君は僕をほんとうにうけとめられるというのか

 できるわけがないじゃないか。僕をうけとめるなんて、僕自身手に余る。この世は地獄である。なぜなら、理由など必要がないからだ。理由など合ったところで気休めになるほど私はもう自分の言葉も他人の言葉も何もかも信じられない、ただ暴力のかたちをした言葉と闘って僕は死ぬんだという気持ちになってもいるんだ。僕に必要なのは愛であるけれども、愛という言葉ではなくて愛という行為である。言葉の重みの問題ではない、言葉に重みなんて必要ない。

 ああ、言いたいことがいえないのはなぜなのだろう。誰におもねっているというのか。言葉の世界の礼儀をわきまえようとすれば、それだけのことだ。何も真実などみえない。真実らしい者がみえるだけだ。そんな者は必要ない。ただ、お互いに探究していくことに意味があるのだ。そこに意味があるのだ。遠距離も何も関係ない。その心意気方向性という馬鹿げた進路の話をすることになれば、ふたりは意気投合してすばらしい家庭をもちそして死ぬのだ。

 それが人生だと、幸せであると思えるのは、それが私には手に届かないように思えるし、私の孤独を癒す者であると考えるとてつもない誤解から来るのだ。事実、結婚すれば社会的価値観を嫌でも強制されそれに従わなければ殺されはしないけれども、自殺はしたくなるだろう。女という甘美なる存在もやがては朽ち果ててもいくものである。いつまでも余念ない化粧にうつつを抜かすほどつまらない人生もないけれども、そうやって過去の栄光過去の美を追い求めて女性は今ここにある人生をみないですむというものだ。まことに都合のいい話である。私の言いたいことなど何一つない。議論することしか出来ない。私の臆見をぶち壊してそれでいて何処かで信じてもいるものだ。そういう者だ。相手に媚びるなんてかたちだけでも私はしたくはないのだ。そんな事をしたとして、打算的に生きているように思われて僕にはどうしても出来ないのだ。僕という言葉程この場にふさわしくない一人称もないだろう。僕と言ってすこし女性的に魅せたり中世的に魅せたところで、貴様の魂胆は分かっている。ママの声がするよ。

 ああ、気持ち悪い。僕は破壊しているわけじゃない。僕の書いていることがことごとく破壊の形式をとっているにすぎないのだ。陰湿なこの国で、破壊の力なくしてどうやって夏炉冬扇のごとく粋に風流にいきていけるだろうか。つまらない形式的な言葉と儀式に窒息しそうである。