アウトプット

相手の視点に立ってみよう

奇声を発するまでにおかしくなった私

 なんて大げさなことだとおもわない、当然のことだ。恋人にも会えず親元は慣れ友だちのいない東京生活、単位もろくにとれず。卒業まで何年かかるかも分からない。卒業してからもろくな生活が待っているようにはおもえない。私はもう死んでしまいたい。いい生活のうちに死んでしまいたい。もし私が死ねば、名誉の死だ。人々は私を崇めるだろう。文字通り私の名前にならって。バイトの面接もすっぽかしたし、研修もすっぽかした。幾気もない。そんなことより家で発狂している方がまだマシだった。マシかどうか、そんなこと嘘に決まっている。体力がないからなのか、目的がないからなのか私は外へ出ても何も感じないわけじゃない。ただ、よりいっそう私が壊れていくのを目の当たりにして何も養分がないことをただ嘆くしかないのだ。僕はもう人よりも目立つことも人よりもいいことがあるともおもえない。今まで苦労した人がいい生活を送れるようになればそれで十分じゃないか。僕は死にたい。私の祖父母達よりもさっさと死にたい。死んでお詫びもしたくない、一生会いたくない。死んでからも会いたくない。そんなこと嘘に決まっている。嘘ばっかり着いて結局自分の欲望にも嘘をつくようになれば、私は一体誰なのかという問いに苦悩し私がよくわからなくなり。よくわからないということは、つまり、私という人間が社会の中でどういうはたらきをするのに適するのかを分析し発見し固定する留め金をなくしたことにある。どこにも墜ちていない、もう、この世の中にはないのかもしれない。もしかしたら、はじめからあったけれどもなかったのかもしれない。僕は一体何をしているんだろう。何もしていない。楽しいこともしていない。自分で自分の生活をどうこうしようとすることもない。普通の会話から外れてしまって深淵をのぞいたのかもしれない。ぼくはあるドラマに出てくる最悪の登場人物だったのかもしれない。彼の悲しみは他人を死に追いやることそしてその他人の回りにいる人々を悲しませることが、喜びであったようだ。僕は一昔前の僕のように、ある物語のオチを私風にアレンジてそのまんま落とすことが出来なくなった。僕はもう、何も残っていない。行動がない。気を休める場所はあるけれども機会がない。私はもう、私について語ることが出来ない事実よりも。私の語る事実らしさを批判することしかできない。そうするべきでもあるのだ。それが何を生み出すのか知れないけれども。明日はどこに停まろうか、私はそうやって生きてきたのだ。とても楽しい日々だった。過去のあらゆる記憶が私に悲しみとしてよみがえる。何故楽しみは続かないのか。それは悲しみでしかない。そして、何故僕は生きられなかったのか。悲しみだ。私は悲しい。素直になればおそらくは私はもう何もしたくないし、そうやって未来の不安に打ちのめされて何も動けないでいる私がかつて誹謗中傷した人間に私自身が成り果てたのだから。あらゆる誹謗中傷なり他人を殺し根絶やしにするような観念は、結局は私に帰ってくる。だから、金銭なり言葉なりを媒介にして他者と接触する意外に他者を食い物にしてきた自己が、今度は食い物にされるとき、私は罪悪感という美名に隠れてただ不安におののいているのだ。罪悪感という美名を信じられるときはまだいい、それが何かしらの名誉であるから。不安や苛々そして無力感を備えた高貴なる悩みとしての罪悪感。そして、罪悪感という美名のもとにある、または罪悪感が引き寄せる種々の事柄。それらが、僕を痛めつけるのだ。痛めつけられた僕は罪悪感と戦うことを何故しなかったのか、今になって僕はおよそ3ヶ月前の僕に問うてみたい。自己の同一性という問題。また、他者のどれかに同一視するという問題。疑問が私には必要なのに、完全を備えているかのように統一性を目指すものに痛めつけられ。もう無理なんだ。きっと僕は無理なんだ。他者の介入なくしてまた、それによる自己の変革なくして僕は一歩も外へ出る気持ちが起こらないのだろう。他者の介入として親が私に物をいってくれればいいのに、何も言わない。彼らは最早死んだも同然なのである。悲しいことだ。他人の生活を僕は知りたくない。なぜならば、僕の生活があまりに惨めになるからだ。僕は一人っ子だ。兄弟がいる家庭にくらべればいくらお金があったって、兄弟は買えない。と考えれば、私はただ回りの家庭を羨むことを小さいことからしてきたのかもしれない。恨みもあるのかもしれない。僕はここではなるべく素直になりたい。いいとか悪いとかよりも、専門用語を駆使して自己を分析するよりも。できるだけ、自己の言葉を吐けるぶんだけ吐いてみたいのだ。僕はおそらく彼女に別れを告げられ大学生活は大失敗に終わり就職もままならず家に一人いることで自殺のことばかり考える人間になるだろう。しかし、趣味のバイクが僕を救ってくれる唯一の救済者であることもまた事実なのだ。彼を一掃充実させる為に小金を稼ぐだろう。僕は教習所であったおじさんに幸せを見出す。彼は子どもの為に趣味のバイクを諦めていたが、子どもが巣立つことで趣味に手を出すことが出来るようになったという。どんな趣味でも尊重されるべき理由は、趣味が階層をつくるという非常につまらない閉鎖的な者に成り果ててしまわぬ為なのである。閉鎖的なのは家庭だけで十分なのだ。家庭が閉鎖的でなくてはならない理由は、不倫浮気その他近親相姦が行われる事件を家庭に起こさない為には必要なのだ。あらゆる理想があるが、その理想を吟味する人は少ない。理想の吟味は得てして人を傷つける。嘘ばかり着いて苛々して自分の心の痛みに嘆く人達を傷つけるのだから、たいして痛くも痒くもないのかもしれない。理想の吟味が齎す退廃なりそれに決して忠実でない自己を当然だとおもう限り、理想の実現を賭するものは理想の糾弾者に目もくれないだろ。それが悲劇の始まりなのである。理想に圧殺されるものと、理想を蹴散らすものの争い。そんなものが戦争につながると考える単純明快で合理的なもっとも人々が信じやすい妄言。そんなものが私には耐えられない。私はもう何も耐えていない。耐えることがないこと、抑圧さえ欲しているのである。自由とは退屈のことなのかもしれない。自由とは退屈である。なぜならば、何をするにしてもルールもないとするならば、自由とは勝ち負けもなければ勝算もない。負けもない。ずるずるとのっぺらぼうな時間が過ぎていくときの拷問と言えるからだ。時は拷問にも私を更けさせていく、耽るにふさわしい仕事を見つけることが出来ればそれはすばらしいこと。しかし、私にはお金がない。嫌あるのだけれども両親や恋人が私の好きなことを禁止してくれる。ありがたいことである、私は恋人が好きだ。それは何故かと言えば、もはや自分の興味関心を追い続けることに疲れているからだ。おかしな話だ、興味関心に注ぐエネルギーがそがれることなどあり得ないと考える人達がいるからだ。彼らは社会人で徒党を組み同じように物事を考え同じように行動することで、はたからみればばからしい儀式でもそれが互いの心に摩擦を起こさないというまるで彼らが繊細であるかのような社会的儀式の欺瞞を通じて彼らは自己を帰るみることなく、ただ、彼らは儀式を崇め祭りを崇め踊りそして自らの狂気を楽しんでもいるのだ。反吐が出る。だから僕は死にたいんだ。