今現代に起こってることは女性に対する底知れぬ不信感と女性嫌悪を労働に費やすおやじどもの策略であろう

 私は女の人が活躍する時代が女の人にとって良い時代だというのは余裕のないという意味に解する。国の制度のために多額の税金を払わなくちゃならないのを納得できる若者はいない、若者はもはやただ疲れてやる気もなく期待することを禁止されている。夢は社会に持たないように生きることが懸命になっている。実に合理的だ。しかし、社会を論じることはもう辞めることにしよう。戦争が起きた後でも苦しいながらに日本はやっていけた。老人ばかりで働く人間が減り国の税収入も減り、国力と言われる国の財布が借金漬けになっても、大丈夫ってわけだ。日本がどうなるか知ったことではない。それは投げやりな気持ちからでもあるし、どうなってもここにいなくちゃならないんだから、受け入れる用意をしなくちゃならないってことなんだから。ありのまま全てを受け入れてしまうことを私は今のうちにはできない。私はもう死にそうなのである。殺されそうな気持ちなのである。なぜそうも憎悪に満ちているのかわからない。いろいろわからない。どうして労わりあえないのかがわからない。それは私が労ってあげていないからだろうし、またいた割れたこともないからであろう。寂しい人間である。これを死ぬまで続ける退屈に耐えきれぬ人間で死んだ者がいるのだろうかと思う。おそらくいるのだろう。私のような人間は役に立つことがない。人の役に立たない。しかし、このようなことを考えすぎると、本当に死んでしまいかねない。無理にでもいいので私は私を励ましたい。励まさなくても、そういう気持ちを持ち意識するだけですこし私から距離を置いて物事を見ることができるように思われる。私は別にヨソヨソしいわけではない、くだらない感情を私が持っているのがいけないのだ。しかし、持ってしまうのが人間なのであるから、それを受け入れるも受け入れないも私の知ったことではない、私の関与するべきでない問題には触れないようにしたい。そうでないと、私は壊れてしまいかねない。灯台下暗しで自分が壊れて相手に依存するよう自らを仕向けることなら得意なのだろう。自分が得意なことをして安心して暮らしていける生活を手に入れればいいのだし、それまで我慢というのなら私は発狂するであろう。我慢のできる時間は限られているのであろう。私は彼女を神の視点から見て愛さなくちゃならない。神が社会の名を借りて悲しいことになってもである。自らが神の意志を聞き入れ何かしら催す事で彼女と暮らせるようになれば、素晴らしい事である。

 私の独り言も、すべての人の説教も聞き飽きた。それに順応しない自分に飽き飽きした。説教が嫌な理由は私が説教を解体してしまうという事実からであろう。説教はいつだって理不尽であるが救いがある。私は差しのべられた手を切り落としてしまう。見るに堪えない状況を作り出してしまう予感が私を説教嫌いにさせたのだ。しかし、この根拠をさらに補強するのに一体私は何を持ち出せるであろう。ある特定の遺伝子が説教嫌いを誘発する原因であるとするのに、特定の遺伝子を持った人間の傾向を統計し、さらに、その遺伝子を持たないものが説教嫌いになる事はないという事実を突き詰める事で、分かる事は特定の遺伝子が説教嫌いの原因になるという事実に過ぎない。宿命と聞かされれば、また運命と聞かされればそれは当の本人の意思によるものではないとして罪を免れる事ができように、説教嫌いも世の中に受け入れられるというのか。また、意志を持っている事が運命的でないというのまた可笑しい話である。全ては必然的であるというのは、突き詰めればそうなのである。しかし、その必然性を偶然性を装う事ができるのもまた事実である。なぜ、偶然起こった事を運命だと捉えるのか。それはより一層偶然なる出来事を偶然と捉える事からくるあまりに悲しい事実からの逃避でしかないように思われる。愛にしても、それが偶然で気まぐれであるならば打算的に相手との居心地の良さやお金の配分をしなくちゃならない、相手のわがままとこちらの要求を合わせなくちゃならない。それならば、必然性から逃れても全然平気なのだ。私に所有欲があるから、彼女を奪おうとする人に嫌悪感を催したのであるし、それが自分だと考えた時に、私は私である事を喪失してしまいそうな気持ちになった。彼女にお菓子を与えた人間は僕自身なのであり、その振る舞いを彼女は僕からだけ受け取るのが本当の愛だと僕自身が思う事で、彼女の中に愛を確認したつもりでいたかったのであるし、また、彼女の浮気性について考える事をしたくなかったから、私は彼女がむやみやたらと、決してむやみに貰い物をもらっているわけじゃないのだけれども、私が口を出すべき事じゃなかったのだ。ただ、そういう話を自慢げにされるのも嫌だったのだ。私の気まぐれなわがままだと思って聞き流してほしい。私はあなたに嫌われたくなさすぎて嫌われてしまうのだろう。そういう事ばかりしていては私の身がもたないので少しは私を気遣ってもほしいものだ、どう気遣えばいいのか私が思うに、淡々としてほしいのだけれども、興奮しているのはどちらかというと私の方なのだ。私が淡々としているから、しかし、相手の熱がわかるのであるとしたら、私は淡々としているのかもしれない。しかし、相手の熱さえ転移してくる事を避けてしまえば、それがいったい何になるのであろう。

