アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ただきいてもらいたいだけならば其れは駅係員の場内アナウンスと同じだ。私は相手の話す為に相手に出頭してもらわなくちゃならない。出頭した先でやっと私は話の醍醐味をてにいれるのだから。

自己は否応もない想像を絵画のように固定させ何の修復も何の斜線も許さずまして消去する事など言語道断のような振る舞い方と保身に走る。其れ固めに自己がもう一つの自己とのあいだに亀裂を走らせる事になる。自己は私に依って弁護されなくちゃならない。しかし、私の弁護活動に頼りすぎる自己を私が支えきれなくなったときに、果たしてだれが私を癒す事が出来るだろうか。学問的鋭利さと論理的明晰さをうぬぼれに言える事が言いたい事だと思い込む自己欺瞞をその精神の怠惰ではなく精神の研磨だと認定する社会的評価が齎すある種の拘束をあたかも真理であるかのようにみなし擬制する態度は真理を追い求める態度としては不適切ではあるが社会生活を営み人より少しはマシな人生と人間的人格とやらを向上させるには絶好の機会である事を私はただ呆然と立ち尽くしてみるのではなく徹底的に突き刺していかなくてはならず。その突き刺す手はわななき震え心臓の鼓動は高鳴り顔は引きつり痙攣を起こす。それでも私は、かかる認識による行為を否定はしないけれども賞賛する事もしない。社会的常識を判断の一形式として受け入れるということは、自己の経験ないし感覚をすてさり社会的言説を引用して自己のあり方を肯定するやり方は私は決して許されるべき事ではないとは言わない。それが、あらゆる場面において自己の精神をこの獣のような精神を閉じ込めておく檻を自ら管理する事でもあるからだ。しかし、野獣のような放埒さと不安定さそれに自由と気まぐれ独立不覊の精神を愛して病まない私は野放しにしてただ調教するのだ。小学生中学生高校生なかには大学生も未だに折りに閉じ込めて自由な教育は施されず、ただ、国家の価値基準の内面化するために生きているのだ。国家に守られているなんて嘘に決まってるじゃないか。国家が人間を教育している現状においてただ、国家が国家だけが人間の価値基準ないし倫理の守り手として機能しているという詭弁は教育者と内閣によって弄される弁論であるし、私は詭弁とは言わない。そして、彼らは頻繁に生徒達の前に登場する機会が与えられまた社会的常識と慣習という赤子の柔らかい布のような音質ビニールハウスで寒さから守られて周囲から奇異な目で見られるという他者の地獄から隠れて弁論を展開できるという恵まれた環境甘やかされた環境自己欺瞞の環境の中にいるのだ。何故自己欺瞞かと言えば、彼らの存在根拠はただ法律であるし、法律的に立場が他の立場を命令する場にあるとしても、そのものをその立場においたのは私ではないからであるしまた私は尊敬しないからである。尊敬さえ強いられるとしたら、もはや命令するものは尊敬にまつわるストイックさと誠実さから逃れただ保身の為に詭弁をろうし、思ってもいない感覚に身をゆだね受け入れられる言葉を引用し飾り立て自己との対話を断ち切りただ沈黙のうちにただ騒がしさのノイズの中に自己の声をかき消す必要があるのだ。まことに不幸な人間なのである。まったく独立もしていなくては不自由きわまりないのであるしまた責任をとらない点でヘーゲルのいう主でもない校長先生とて中間管理職に違いないのだ。大文字の他者の言うように命令されそのように動けというのは、校長という文字のもつ機能を受け入れるという事だが、私はそれを否定する運動が人間を人間足らしめまた”人間”をやめるひとつのきっかけになるように思われる。ここであえて具体的な政党の批判はしない。あらゆる政治形態になったとしても、政治は惰性であるし官僚は国民に間接的に自己懲罰的なストイックさを発揮し国民に懺悔しまた自己の不自由を賞賛するんだから。官僚と一対一で話し手楽しいと思えるのだろうか。彼らの言説は貧しい生活への不安から着ている。そんな不安を私は見通さないわけがない。貧しい生活の幻想に振り回されまた其れを強固に信じる事で上り詰めたかのような感覚にある官僚の何処に尊敬に値する動機があるのだろうか。彼らは国の為に働くのだけれど、国とは一体なんだ。自分たちの事じゃないか。まさに、自分たちの為に働くのだから実に有言実行とはこの事だと私は彼らの誠実さにひれ伏しまた彼らの卑しい根性と卑屈な態度の発露に嫌悪を催す者である。

