私は私について話す事は出来ない事実の確認を毎回行わなければならない悲劇について

 僕は寒気がする。イスに座りピアノ鍵盤を弾くようにキーボードを打つのだ。快速でなくてはならない。思った事をそのまんま考えずにいわなくちゃならない。それは恥ずかしい事でもある。隠したい事もそのまんま言ってしまう。しかし、素顔をみせるかっこうの形式であるには違いない。自転車歩道をきちんとわたる警察官。あまりにも心地よくない友人との会話。私はそのまっただ中にいるのだ。私を知りたいだとかよくわからない言葉を吐くことは苦痛である。一から説明しなくちゃならない徒労。私の周りにいる人間が私を構成していくのである。それに文句をいわないことがひとつのいたわりでもあり、反発するのが自我の芽生えでもあるのだろうか。自我とはなんなのか私にはわからない。隠された欲望を自我というのか、そう読んだところで何になるのか。ともすると、自我とはわがままである事だとか他人の気持ちを考えない態度をさすけれども、当てにならない。専門用語とは正確な言葉遣いのことだろうか。言葉は自由なようでいてそうでもないのだろうか。彼女が元気ならばそれでいいのだ。この文章の即効性を僕は認める。そう考えなくちゃならないのだ。哀愁漂う人間なんて僕は大好きなんだ。しかし、死ななくちゃならないんだ。哀愁の為に死ななくちゃならないんだ。なんて人生だ。僕は耐えられないから死ぬのではない、耐えられることがわかったから安心して死ねるのだ。安らかに眠りたまえ。一人ベッドの上で誰に看取られることなく。かつて、誰も私を看取った人間などいなかったのだから、慣れた光景である。いつだってぼくは誰かの為に生きてそれが私の為になって誰かの為にもなる。私の為か誰かの為か。その二つしかないのだ。人生はなんと単純な言葉でおさまってしまうのだろう。説明されてしまうのだろう。といってみたところできいてくれる人もいない。でも、きかれてはならない秘密が私にはどうしても必要なのだ。言葉の別荘が必要なのはもっともな話なのだ。独り部屋がなくては僕は死んでしまうだろう。僕とはつまりは独り部屋が作り出したと言っても過言ではない。意思の力はそれを見出すところにあるのだろう。彼女の最後の涙を僕は、笑顔でもって迎えてあげたのだ。なんて優しいんだ。そして、なんと愚かなんだ。僕という人間は、なんと愚かなのだ。上手く生きようと思えば生きれたろうけれども、それは苦痛でしかなかった。下手に生きて愛をつかむ努力のうちに死ぬ事が僕の本望だろう。それがよくわかった。よくわかったのだ。金でかえるものなら、買った。あとは、僕という人間がどう踊りだすかであるに違いないのだ。動くとはダンスすること。本を読むとはダンスをならうこと。学校へ行く事もダンスだ。踊って歌ってそして気がついたら死んでいる。考える暇はいくらでもあるけれど、考えたところで堂々巡りの同じ道を快速で回ってるにすぎない。暗い森の中を思考の前途多難にたとえてみればわかることだろう。味わう為には静かな環境が必要なのだ。静けさ。静謐。美しい。