不満を吐きながら、なお動く。

 

つまらないことばかり言ってもしょうがないので、面白い話をしようと思う。それにしても、今の僕には振り返るだけの余裕も気力もないのだ。人間疲れて仕舞えば、大したことはできない。疲れないように生きることが大切なのだ。一体何のために大切であるのか知っているのかは別ではあるけれども。趣味のない人ほど、なんて決めつけするのもあまり好むところではない。人々は言葉を信じすぎる。それを信じても言葉はどこからともなく消えていく。私も一緒に消えてしまいたいところだ。言葉がいなくなって、私も一緒にいなくなるという経験をしたことのない人はいないと私は願いたい。なぜ願うのかというと私の推量が当たっていて欲しいと願うからである。それにしても、私自身なんと取り柄のない人間であるのかしれない。どうにもならないことばかり抱えて、それに煩悶することさえ億劫になり、果ては異国の地で頓死するのも悪くないと考えるだけが精一杯なのである。当たって砕けるよりも先に、砕け散り、当たることさえままならないのだ。それをなまくらだとか、なまけているだとか思わないで欲しい。普通の人々が気にならないことが気になり、気になることが気にならないだけなのである。そういうところにしか自分に平和なる居場所がないと考えているからなのか自分自身でも知り得ないところがある。それを分析してみることに空いているのも確かだ。この文章でさえ私には尻目釣れるで統合を失調しているところがある。学術できな見解を熟語に求めるよりも、熟語の放つ印象に左右されるのが人間であるのだから。そういう人間になりたいだとかなりたくないだとか、つまらないことを考えてみたほうが人生はうまくいくのである。しかし、退屈であることにはかわりない。なぜ退屈であるのか、私にはわからない。危険なことは楽しいのである。楽しいことばかりして生きることはできない。死んでしまうからだ。私は死の淵にいる。しかし、それは突然にやってくるのだろう。そういう確信もない。ただ、そういうことしか言えない人間なのである。自分でも自分自身に呆れている。もうつける薬もなければ連れて行く病院もないし、話を聞いてやることさえ面倒だと思うようになる。そして、もっと症状は悪くなり、あるいは快方に向かったと末期の患者に伝えるように、本当のところは知らないけれど、私は死んでいくのであろう。人生を解明するにあたってあまりにも社会制度との身に覚えのない契約を前提にし、神の恩寵なしに契約の有無を明らかにすることができないのだから、やはり人間に自由はないのだろうかと思わずにはいられない。思わずにはいられないというのも変な話だ。思いたくないのなら、思わなければいい話である。また、思いたくないのならそうでないように行動するべきであるにもかかわらず、行動をなおざりにして自ら死に赴くことに最大の自由を、これから先に起こる不幸を回避するという最大の幸福を、自らの死に帰するこの考えが、あらゆる自殺者の自殺の動機の一つであることにはかわりない。そういう断定さえ無理である。言葉の無力を思い知り、法律の防滴なる力に屈従する人間の卑屈さを見るのである。私は常に死ぬほうへと自分を預けている。長生きしようとは思わぬ。体の勝手の聞くうちにさっさと片付けたいのである。綺麗な家に住むように、綺麗に片付けられた部屋を保てるうちに死にたいのである。これこそ、もっとも世俗的な生き方である。私は誰よりも世俗的なのかもしれない。夢さえ見ることのできぬくらいに。誰よりも社交性があるのかもしれない、だから、誰とも繋がらなくても平気でいるのだろう。ツボを押さえているのだから、という言い方さえ世俗的で。