 世の人たちが奇人にみえる。大人の顔した糞餓鬼に見えてしょうがない。似合わない服を着て闊歩している人間をみるとダサくてしょうがない。サングラスをしたミニスカートの女は最低だ。トレンチコートのサラリーマンも超絶にダサい。えりなんか立てているのを見ると吐き気さえする。上野は質素で品もある、品川には品がない。遊び場というが、遊ぶためにはヘドが出るくらいの苦労が必要だ。ホモルーデンスを書いたホイジンガの仕事は事実の究明ではない。単なる自己の書物を作り上げる苦労を糧に遊びを論じたに過ぎない。人間の精神というものを私は神の視点からとも呼ぶべき自己の犠牲をも払って尊重する事しか私にはできない。それは人を大切にするという事だ。私は彼女の中の、また女性一般の中にある差別に敏感にならざるおえない。彼女たちは差別的であるがために、平等を好む。では、男は差別しないのかと聞かれれば困る。男はただ差別にさえ気がつかないで差別をしているので、女性のように平等を歌い上げる必要性を感じられない鈍い人間なのだ。かといって、生きやすいわけでもない。女性を所有しようと懸命になり、自らを犠牲にする。生物学的な傾向から男性が自らを犠牲にしてまで子孫を残す、というのならば。この説明に対する私の答えは、嫌悪感である。これだけが科学をも凌駕する基準である。価値観の違いというのは、世界観の違いであろうか。リストがあり人間の反応がある。それからずれた人間は排斥される。私はなぜいつも悪い方向に考えて自分をその方角へ走らせたがるのかわからない。死の欲動なり失敗の楽しみを味わいたいのだろう。まずい飯でも食べてしまいたいのだろう。不幸なる人生を歩んでしまいたいという希望を持っているのだろう。いったい希望が明るい未来の生活だと考えている人間は健康である。一般に社会的に希望なる言葉はそういう語感を持って使われているのであるから。社会から外れた私のような人間が持つ語感は社会から外れたものであるがゆえに、聞くに堪えないのだ。呻き声もするだろう、聞くに堪えないのだ。私が社会から離れている事を立証せよという人間がいたとして、それさえ厳密に私の文章を書いて仕舞えば、内的直観を得られる事は決してないであろう。この時期はとても大切な時期に決まっている。30歳までに私は色々と勉強して資格を取り好きなように生きれる準備をしたい。お金はあまり入らない。自分の好きな事をできるようになりまたする時間である。これは私の病気を治すための時間ではない。病気が治ったとして私が始める生活は、病気が治らないでする生活より良いものでなくてはならないのに、決してそういう予感や期待が持てない今の自分で未来について考える事は絶望への入り口である。末期の癌患者に、あなたが生きていればこれだけの幸せな事があったと言いふらせば、その患者は自分の人生を後悔するであろう。未来への絶望を見出す時期において、未来を志向する事は人生を後悔する事と表裏一体で、自らの行いを正当化し受け入れ愛する営みではなく、自己嫌悪から発生する全否定である。全否定は私にまとわりつくあらゆる慣習であったり、私の気持ちを阻害するものへの否定であって、私が善くなろうとする意志まで否定して仕舞えば、慣習の奴隷になるほかはないのである。もっとも、慣習の奴隷ほど安全の保証されている身分もないのだ。自由であるという事、つまり、慣習から外れている事は慣習に慣れ親しんだものからみれば自由にも見えるし重荷でもある。私はどこの立場にいるのかしれない。慣習とも対話し、それから離れた場所からとも対話している。私は場所と対話しているのかもしれない。

