あらゆることが僕を責めているように感じられるけれども、僕はそれをかわしていこうと考えている、すくなくとも

 少なくともそうすることで私は多少なりともまともに生きていられる気がするのである、人間の精神の深淵に共通項がないことが私には残念でならないというのは、絆も成り立たないということに他ならず、彼女が絆という言葉で言い表している事柄に私はあまり感心しないというのも、私は私の弁護者として感心しないのであるが、私自身、それは弁護者としての私を取り除いた時に、全くそう言った事態は避けがたいのであるし、実現することができない欺瞞に満ちた社会的制裁を一身に受けるための嘘でしかないのだが、私は一人の愛人となって彼女を愛し続けるであろう。それが私のためになることであるかどうかを打算的な考慮に入れること自体が一つの愛情の欠如であるし、すでに私は一つの財布でしかなくなってしまうのだ。私は自分自身の立場のもろさを気にしているが、立場をけんこに守ろうとする人たちもまたもろさを感じているということに一種の共犯者的気持ちがあるのだ。強者も弱者も似たり寄ったりだと考えることで、弱者は一層に弱者の地位に甘んじているだろうし、強者もまたその地位に甘んじているだろうと思われるのである。思われる、とかくことで私が決して断定的な物言いをする人ではなく、そうでない可能性があったとしても意地を張って自己の主張を貫き通すようなことはしないという先生でもあるのだけれども、私自身は、結局はどうでもいい事柄に関して、と思うという言葉を使っているのだ。私の妄想な利権こな直観的事実が訴えるところによると、人生ということについて考える時に私の経験の豊かさよりもいつ何時でもその場所に居られるしそれを楽しむことができることが人生の豊かさであると思われるのだ。ある職業についていなくちゃ人生の充実を計れないというのは、貧しさの中で見つけた幸せのような雰囲気を醸し出していると私が直観するのもあながち間違ってもいないような気がするのだけれども、ここでは正解だとか間違っているということは一切問題にならない。ただ、相手に言葉を吐かせるということが一番大事たということを知るべきであるし、何か正しい意見なりを求める人が私は大の苦手で正義なんて言葉を聞くと病人の戯言のように聞こえてしょうがないのだ。また、あれがいいだとかこれがいいだとかいってくる友人も私からしてみれば、そんなものは自分で見つけてくるものだから余計なお世話ということである。私は余計なお節介をする友人に囲まれてきたし、そういう仕方のコミュニケーションでしか育つことができなかった種類の人間たちが大勢いる病的世界にいるという確信が今私を襲っている、襲われる私はそれをその通りだと受け止めて、この病的世界で病人のように退屈なゲームに時間を費やし、自己との対話という崇高な時間を壊すある種の逃避でしかない行動も共同参加者で実行すれば文化祭のように、一種のお祭りのような雰囲気の中で生きていける。今の大人は自分勝手であるし、足をすくわれないように合理の衣をまとっている。こういう時に、正義は役に立つ。合理もまた醜いあり方であるのだから、正義も合理も似たり寄ったりである。どれも、とりあえず結果が良ければいいのだし自分が良ければいいのである。そういう人間を批判することに億劫であるからまた批判されるのが怖いから私は物を言わないでいるとするのならば、私は今すぐに腹を切って死んだほうがいい。そんな私は長生きする気もないし安定した職業に就く気もないのである。楽しい人生なんてものを考えること自体一つの不幸であるし、また、楽しくない人生だからこそ楽しくしなくちゃいけないという、あまりにもっともなことを言われると興ざめしてしまうのだ。うるさいから、黙って自分が楽しめることを精一杯楽しんで欲しいものだ。それこそが節度ある教育である。何かを進める教育すべて強制労働と同じ観念から出発している。それしか選択肢がないように見せること、また、それを重宝することを強いること。この二点において、強制労働は、確かに働かせるために鞭を用いたかもしれないが、鞭で叩けば人は働くかもしれないが、鞭で叩くことで叩くものは別の報酬を受け取っている。そこには、お金の介在はなく。瞬間に得られる快楽によるものである。僕が壊れて仕舞えばいいのだろうか。節度ある高級感に満ちたホテル、そこに泊まるためにどれだけの汚いことをやってのけてきたのか、と考える時に私はぞっとする。