。