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だからんあだといいたい

  全てを否定する精神を持ち合わせているようで決してそうではない。抽象的思弁でも弱いものになっている自分自身について何を思えばいいのだろう。私は私が嫌いだ。私の脳みそのせいにすれば簡単だ。私がうまくいかないのも運命と脳みそのせいなのだから、私は何も悪くない。ところで、私はどこに宿るのか。私という時は、何を指すのだろうか。私は貧弱である。私は私しかいないのだから。あらゆる仮面を身につけようと人々は必死である。必死と言ってはおかしい、語弊がある。仮面を身につける楽しみを持ち合わせていると言えばいいのだろう。死にたいのは誰だ。私に違いない。どんな正義も妥当な理論も、そんなものは役に立たない。暴力しかそこには残っていないのだ。自由とは暴力との最終戦争の後に残ったがれきで呆然と立ち尽くす事である。またその暴力的破壊行為のうちに宿る小径こそ自由のもたらすものである。

 私は見捨てられるのだろうか、私は私自身について明らかに書く事ができなくなってしまった。病的な家庭を再び歩んでいるような着がする。自分の気持ちを素直にここに表す事が億劫になりまたそのやるせない堂々巡りに飽き飽きとして退屈な人生を歩んでいるような気がして私は絶望を感じるのだ。大げさかもしれないが私の絶望はもはやなにものをも必要としない性質のものとなっているのだからしょうがない。本も何もかも、私を高揚させてきた全てのもをが私には懐かしい過去の遺物でしかなく見飽きたものでしかなくなったのである。私は殺されるくらいに処罰されたいがために犯罪を犯しもするのだろうか。断言をしないのは私が言葉に重みを置いているからであるし、また私自身そういった結果を望んでいないと少なくともそう思いたい気持ちからくるものであるように私には思われるけれども、それさえ確かな事ではない。何かを信じる時にそれ以外に目をくらますものがないという事が果たして視野が狭いといって非難に値する事さえ私には疑問である。一つの事を好きになれる人は実に少ない。視野を狭くするのは実に難しい事なのである。多くの人は行き詰まりからくる嫌悪感のようなものを、視野の狭さから感じ取ってしまうために生理的嫌悪感を感じるのであろうが、統合へと向かう精神は的な家庭である視野の狭さは、その人に喜びをもたらすに違いない。あれもこれもと追いかけていけば、おそらくはどれも手に入らなくなり、どこに目をやっても何も返事をしてくれない寂しい人間になってしまうのも確かな事である。私は勝手気ままに振舞う必要がある。そうしなければ私自身が、なんら高速的状況にないために。それがために束縛を求めるためにつまらない労役を始めそれに満足し、憧れや承継のために用意された死を甘受できないのだから。

 そういえば、僕は生きていたのだ。考えてみれば、息もしている。息はしているけれども、特に誰と話すわけでもないのだ。私の一人の時間を誰も幸福なものだと思ってくれない。他人にそう思わせようとする事自体がまた無謀であり徒労である事をなぜ私は理解しなのだろうか。不思議である。不思議を通り越して怒りさえ覚えるのである。僕がもっとしっかりしていれば、よかったのだ。後悔先に立たず。即刻私の頭はかち割れ、地面にひれ伏し、それから一歩も動かないであろう。