ぼくがぼくであるために。

 私は学校が嫌いであるのではない、学校に巣食う人達の会話が嫌いなのであってひいては人間が嫌いなのかもしれない。おとなしい世界の中に静かな環境の中に私は身をとして静かに生きたい。喧騒の中に生きるのはまっぴらゴメンであるけれども、喧騒が求めているのは名望と名誉そして栄華である。心の静けさを悪と捉え、大音量で気を紛らわせ踊り歌う事が人生の要であるとそう捉える人達がいるのも確かな事なのだ。私という人間がどうしてこうも一人になってしまうのか。私は一人で考えて納得のいかない限りそれをエネルギーにしなくちゃいきていられない。人から言われて人から与えられた感動なるものはかりもので、すぐに私の身体から逃げ出してしまう。そんな経験または私の臆見が、私を孤立させる事にもなるのだ。しかし人間は孤立するか束縛されるかそれにどちらかしかない。他人の意見をきいていないフリをするのも一つの力であり、力は私たちを変形させる。私は対話の相手が欲しいのであるが、周りにいないから其れを彼女に認をおしつける。ああ、親父のやっている事じゃないか。ああ、こんなにも悲しい事があるだろうか。ないだろう。ああ、こんなにも人間はかわらないものなのか。かわればかわるほどかわらないというフランスの諺が私の頭の中でトリコロールの旗同様に揺らめく。揺らめいて本当の事のように感じられてくる。