文脈から自由になる為には世間に迎合する自分を演じることへ暴力という名の終止符を打たなくちゃならない

抽象論

 一般的な書き方は世間を相手にしているだけで世間のフィールドからは慣れたランゲージを私は言うことが出来ない。私はある時期に言葉を失った。それは去勢不安だとなずけられてもおかしくない。本を読むことと大学の授業どちらも取れず、旅も取れず。最悪の結論となった。大学の力が強すぎ手渡しは日々自己嫌悪から人に当たりちらいた。目的もなくふらふらと感覚に身を任せることへの危険を私は速度を上げるバイクのごとくに楽しんでもいたのだ。死んでもいいとおもってる。バイクに乗ってるときに私は未来への道は今ここの瞬間にかかっており私の未来さえ今の私がバイクで死んでしまえばなくなるのだから、いい気味だとおもっている。未来に向けて努力をする人達の意味が私には分かるけれども、それは強烈なレールに敷かれた人生で寄り道は許されず道草を食ったものへの強烈な恨みつらみが社会システムで年功序列なり会社での上下関係または年齢による差別を生むのだろう。差別はただ差別する側の思想が反映された世にも気味の悪い自己の露出願望の現れ以外の何者でもない。私は決して世間に迎合しない。小林秀雄が言うように、本居宣長が知識人今のインテリを嫌い抜いた人なら、おれは世間を嫌い抜けばいいのだ。もうおれは世間のつまらない因習と自分の感情を重ねる努力を放棄する遺骸に私が自由に世間で生きる道はないのだ。世間はともすると世間に迎合している人間を見下す傾向にあるから。私程世間に通じておりその被害を食らってるバカもいないだろう。俺は馬鹿だから死んだって何にも残りはしないだろうけども、こういう視点で書くと私が考えていることに私の願望があり、願望が私をそこから引きはがす為にあらゆる努力をしているのだと考えるだけで私はもう十分なのかもしれない。