 欲望の理論について書きたい。書く事で欲望について意識を鮮明にしたい気持ちが強い。欲望は私の内部から発生しているように見えて、実は私の内部が外部に存在している事から欲望は外在しているのである。人の欲望に社会は成り立っているのだ。家があるのは、野ざらしに行きたくないからである。バイクがあるのは、過去に二輪車を作った人間がいて機械を動かす楽しみがあったからである。パソコンがあるのは、人間との交際を打ち切って文字とやりとりするためである。文字や文章でのやりとりの方が手間暇がかかっているし、文字として視覚を通して外在化される自らの考えをみることができるのだから、冷静になれるのだ。

 ところで、私は冷静なる人物が嫌いだ。自分語りをしている人間と話すのが嫌いだ。そういう人間には自分語りで返す他に会話の手段がないじゃないか。誰も自分について常に考えていたい人間なんていない。忘却こそ喜びであるのに、自己を意識させる人間は懲罰できて秩序を持ち出して自らは奥に引っ込む。それがずるいとは言わない。しかし、他人にものを言わせといて自分は何も言わないんじゃ可笑しい。また、自分語りは不可能である。私は私の事をある人間だと思い込む事で安定しようとする。私は彼女だけは批判的な目で見ない。それは偉そうな愛である。全く偉そうな愛だから私は気に入らない。かといって、彼女の言っている事を全て受け入れる事が私にできるのか、その判断もまた自分語りに他ならないのであるけれども、つまり、彼女がそう思ってくれるように私が振舞う事が大切なのである。誰にとって、大切なのかは私の知るところではない。

 淡々と1日を生きればいいのだ。作品はしばらくは作れぬ。作る気になれぬといえば納得してくれないであろう。理由を聞きたがる。理由まで揃えなくちゃならないなんて、ほとんど宗教の領域だ。相手との力関係を無しにしたい。どちらが偉くてどちらが弱くて。力関係がなくなればいいのに。そうすれば、女性は狂ってしまうのも目に見えてしまう。彼女たちの生きがいは、男に尽くす事なんだから。つくしがいのある男というのは、世の中でよいポジションに生きている人間である。私はもう全てを失った気持ちになるのであまり考えすぎないようにしたい。考えすぎたからこうなってしまったのだ。わがままも言わずに育った。欲しくないけれどもほしいという事で買ってもらったらほしいものになってしまった。私は、死にたいのだろう。もっと丁寧に私の死について語る必要がある。丁寧であればあるほどにより明確に死を描き出す事ができるとしたら、そして、その絵が頭から離れなくなってしまったらどうすればいいのだろう。後半部分は想像なのでまだ正確に死について語られていない。私は文字を使って考えるけれども、文字無しに考える事だってできないわけじゃない。ただ、恐ろしいほどに貧困なイメージしか持てないのだ。文字のほうがほんの少しだけ映像よりも良いものだ。映像の悪いところは、視覚情報だけでわかったつもりになる事であろう。そこには雰囲気もなければ何もない。本当に何もない。うるさいテレビはつけない。大嫌いだ。静かな正解を私は待ち焦がれる。静かに行きたい。

静謐の中に身を賭して。助け舟は出なかった。

遠方に見える街の明かり。照らされた私はほんの弱い光しか受け付けぬ。

私が幸せだった頃、私は社会の中にいた。

私が不幸せだった頃、私は社会の外にいた。

社会は否応無しに、私は社会に引きずり込む。

善者の顔した暴力団