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文書がつまらない為には

 おそらくは真理の追究という態度は、必要だろう。しかし、数々の経験から真理を会得したとして前提をこしらえたのならば、その前提を否定してみることが必要なのである。構築から、脱構築へ。創造から、破壊へ。これが、生きる人間の定めだとするならば実に悲しいであろう。この悲しさを忘れない限り人間はまともでいられるだろう。人間であろうとする為に、創造と破壊の悲しさをしらずに、ただむなしい回帰性に涙する人間のなんと多いことか。若者の自殺はこれに根ざしている。私の言いたいことを理解したいならば、私は自分で自分と問答しなくちゃならない。おそらくは一つの行動規範よりも、行動規範と考えを伴えた者がより自由である。行動は衝動であり、考えはその衝動の吟味である。考えが衝動をますこともあれば、減らすこともある。

 文章がつまらない為には、おそらくは、日本語の追求も必要である。自分の文章を絶えず批判的に見ることも大事だが、批判的な視点というのが決してマスコミ大衆に酔って培われた視点であってはならない。ともすると現代に置いてはメディアの基準に乗っ取った自己批判批評が世評を達観している。歴史的にこの事実をどう評価するのか、といった疑問さえ私には俗世的な臭いがする。メディアも政府も徒党を組む不自由な不活発で安逸のイスに座り込む腰の重い人達を相手にしているのだ。私は付き合いたくない。

 文章を書くには、材料が必要だ。常に頭の中で文字を発露させること。疲れても、それをものともせずに頭を働かせることがとても大切なのだ。スピノザは大事なことを何度でもいうすばらしい人である。人間を知っている人の書いた本だ、つまり、人は忘れるということだ。忘れるとは悲しいことだし慰めにもなる。私の愛を忘れてほしくないし、私は拘束し悩ます思い出は忘れてしまいたい。後者に分類されないように行動するのは、ひとつの束縛である。したがって、互いの自由を認め合うことが愛への一歩だ。もちろん、それはあるべき姿であるから人間の感情を超越している。納得のいかないこともあるはずである。素直じゃないときもあろう。しかし、感情の泥沼からは永遠に自由である。