アウトプット

相手の視点に立ってみよう

未来

 未来は私に微笑みかけてくれることはない。私は未来を笑わせなくちゃならない。どこまで私は意識的に人の欲望に頼ることなくその光速から逃れ無気力になるのだろう。私の体力のあることを私は誇りにしなくちゃならない。誇りにはしていたけれども、私はどうも限界も感じはじめている。この限界を突抜て私は死んでしまうのかもしれない。しかし、それもまたすばらしいのである。僕は死ぬ時人間はモルヒネのようなものが脳内に分泌されて気持ちよく死ねると確信しているところがある。実際のところは死んだ人にきいてみなくちゃならないから分からないのだ。死んだ人に「気持ちよかったですか」ときいてみたところで、何も返事がないのだ。なぜならば、死んでいるのだから。

 私は考える、どうしようもなく考えてどうしようもないことになるのだろうと直覚する。その時私は考えることで自分のどうしようもなさを受け入れてくれる人を無意識のうちに、それは、私の堕落しきった魂がもてあます厚顔無恥を指摘してくれる人を待っているのだ。それは、犯罪人が犯罪をおかすどうしようもない理由からにほかならないのかもしれない。熱中できる者がない限りいくら考えてみたところで、発見するのは、私はこの出来事に興味がないということだ。考えるということの結果を私は常に考えているというのが不思議な話だ。どういう結論に導かれるのか、そして、そもそも結論などあるのかということを考えないわけにはいかない。今までの人間は考えることで物事の深さを味わった者であるが、今の人間は物事を消費するだけで味わっていないのだ。ぼくは物事を味わいたいのに、料理が次々に出てくる。それも昇華不良にならないような味の薄い食べやすくてそれで量も少ない料理が大量に運ばれてくる。それは、早く食べることに意味があるのであって、じっくり味わって己の想像力の喜びにひたらせることのない料理である。ただ、おいしいものがそこにあるだけなのだ。私は本当にまずい食べ物がわからない。なぜならば、どれも均質でそこそこにおいしいからである。それを幸せだというのならまちがっている。幸せである人間は、すべからく不幸である。幸せを追い求める人間こそが仕合せなのである。走るのをやめてしまえば、人間はただ堕落するしかないのだ。だからといって鞭を打って働くことはない。私の経験は私のものだという確信もある。流行に流されてわけも分からず皇居を走っている人間が私は大嫌いだし心の底から付き合いたくないと思う。あっちもそう思っているだろう。それが気に食わない。私は何を言っているのだろう。ついに気が狂ったか。気が狂った方がまだマシである。私の八月の狂奔は美しいところがあった。世界が繁茂していた。私は夏の暑さに焦がれて魂と大いに戯れた。情熱的な夏であった。

 夏を思い返すことが私の何になる。私自身の自覚していることをわざわざ書いたからといって何になるのかわからない。私は私を取り込む何かの影を思わずにはいられない。すべての喜びを腐った花にしてしまう。美しいこともなにもかも。自由な志向も何もかも。私はそいつを見過ごすことができない。見過ごした方が余程相手も飽きれて近寄ってこないのだろうとは思う。私は多いに付き合って多いに私は疲れ果てて、私を殺しにかかっているという自覚を私自身が持つようになった頃には、棺桶に片足踏み込んでいたのだ。バイクに乗るときだって棺桶に片足踏み込むのだけれども、もう片足をそいつに促されて棺桶にうずめようとしている。私の想像はとりとめもなく、必然性からいかに逃げるかということにすべての力を注いでいる。何もかも成就しないということに何か人生の真理をみてまたその証明に躍起になっている。まわりの人間の評価程私をいじめる者はない。私を私として認識してくれる為には鏡が必要である。なぜ私は他者からの認識を必要とするのか。それは、私自身私のことについてよく知っているといううぬぼれに疲れ果てまた飽きてたいくつだからである。私の自己紹介を人にしろといわれて私は困るのである。相手をいじめることに私という者が出現するのだから。自己紹介なんて署名は名前だけ名乗っていればいいのだ。それさえ、覚えてもらおうとする気はない。ウケをねらうこともしない。私は疲れ果てたのだ。しかし、ウケを狙おうとする楽しみもまたあったのを私は良く知っている。普段しないことをすることが一番楽しいのである。ああ、私はまたもや自分自身を見失った。私と話すときに私はもうこのままでは生きていけない木になるのも最もだと思った。超絶的な客観性の中に私はいるような気がしてならない。主観を極めれば客観に至るものである。案外人々が客観と語ることが主観をいじめないようにまた、保護するような言説をもっていることを私は良く知っている。

 

 あほ、だれもきさまのことなどかんがえていない。ああ、どうでもいい。おなかすいた。だれか食べさせてほしい。じぶんのおもっていることなんていわない方がいいし、いわないようにしたほうが案外自分についてよく分かるものだ。世界はなんて美しい。前の時代にくらべて実に自由になっているじゃないか。だから、楽しめばいいのだ。財政破綻はしても人間は生きている。あるぶんだけで生きていけばいいのだ。現代は余りに生活をしていなさすぎるのだ。道具に頼ることで物事の本質を見極めないですむようになっている。アメリカ人のセレブな生活を夢見てドラマにはまるような者だ。気持ち輪分かる。しかし、長続きはしないだろうと思うのである。私の文章の語尾はいつも同じで退屈だわ。明日も晴れるのかな。それならば、いっそどこかにいってしまいたい。