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殺すぞ

 殺すぞという言葉を真に受ける人間がいたとしたら病気である。なぜならば、人間はそう簡単に人を殺すことはないということを信じていないから病気である。病気であるから治せばいいじゃないかと人は言う。病気は治そうと思えば、さらにまた新たな病気を発症するに決まっている。殺すぞと言われて真に受ける人間が、その症状を改善したと判断するにはその患者が挨拶代わりに友だちに殺すぞと大学の授業中に言うことが必要なのだ。

 僕は嫌いなところがあると直にそこでの生活をすべてなげうってその世界の否認を行うのだ。ある筈のない世界を僕はみてしまったその恐怖は、子どもたちがお化け屋敷で泣いてもらして出口からげっそりした青い顔でぶっ倒れる姿に似ているのかもしれない。

 人間と付き合うことは簡単ではない。付き合うということは言葉をかわすということであるけれども、私の吐きたい言葉と交友関係で相手に口をつっこまれて吐かされる言葉の違いに僕は余計なお世話ばかりしてくる社会からの、私の口に手をつっこんでくるその手を切り落としてしまう気持ちを持って相手をにらみそして、相手を刺し殺すのである。眼差しは遠くを見て、相手を殺すのである。言語をもたなくなった人間は殺されたも変わらない。私は言葉でもって相手と共に切り刻み合うのだ。こちらも、刺し殺されて、そうしてめでたく私たちは消え行く言葉とともに魂も消えるのである。

 私は別に変な人間じゃない。ただ、君達が変だというその基準が僕の一番嫌いな基準でそれと闘いもせず服従し手分けも分からず踊っている人間をみるとぶっ殺したくもなるのだ。貴様のような人間がここで楽しく踊る視覚など本来はないのに、遊んでいるということが私には気に入らないのである。だから、殺すのだ。殺したとしても遊びだから罪に問われたとしても、裁判官も検察官もみんな殺されるのだから、罪に問われることはない。神をのぞいて。

 

 どうやら「殺す」という言葉をつかいすぎた。読んだ人間の気持ちを察するにあまりある。私の目指すところは、おかしいだとかふつうじゃないだとかそういうことではないのだ。私の言語活動が私とともに成長しまた雄弁に私自身を語ることを夢見ているのである。それは、私の望んだ生活を愛の獲得の為にすべての活力と生命力を言葉に込めた人間の憐れな末路だと考えてみればいいのである。