つんつん

書くと疲れる。思ってもいないことを書こうと必死になっている。思っていることなど何もないと言わんばかりに、何か書かないと何も私が考えてなんかいないことがばれてしまう。考えていることが、表現できないから何も書かないのではいけないのだ。もがき苦しみながら表現していき、考えのほうを表現に合わせていくのか、それとも、納得のいく表現をみつけにいくのかという二つの道がある。どちらの道にすすむか?
そんなことはどうでもいい。わたしの質問と回答というやりとりの性質をみているとどこか前のめりである。実行などするつもりもないモラルや啓蒙を書いている。自分ではなくて、人が実践すればいいのにとも思っている。そして、わたしは実践はせずむしろ命令だけしていればいいと言うのなら楽である。
わたしの身に起こっていることは、他人からしたらどうでもいいことらしいとわたしは思いたい。そうでなくて、どうやってこの苦しさから抜け出すことができようか。わたしはそこまでむりして生きようとも思わない。その理由をみつけても、わたしは後悔はしない。どうでもいい。いい加減死んだらいいのにと思わずにおられない。
わたしをここまで追いやることが、誰の責任でもないということを明確に信じたい。誰の責任でもない、ただ、そうあるだけなのだ。犯人をみつけても、しょうがない。その疑惑をわたしは言語化して相手を攻めてばかりいた。そして、わたしが大いに攻められることで休止符を打つことになりそうである。
わたしの活動を妨げるあらゆる思念こそわたしが人々を抑圧してきた出来事の裏返しなのである。わたしは他者を通して自己を抑圧したのである。他社からの抑圧は、流れてくるそうめんのように、そのそうめんを上から流したのはわたしなのかもしれない。
わたしの抽象的思弁は統一性をもつことをひどく嫌うこともよくわかった。飽きるからであろう。その日暮らしという、生活する上で最高のスリルさえ貪りたいと考えているのだろう。もちたくない欲望をもたされ、それにひきづられるのはいかがな気持ちであろうか。
語らぬことで語り、語ることで語らない。僕は途方にくれる。道もわかる。どのように生きるべきであるのかも、わかる。わかったところでなんともならない。わかると言って、行動をしないでいる。あゝ。もう、起きなくていいのに。起きたところでわたしはなにもみつけない。幸福になりたければ、他人と比べないことだし、不幸になりたければ他人と比べることだが、幸福であると実感するためには、他人と比べることをやめなくてはならない。しかし、他人の不幸の上に、わたしの幸福が成り立つのは確かなようである。わたしはまわりの人間の評価なしには、わたしとさえ、言えないのだ。わたしはほかの人と共感しないことだし、共同体から疎外されていることを私というのだ。私とは、共同帯からしてみれば、死んでも構わない、羅生門のばあさんなのだ。生きるとは、つまりは、共同帯のなかでしか実現できないことなので、わたしはその共同帯を憎む理由として、この重苦しい身体から抜け出し、感覚からくる付き合いをやめたいと申し入れしているのだ。死へのパスを手にした重症患者が、それでも生きたいというのは、共同帯へのやさしさなのである。それを、共同帯は生こそ至高であると、重症患者の思いやりさえダシに使う。顔の美醜を越えた醜さをみないわけにはいかない。
ある、ということをないという弁論に持っていきたい。何もないことほど清々とすることはない。何もなくて十分だ。身ひとつで。それを具体化すれば酷い有様であろうか?もし、美しい筋肉質の裸体だとしたら。彫刻家のモデルになれるであろう。