アウトプット

相手の視点に立ってみよう

つってんころりんこ

 ところがってみたところで、私をとめてくらる人もものもないので、ただひたすらに流れもないままに滞留しながらも私は人々が変わることで私自身も変わっているかのように、ころがりながらどちらが動いてるのか、私なのか相手の方なのかわからないままに、ころがっているんだ。 
 今しか書けない文章があるだろうから書いてみたいと思う。書いたところで何の役にも立たないのは確かなことだ。金にもならなければ私の気持ちがなだめられることもない。おそらく人の気持ちは社会に受け入れられる形をしていることを自らが確認してはじめて癒されるものなのだろう。癒しを求めることは、自分と似た人を探す営みだとすれば、自分がこの世にあふれていれば楽であるけれども、うんざりもするだろう。恐らくは、大家族で育った人たちの近親憎悪の感情が外向的な友人関係を育む動機になるのではないかと思いもすることもあれば、そうではなくて、大家族ゆえに外の世界での人間関係で傷ついても変えることのできる安全地帯があり、その地帯に安心を覚えるのもやはり自分と似た人たちだからというわけであるので、大家族はどう転がっても、他に人のところへ行きたがるものなのだろう。人は面白いとは私は思わない。しかし、現代において人は面白いということになっている。人間関係なんて面倒くさいだけであるがそれをたのしめる人は強い人だということだ。しかし、競争だと考えれば人間社会に浸ってばかりいると勝ちはするけれども、その勝ち方はあるパターンであって、自分の感覚と合わないことを繰り返すうちに不満がたまり勝つことなどどうでもよくなるのだろう。勝ったとして、それは勝たせてもらったと思うほどに人のいい人はあまり見かけしないし、神を背後に抱えてもいないかぎり、勝てば自分の能力のためだと考えるのが自然だと思われる。しかし、まったく自然ではないのだ。納涼の良し悪しなどではなく、本当に勝たせてもらったのだというのが私はどちらかといえば納得がいく。まず、相手が能力が低かったことは必然では無かったのだから。勝つということ。私は負けも勝ちもそう変わらないと思う。どこに基準を置くのか分からないから、又自由だから、いま、世界は政府を必要と欲している。基準が欲しくてたまらないのだ。そして、充足したいのである。家が欲しいのである。基準という名の家の元に幸せという枠を作り上げ文字通りにいきたいのである。それは、枠こそ全てであり、内容は後から付いてくるものなのだ。とかくこのようなことを考えていると、わたしは死にたくもなるのだ。その枠からはみ出ているわたし、そして、その枠を根っから嫌うわたしにとって、またそのような教育を施されたことへの怒りもないことはないが、血まみれになりながらも枠の中で幸福だと叫ぶ人たちの、どうしようもない奇妙さを地で生きることはわたしは避けたいとおもわずにはいられないのだ。