アウトプット

相手の視点に立ってみよう

現代日本について、私見まみれたこの国の状況が私に囁く状況についての覚書

 当たり障りのないことをいわなくちゃならない。現代は実に深みに達するにはあまりに娯楽が多すぎる。娯楽の楽しみは表面的で人を何かに駆り立てることも少ないくそういった楽しみを私は好きではない。学校の先生は本を読むべきでありゲームをするべきではないという倫理的な問題ではなく、ゲームの楽しみならば子供でもわかるのである。ところで、子供達でもできることを大人がすれば大人になった甲斐がないではないかというのが僕の私見である。現代日本は大人になることを拒否することで死にゆく老人たちを見守る体制に入っている。この時代において戦争の破壊したものを作り上げることに目的を集中させ、アノミーの収束よろしく言語活動の自由を放棄し、共に生産し、共に価値を共有せざるおえなかった老人たちの繰り言を私は聞き飽きたとここに書けば、私の未来は、おそらくはあまり明るいものにはならないのである。異常における状況が私の環境に確実にあることについて、私が付言することはなくどういった対処をするべきかについて書くことしかできないのである。このドロドロした血液が私にもたらすのはおそらく死そのものかもしれない。私はすべての情熱を否定するものである。熱いお湯に浸かっていると情熱さえわからなくなってしまいには黒焦げになってします。人の焼ける匂いがする。私はそんな気でいるのだ。

 日本語はもうあまり使われなくなるかもしれない、人口も減るし、明治維新の偉人たちが100年前に身につけようとした英語をまだ身につけないでいる私は実に危ないと思うのだ。日本語は三島由紀男の硬直した文体以降堕落しているように思われる。堕落しているという観念自体が古いというのなら、もう既に聞き飽きて見飽きたフレーズがこの世の中にはやっており、反論も何もかも議論らしきものは全て定型をもつようになったということである。議論は二人の間でなされない限り必ず、負ける種類のものである。相手に情緒かが欠けていて、言葉の上で勝ち負けを判断することは実にくだらないことであるし、想像力に欠けるものである。何か問題が起きた時に、言葉を投げかけることもできないというのならば、そんな人間は死んだも同じであることもよくわかるけれども、私は言葉を使う身として、使っている身として、何か言葉をうまく上手にいうことができれば何もかも手に入ると思い込むこと自体が私にはあまり納得がいかないのである。私の結論に対する気分を申し上げてもしょうがない。私には社会性がない文体が身についてしまったので私の言葉は誰も受け取ってはくれないのである。誰も私は評価しないということでしか私は言葉を発することができなくなってしまった。なぜなら、他者を交える限り言葉は社会的な責任を負わせられる。それは他者に対してである。それを私一人の持ち物で、あるいは私一人で責任を取るというのなら、私は死ななくちゃならないのであるから。負けないように相手を勝たせてそれに乗じるというのが、勝つための第一条件である。勝った人間は負けた人間に対して、何か思いやりがなくてはならないのである。そうでなくちゃ、相手は死ぬだろう。ところで私は買っているのか負けているのか。愚問に答えるだけの言葉にはたくさんの愚問を私は持ってきたいと思うのである。何か結論を求めることが私にはあまり気分乗らない・・・果たして私は誰と話しているのだろうか。言葉は宙に浮いてまたしも私を捉えることを放棄した。