お正月。

 お正月なのにワクワクしないのは私の病的将校の一つであるように思われる。普通に過ごすことなんておよそ人間には無理なことで、普通という言葉に力を感じるのはそれがあたかも普遍的であるかのように美しい恒久性を踏まえたものであるからというよりもむしろ、ムラ社会における村八分を踏まえた共同体の中で存在を許されるためには普通を知っていないクチャならないというところにある。普通は退屈で誰も見向きもしないように私は信じたいのだがけれど、人々は普通を信奉し常識という言葉と併用して服用することで共同体から疎外されることなくぬくぬくと温室育ちを経験することになる。その退屈さを絆と呼び、ぬくぬくと生きていられることは実に素晴らしいと思わざる終えない。人間のあらゆる行動精神からくる戦いへの賛美は否定され、汚くずる賢く生きることが素晴らしいことであると思われるようになるのだ。ふざけているとは思わない。神がいなくなり誰も見ていないところで不正を犯してもなんら悪くはないのだ。ただ、その際に自らが神の視点をになった時に自らを懲罰する行為を行うこともありうることを想定してのことなのかわからない。ただ、痛みを経験すればいいのだ。痛みばかり経験していれば、人間はおかしくなる正当な理由を見出すことができ、普通の社会から離脱することができる。と、考えれば、もっとも常識的な人間は常識から離れている人間だということになりはしないかと思われる。少なくとも彼らは常識を卒業しているのだということだ。卒業はしたけれども、たまに常識を訪ねてきて外にはもっと面白い症状があることを報告し、常識を楽しく歌い上げて帰っていくのだ。歌の内容は、まったくもって常識的でもなんでもない。

 僕の言いたいことなど何一つない、ただ相手に言葉吐かせることだけができるだけであり、相手の言葉をどう受け取ったのかの反応を示すことしかない。自分に自信がないから離さないのではなくて、自信があるゆえにもしそれが否定された時に困るからだ。つまりは、もう自分自身さえ捨てなくちゃならない。その時私は人を愛するという時に、私はどこにいるんだ。そういう気持ちになる。この気持ちは実に気持ちが悪い。そう言ってしまえば、考えなくて済むのだから一番楽だ。何が悪いって、僕が悪いのか、それともむやみやたらにつながりを求めてしまうことが悪いことなのか、私にはわからない。子供が欲しいだなんて、おそらくは嘘だろう。嘘だと僕信じてしまいたいのだろうけれども、その時に視線の問題が生じる。私に自信があるか、そんなものないか。知らない。僕は知らない。