 かくして、物を書くとは物体と物体、制度と制度のつながりとその周辺にたむろしている人間達の関係を論じる事に始まったのであるが、果たして私の内面はいかなる情況の中にいるのだろうか。社会的参加を延期され悠久の休日の中に怠惰と自由を見出した私は一生かかって仕事をし余暇を30年後に延期される事になってしまった時代の労働者達のその運命を受け入れる事を賞賛し私は彼らのその毅然とした態度に感服するのである。またそのさっそうとした気前のいい精神は後世に受け継がれる事になるのだろう。自らの存在根拠を見失ったならばまた見つければいいだけの話なのだ。私の存在根拠は何処にあるのだろうか。24歳の私と、ただの私が交錯するこの場所で私は文章を耕作しなくちゃならないのだ。概念の突飛な組み合わせは古典的な意味合いとその習慣に服従するよう命じる沈黙の態度と冷笑が齎す第三者の目と私は戦わなくちゃ奈良に。その為には自己の存在基盤は一つであってはいけないし、またみせてはいけないのだ。自己の存在基盤にさえ縛られる事を私は好まないのだ。また、感覚的に生きなくちゃならない。現代人はあの現代ポップを愛する難聴の集まりでありまた刺激に対してより高度な刺激を求める人間達の集まりである。彼らは酒をのみドラッグをして、自らを高揚させそして自ら作り上げた同じ灰色の凡庸な世界に帰っていくのだ。彼らのその無思慮で浅はかな知恵のない態度がドラッグに依るまたは酒に依るまたは集団で盛り上がる事に依る日常性への回帰を、彼らの動機に帰らせるのである。彼らは自己の動機の中へ帰っていくのだ。悪循環という言葉が彼らにはふさわしい。それは習慣とわかち難い。ここに私は一つの事実を書き記したい。

 それは、論理的整合性の中に精神の形が宿るという事実である。論理的整合性を何処に求めるのか。それが文章であるかまたは習慣のつなぎ合わせであるのかまたは映像なのか想像なのか音楽的なコードなのか。論理の基盤はどこにあるのかと考えれば習慣になる。習慣的な文章の使われ方があらゆる修辞に富んでいる事を知らぬ者がその胃もたれのするような文章に接していい気持ちのする筈がなくその感覚はおそらくは正しいのであるし、その感覚こそ正義の基盤になるのだ。正義など戦争に用いられる大義名分であり、大義名分が戦争に必要だと思わせるのは正義である。戦争に理由など本当は後から付け加える事だって出来るけれども、理由なき戦争を行う事を国家がする筈がないと思うかもしれないが国家をつくっているのは人間であるからして、感情に流されないと言えなくもない。その感情とはあらゆる人に気分を与える感情である。例えば、激情じゃ落ち込みである。感情感覚理性。この3つは区別される者であるし、感情と感覚は別物であるというはっきりとした区別を自己のうちに見出さない限り、感覚はおとしめられ、狂い感情にかき乱され終わる事のない感情の勝利を願って理性があられもない詭弁を弄し自らをも蔑ろにされてることをいとわない感情的な理性に堕するのを助けるのが感覚である。感覚こそ至高であると私は明言する。理性ばかりではヒステリックであるし、感情だけでは躁鬱病である。感覚こそが大事なのだ。では、感覚はいったいどう形成されるのか。感覚とは何なのか。盲一つここに私は文章のリズムを失わない為にも通常為される技巧なりを書き記す。それは、文章の中の埋もれた問いと隠された前提である。しかし、両者を把握できずに文章を読めば何が問題になっているのか分からなず本の意味が分からないのだ。前提となる疑問や議論論争を本を読みながらにして把握していく事が大事なのである。加えて、思うという表現は自己の責任を放棄した言説権威への隷従その権威がただ多数決に依って支えられその多数決の責任は個人に帰する事がないという点で誰もが言葉を失う情況が、思うである。思う人間は責任をとらない。責任をとらない人間の言説文脈をわざわざきく程私は世間に疎いわけではない世間を踏まえた上で私はどう思うのかという気概を持った人間が今も昔もこれからも必要なのである。それは闘いでもあるのだ。崇めるとは、必ず権威の失墜に直面しあらぬ戦争をしかけはじめるのだ。暴力とは賞賛されるべきものであるか。たしかに、自殺を急ぐ人間を私たちは見過ごせないだろうか?私は見過ごすだろう。自殺とは究極の自由であり自殺した人間の与える教訓と呪いはまさに生きた証である。それは、私たちに何かメッセージを与えてくれているのである。受け手にとっては耳障りな事であるのは確かだ。また英雄の自殺という者があり、中には自殺する事が英雄への道だという一周にして開かれた通路の閉じる前にという理由から死ぬ者もいるだろう。それとて、ひとつの遺言である。

 私は感覚的に文章を作成している。文章は作成される者であるし究極の目的があるのだろうが、それは直に書く事は陳腐でありまた自己批判的に物を書くのならばただ自己を批判するのではなくて、自己の意見と批判の意見を織り交ぜて書かれるべきなのだ。一体全体私はどうしてこう文体を失っていたのだろうかと今になって考える。それは、一体何の生なのか。日々この文体を私は錬磨していきまた失ってしまう事に依る自己喪失から来る不安に苛まれ自殺し過去の不快感を取り除く手段はないのだと自らの一点集中してしまう意識をどう紛らわせるのか私は誰にも頼る事なく生きているわけじゃないにしても、それは金銭的である。無機的である。あらゆる判断には暴力が身を隠しているのだ。暴力とは価値基準そのものである。