信じる。彼女のなにを

 信じること。彼女が私を金づるのようにおもっているわけじゃないことを。この観念の駆逐には、彼女の優しさが必要であり、また彼女の金が必要である。しかし、彼女が金を持ち出したところで私は断るであろう。この行為は、かっこいいけれど彼女は不満であろう。独り善がりであるとも言えよう。彼女の理性を重んじるなら彼女の理性に依る自由を重んじるなら、私は受け入れるべきであろう。また、その日の到来を待ち焦がれることのないように。なぜならば、待ち焦がれるのはきまって来ないときだから。

 信じること。彼女の言葉の端々に、何か嘘を見出してしまうときにその言葉を駆逐する別の観念を私は心の中でこしらえなくちゃならず、それを信じること。信じない人は何を信じないかというと、彼自信をまず信じていないのだ。彼が自らを信じるようになり、また、自らのいたらなさの自覚は、私に社会の必要性を生じさせ依りよく生きるには社会が必要であるという事実を私に呈示するからだ。しかし、私は社会に依存する産業奴隷たるスーツをきた高慢きちの底辺サラリーマンや魚の目をしたサラリーマンのように、社会にシャブ漬けされることを望まない。あらゆる依存を私は望まない。依存という行為の原初に母の乳房や母の欲する者に擬態する同一視のはたらきをみる。これを、悪用することで女は男を尻に敷くことが出来る。男は全員マザコンである。女は母を否定するものと、男はすごいと諦める者にわかれる。男はすごいということは、母の否定であるが、母の否定か必ずしも男性の賛美につながらずに、ただ打ち拉がれるヒステリーのかたちをとるのかもしれない。人間はヒステリーか強迫神経症のどちらかの症状が言葉なり行動の動機にあらわれる。精神病者には父がいない。だから、マザコンたるすべての男と母を否定する女の方々に道が開かれている。

 といったように、感情は後にして描写を深めていかなくては私は何に着いても語ることができない。私の能力に関する記述も私の筆をおそくし謝らせる原因になることだろう。自己分析は楽しいけれども、それに囚われることは決して楽しいことではないことを私は実感している。自分を忘れて文章を書き、文章の流れに身を任せて書くことが、いかなる喜びなのか。分からない人には分からないという、境地が、区別された楽しい趣味のように誰からも侵犯されない安逸なぬくもりのなかにあることも忘れちゃ逝けない。オタクは弱いのである。彼らは暴力で勝つことが苦手であるし勇気にかけるから世界を構築しようとする。その善し悪し並びに善悪の判断は私の筆をへし折る。

 つまりは、私は書くことが目標でありそれは感性に従って書かれるべきでもあるのだ。感性は思推によって研ぎすまされる。