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信じる。

 彼女に出来ることなら何でもしよう。君達は僕を馬鹿だというだろう。僕もそう思う。そう思うことで僕は自らバカに陥っているとおもわれるだろう。これは弁明ではない、弁明というかたちをとっているという人がいるかもしれない。いるだろう。しかし、私は弁明ではない。私が今から言うことは理想だろうか、現実ではない。しかし、行為が行われるのはあなた方の呼ぶ現実の中においてであるから、私は決して理想を書くわけじゃない。信じること。これは自己を信じさせる能力を言うのか。疑うことも、人間が成熟する上で必要なまた、成熟する上で出くわす観念である。疑い深い人に、君は疑い深いといってみたところで、なにもならない。別の観念。すなわち信じることによって、疑いが晴れるのである。私は馬鹿な時間を過ごしたのか。それとも、強烈に信じる為にバカになっていたのか。それを意図的に行っていたのか、そうでないのか。しかし、意図的であるか否かは問題であろうか。ただ、私の感性並びに意志が私にどう感じられるのか、それが大事なのである。理性とはともすると感情を抑えて自由のみになる為にあるようにおもわれるが、理性はあらかじめ制限された自由のみ許している。感情の自由を許していない。かの上の奴隷にも自由はあるのだろうか?自由とは、動きであるのか。それとも、自由というリストのなかに含まれることなのであろうか。これは私の永遠の問いである。ラカンは、自由のリストがあると信じた。では、行為の自由。自堕落になる自由はあるのだろうか。それを、私は産業界の言葉で非難するつもりはない。産業界の言葉をのぞけば、自堕落もない筈だ。神々は不必要なものはつくっていないので、おそらくは自堕落も神の一部であろう。しかし、全体ではない。自堕落でありながら、それを乗りこえるまたは何らかの理由の有無に関わらず、向上心とやらをもち成功とやらを手にしたとしても、それは一部で敷かない。神は成功と失敗しかつくらなかったわけではないからだ。

 エチカを読んでから文章を書く。文章を書くことで私は何がしたいのか、ただ書くことが私の喜びなのである。それは病的であるのかもしれない。社会は受け入れ難い行為を病的と表現するから。私の文章は文字の配列で成り立つが、文字は社会でも流用される貨幣である。オリジナルの貨幣商品物であると考えるのは、芸術の俗物性から逃れていたい私の精神からは受け入れ難い事実と謝りを含んでいる。事実、言葉は情報として市場価値をみいだせるし、また、言葉は文藝というかたちで芸術的である。文藝が芸術家、それを問う者もいるだろうが、私はただ嫉妬をそこにみる。嫉妬の感情が分かるのも、私が嫉妬するからであろう。しかし、文藝にではない。嫉妬は一つの衝動となり、衝動は目的であるから、目的の形成に嫉妬が関わることは稀な話ではない。ところで、私はいったいどうしてこんなにもいい加減な生活をしているのだろう。いい加減な生活と人々に裁断されると分かっている時点で、まだ救われるけれども、よりいっそう悪い。いい加減と分かっていながら何もしないから、悪いのである。救われることに、ただ、望みをかけて何もしない他力本願が私をおそい私はひとりで生きる孤独に苛まれる。人は皆孤独であるが、それに苛まれることがない理由の一つに集団の幻想がある。集団の幻想を傷つけるものは酷い扱いを受ける。どんなに退屈なことでもそれが集団幻想の為に必要な儀式であるならば、それを踏襲しない人間は歓迎されず、投げ出される。考えれば、人間の弱さを克服する為に人々は互いに互いの弱さを背負って生きているのだろう。そんなもちつもたれつの社会を私はよいとは言わない。余計な者を持っている人達、過剰な人達の悩みを背負うことはない。基準はどこにあるんだろうか、おそらくは私の中にあるのだ。私は基準を明確にしなくちゃならない。基準は失敗からつくられるのも事実である。