嫌いなこと

 嫌いな事はその人に多大なる影響を被っているんであるから、嫌いな事を取り除けばhappyになれるはずだとかんがえるのは、人間の自然な演繹だと思うのであるからして、私はどのようなことに嫌悪を感じるのかここにつらつらと思いついたことをかいていこうとおもう。まとめるような、まどろっこしい事はしない。それは書いた瞬間からすてさられるような文章芸術の即興生に反する意図された習慣の踏襲で敷かないからである。狙われた言葉は確かに安心はするだろうけれどもそれはつまらない物語を長々と綿密にきかされることに帰着するので退屈であるし、隠し通す事ができるからつまらないのだ。さて、はじめてみよう。私はろくでもない人間である事をここに書かなくては私は文章を書けないからここにかいておく。いつも私の傍らには彼女がいて彼女は私に彼女の意図を実現するように強いてくれる。かといって、彼女に私は見返りを求めない。あまりに辛すぎるからである。何故辛いかと言えば、見返りをもとめてする行為があまりにも私には回り道にみえるし、また、人生が抗っても抗わなくても運命に服従されるさまを観るような気がするからである。もちろん、私自身抗いなくして今の私は形成はされなかった。しかし、再び抗わなくては今の私を社会に登録することを私自身が許さない。社会は私の心の中にある事を忘れてはならない。そして、人間関係の中で偉業は達成されることも私は忘れてはならない。人間関係が得意でなくまた回りに恵まれずまた自由な環境を剥奪された中庸で静謐な生活をともにすごすあいてなど、私はもちろん心底好感の持てる人生として捉えまた理想として掲げるだろうけれども、静態的な態度は行動の齎す苦悩と摩擦による情熱を引き起こさない退屈なものであることも私は最早経験則に照らしてそう思わざる終えないようになってもいるのだ。したがって、私が生きる為に始終動き回りせわしなくあちらこちらに顔を出し打ちのめされ反抗しそして殺されるのを必死にまっているこの私のどうしようもないやるせなさに気力がそがれひとつとして集中する事はなく書きながらにして別の事を考えてもいるのだ。そもそも書く事に全力を投じる事は何の利益にもならないばかりか文章の膠着を齎すのだ。趣味が仕事になるのはいけないことだという人間がいるが嘘である。趣味の上達を拒んでいるから仕事にはしたくないのだ。趣味を愛せば、その趣味が飽き飽きしたときに必ず変化をもとめる気勢が自己の内部からわき起り趣味の形に変化を求めようとする。それをしないのは、趣味がそもそもただの退屈しのぎになっているからなのだ。趣味が成り立つのは生活があるからであり、生活を支える事が仕事である。仕事は生活の為に或る。生きる為に仕事をするのである。本当はたいして生きたくもないのに。だから、不満が生じる。生きたくもないのに、そのために仕事をしなくちゃならないのだから。生きたいと願う人はそう多くはないのだ。生きる事を愛する事が出来ればその人はどんな仕事でもするだろう。たとえ退屈な仕事であっても。仕事に楽しさを求めるのは、仕事が生きる為だけではなく、楽しく生きる為にあるからだ。しかし、一方で楽しさを仕事の中にもとめることは新しい分野なのである。これ以上話す事は私には徒労なのでやめておく。何故やめるかと言えば、結局は同じ事を言いたいのだ。もっと言えば、筋を通す為に私は汚物を拾い上げる作業をするはめになるからだ。ラカンはいった、おしゃべりをし続けなくてはならない。其の点において、彼女の母は天才的な生活力を持った人間なのだろう。その人選に彼女の選択がかかっている。私は選ばれはしないだろう。なぜなら、私は生きたくはないからだ。生きたくはないとはつまり、つまらない事にうつつをぬかして気落ちする経験を何度も繰り返す地獄をもう味わいたくないからなのだ。勝手に生きた人間こそ最後に笑うのだろう。神がいなければの、話だ。しかし、結局は人間は神をこしらえないわけにはいかないから、勝手気ままに生きる事。自己の保身と利益の為に純粋に生きる事はできない。様々な衣装をこしらえてなんとか、他人の為にいきているんだと装うことをするだろう。ああ、私はなんとこんな事ばかり考えてすごす平日にどんな仕打ちが将来待ちわびているのだろう。鞭を叩いて今か今かと将来が私を出迎えてくれるのだ。出迎えてくれればまだしも胸を張ってこちらから殴り掛かってもやろうが、すべてを引きはがされて身ぐるみ脱がされた状態でシリの穴まで何か隠し持っていないのかと検査され、その門を通るときに私は思うのだ。ああ、人生について語るが地獄だったと。おわり。