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全てを言語化する営みについて

 言語化するにあたって注意する事ではないが必ず意識として登ってくる事の一つとして、言葉にひきづられるという現象が見られるのは皆さんご承知の事とお思います。概ね悪い話や悲しい話の時に笑いがこみ上げてくるような思いつきをするのはなかなか難しいものです。ですから、私は感情にとらわれる事なくいつでも冷静なままでいたいものですが、その冷静でいたいという欲求も日々の実践のうちに裏付けられる事ですので、決してそう願うだけで事足りるというわけにはいかないのであります。事私に関して言えば文字を打ってからやっと正常人のような心持ちで入られるという事もあり、言葉に引きずられる機会や足をすくわれる事はままあります。考えてみれば、言葉の安定性発話者の安定性を必要とするのは長年の慣習が理解の下地になっている事の証左でもあり、安定性とはいうなれば、長年の慣習から当然そう解釈するべきという常識でもって受けとめられる言葉を吐ける人間になる事が一番幸せであるという事なのかもしれません。形のみ存在し、形を持たぬ観念は胡散霧消させ自らの眼前から消し去る事を望むのが形を持った人間の態度として当然考えられるべき反応であります。

 私が文章を前ほど生き生きと書かなくなったのは、当然怒りや悲しみが減少してしまったからでしょう。ある人間に理解されているという思い込みが私に芽生えているからでしょう。決してそのような事がなくても幻想にひたってその幻想の敗れる日までを安泰に過ごすという技を手に入れたと言っても過言ではありません。若い時にはわかり時の楽しみがあり、老人になってからでは老人の楽しみがあるものです。私が観念を弄くり回してすぐに忘れてしまうような、文章を書くのも一つの楽しみなのでしょう。私の文章は貨幣と交換する事なしに胸に轟くはずです。ある種の人間には。つまりは、貨幣は人々に価値の一元化を強いるしまたその不可能生を隠微します。人は価値観についてしか話し合いません。どちらが良いのか、何が不満か。こいった言動はどれも面白いものではありません。告白文学が楽しくないのもその点にあるのでしょう。ある一定の価値観のために作られたゴールの見える文章は何ら面白いものを含んではいないはずです。大事なのはこの思考の枠とでもいうべき慣性と習慣から逃れる事です。逃れた先には瓦礫の山があり、瓦礫の下に一輪の黄色い花が咲いている。それを見るためだけに私は生きているのかもしれません。瓦礫だってその一輪の花を美しく見せるためには必要な存在だったのです。とすれば、その一輪の花を崇める事自体がまた瓦礫の存在も認める事になるのです。

 お金について、使い方はよく知っているけれどお金の性格を知っている人はあまりいないように思われます。あまりいないように思われますという書き方は、どこか独りよがりです。実証的に文章を連ねるとするならば遅れをとりますし、かといって、実証なしに文章を書けば独りよがりになります。しかし、本来人間の認識は独りよがりなものです。一つの言葉をイメージして思い浮かぶ映像は千差万別です。人が言葉を必要として今日も使っているという事が、果たしてそれが便利だからではありましょうが、その便利さの反面、言葉の持つ性質を忘れがちです。こういった注意は誰にでもできるのですが、では何に注意するべきかという具体的な話は必ず避けられます。私の場合はそうです。反省の悪魔がやってきました。そろそろ今日は切り上げる事にしましょう。大事な事は苦労話をしない事であるし、そもそも苦労をしない事です。苦労を笑って話せるくらいにジョークとユーモアを兼ね備えない人間は生きていて迷惑です。私は直接的な迷惑よりも、そう言った迷惑の方を害悪に考えます。冗談一つ言えないようじゃ、赤子です。それでも受け入れてもらっているという認識は当人にはない。

 悪口はよしましょうキリがありません。それに、悪口は誰にでも持っているものです。誰でも話せる事を私がわざわざ話す気にはなれません。誰かに話させてその話に共感し聞き流した方が楽です。