僧侶憎けりゃ、袈裟までにくい

 僕が死ねば僕は幸せになる。僕は不幸にはなりたくないし貧乏もしたくない。いつか国家が私に征伐を加えるかもしれない。そういう被害妄想も案外につじつまが合わないわけじゃない。粉飾決算なんてもっともたるもんだろう。来年は頑張るから・・・。

 ああ、僕は自分に拘泥されて物も言えなくなっているのだろうということがわかった。私は私に見限りをつけなくちゃならない。もう親も親戚も何も頼りにはできない。頼れない方が私わりかし自由に生きていけるのだ。

 

 

 何も聴こえない、僕の耳には。気にいる物もなくなった。全てをなくして僕はいきている、たゆたっている。意義も価値もただ、不安を補うものでしかないのだから、何も価値なんぞない方がいいのだ。好き嫌いだけがそこにあるのだろう。僕の想像の及ばないところに偉人がいて私を引き上げてくれるのだろう。数々の言葉で。私の読書熱はすぐにでも点火がつく。

 

 

 ああ、なんて日だ。悩みもありきたりだ。すべてがありきたりで退屈な僕はアンニュイにものを考えて過ごすしかないのである。私は何も特別なことはしないようにしている。もう僕は何も特別なことを考えないようにしてる。すると、誰かが私に押し付けてくる。ある人間の記憶は私にはもっとも汚らわしいものである。だれも、私に話しかけてくれる人はいないものだ。ああ、悲しい。

 

 どうでもいい、駄々っ子にはなりたくない。一人で趣味を持ってそれを楽しみたいのだ。女は私は容易く殺すことができるらしい。私はなんとも寂しい気持ちになる。恋い焦がれるもののために苦しみ私は死を願う。死を願うほどの恋い焦がれるものの消失が私に死をもたらすというのなら、私が先に死んだ方が私は二重に苦しめられることはないのだろう。これが言葉遊びだと思えるかもしれない。確かにこの文体はあり気体な言葉遊びの風を装っている。問題は、この文体が身につくために私が日々何を見聞きしているのかということである。私には止めるべき習慣がたくさんある。習慣から私の文体が身についたのは確かなことのように私の経験と感覚からそう思われるからである。

 

 向上心のない僕はバカである。僕はバカである。最低の人間である。僕の弱さは僕を否定し尽くしても僕を不自由にしても、とりとめのないつまらない名誉のために僕が奔走するよう差し向けているに過ぎないと考えた時に、誰の言葉も信じられなくなってしまったのである。

 

 ああ、僕は何を信じるのだろう。私の感性を信じて仕舞えば、常に死を追い求めている人間の姿に行き着くのである。死を先延ばしにするだけの娯楽があれば私もそれに集中できるのだろうけれども、人生に無駄を求めない僕の合理的な遠回りは私に退屈をあたえるだろうと推測する。僕は死ぬだろう。いつどのように死ぬのか私にはなんとなく察しがつく。私の死に方はどれも、おそらくは、素晴らしいものなのであろう。

 

 私は寂しいに決まっているじゃないか。でも、それを表に出してもしょうがない。表に出して相手に思いを乞うことが私には面倒なのだ。趣味が悪い。だから、太宰は死んだのだ。だから、といったが、理由はない。理由はあってないようなものである。ただ、死ぬということがありきたりに太宰には思えたのだろう。水を飲むことくらいに当たり前のことだと思えたのだろう。死よりも明らかに辛い状況が生きることにはある。嫌だから何もしないという態度は生きるという態度よりも、死ぬことの方を楽に考えれば、死を厭わないということなのだから、潔いといえばその通りなのである。私がある昔の女を心の底から気持ち悪いと思うのは、彼女が悩んでいないように思えることだし、彼女に知性がないことであった。僕には知性があるかもしれないが、知恵がないと人々はいう。知恵は僕のものではなく共同体のものだ。ぼくは独自の路線を歩いて人から気を引いてもらいたいのだろう。よせばいいのに。だれもみてはくれやしない。ただ目を向けるだけれ自分は見られることの苦悩に苛まれている。だから、見返すことしかしちゃいけないんだ。自分の存在根拠などはその場の私の思考の中にあるのであって、相手の言葉の中にあるわけでは決してないのである。なぜならば、相手の言っていることを私は感じることが出来はする私がいるから人々悩むというのならば、私はいなくなってしまったほうがいいのだ。私はガン細胞なのかもしれない。そんなものになりたくはなかった。ならざるおえないわけでもなかった。ただ、誰も引き受けていないから私はなったに過ぎないのである。

 

 私はダメな人間です。約束も果たせず神社でお祈りした後も結局は私はその約束を破ってしまったのです。物事は悪い方向にばかり進むようになり、そのような目ばかりが養われていきました。世の中を見る私の目が病んでいるのです。そんな私の目を所有したいと願う人はいるのでしょうか。その人たちのためにおあつらえ向きの言葉を学んだところで私にはただ退屈が訪れ倦怠が怒りに変わり・・・私はどうも私が嫌いなようです。とうの昔にそんなことはわかっています。いえ、過去を今の私が蹂躙しているのです。破壊しているのです。その理由は私の過去を否定することで社会に役立つ人間になるためです。自らを社会化させることなしに、成長はありえないわけです。役に立つ人間になりたいのならば、私はその場所と付き合いを始めなくちゃならないわけです。私はどうしてもそれには読書を必要とすることを認めますし、ある一定の人たちの交流は避けるようにしています。興味がなくさらには、面白くもない人たちと遊んでも楽しいものではないからです。

 

 女の思っていることを私は知ることが出来ました。しかし、問題はその先にあるんです。彼女たちと生きていかなければならないこの世界において、それは水のようにこの世界をいきることであります、何も鎧を持たずに出かけることができればそれにこしたことはないじゃありませんか。何もいらないんです。それこそが楽しいのです。ねえ、そうでしょう。僕の言葉は消えて僕自身にも届かないのです。

 

 僕の心。そんなものを僕が何かのために抑圧されているとしても、私はなりたいものなどないのです。ただ、当たり前の子供のような生活をして政治的発言にうつつを抜かしたくなどないのです。あんなものは、気まぐれで言葉への信仰が失われています。論理性も美しさもありません。ただ、評判があるだけです。評判を勝ち得ても内心はどこまでも空虚です。そんなものを埋め合わせてもらおうと考えるだけ無駄なものです。無駄なものはこの世に何一つないと、言いますが、わたしはそれを信じることはできません。無駄なことはたくさんあります。ただ、それを無駄だと思わないようにするのは難しい話です。私を捨ててでも相手を持ち上げなくちゃならないとするならば、私はいったいどこに保存されるというのでしょう。彼女はあまりCDを楽しんだ風ではなかったのかもしれません。

 

 そう私たちは美しい友情を持った友達であります。ギリシャ時代には人々は同性愛を尊びました。彼女が男になれば、私たちはまたギリシャ時代の素朴な恋愛の中に素朴な生活を夢見て素朴に考えて素直になることができましょう。かっこいいだとか、そんなことは評判に過ぎないのです。評判は権威になります。権威がこの私にはあるでしょうか。権威は人々を畏怖させ行動させるものです。畏怖の元命令を無視するものには集団がこぞって批判するのです。一種の自己反省の形であります。ですから、私の否定を伴う反省は私のするべきことではないように思われます。それは権威を認めることに他ならないからです。集団で行動すれば、安心はありますが、倦怠もあります。ただ、安心を求める女性がいる限りにおいて、また、その女性を支持する男性の心がある限りにおいて、十分に権威は女性のものであります。女性の中には男性に信頼を求める人もあるでしょう。つまりは、男性に権威の存在を見出すのです。そして、私たちは守られているのだということを女性は自覚することができるのです。権威の元にいきる男性を、女性が欲しがるのも、女性の本来は自由闊達な性質を阻害するものであると思うのです。彼女を見ていて思うのですが、彼女の言葉で私が信じられないものは彼女の気持ちが本心であっても私には嘘にしかきこえないわけです。つまり、騙される人間というのはまずはじめに自分自身を騙しているのです。人を信じられない人が私です。だから、どの言葉も内容空疎です。しかし、反面間違いでもないと思うのです。人は変わります。ただ、それだけです。