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whoever forever young

 生きる意味なんて言葉も流行らなくなってしまった今日においてトランペットの音が山に響き僕は言いたいことを言わずに生きることに決める、この決心の揺らぐことは間違いないのは知っているのに、何も定まることはないのだ。決まった人生があるのなら見てみたい。レールに敷かれた人生などない。誰のどの人生においても決められたレールなどない。僕はただ、レールを歩いているだけの話で、みんなは電車に乗っているんだ。遠くから綺麗な山々を見て花を見る。僕はうんざりするほど山と付き合い、花を愛する。大きな石が僕の足の裏を押してくる。その感触。尖った石。流れ出る汗。僕は爆発しそうだ。爆発しないためには、ぼくにくれ!くれなくちゃダメだ。そうじゃなくちゃ。僕は自爆してしまう。誰にも迷惑をかけずに、実際には迷惑をかけながらそれも無差別に爆発してしまうのだ。みんなそうだろう。なんてね。みんななんて言葉を使っちゃダメだよね。みんなって誰だよってことだろう。きみは誰を具体的にさしているんだね。きみがみんなというとき、きみが抑圧している言葉を探さなくちゃならない。そうだろう。と言ってみたところで、誰も同意してくれやなんかしない。僕は天涯孤独に生きるんだ。好きなように生きるんだ。そう宣言する所以んは、そう生きられる自信もなければ暇もないからに決まっているんだろうけれども。それをぼくはいったいくどくど書いてみたところで一銭にもならない。金にならない。金にならないことなど役に立たないと言わんばかりの社会のなってしまったのだからなんともいえない。精神的なものがすべてなおざりになってしまった。社会ってのはそういうもんだ。そうならば、ぼくは社会から去りたい。社会は金に変換して、魂を信じない。なぜならば、金ならば精神が与える充実を個人に与えるからだ。つまり、足を折ったやつに足の治療を頼むより、足の治療のうまいやつに任せたほうがいい。しかし、そいつは、つまり医者はどういった理由から治療するってんだ。他人の足なんて、そんな義理はないはずだ。伊丹への共感からか。それとも、医者としての倫理か。倫理という言葉に還元される動機の発露は金の収集でしかない教師という職業の目的とするところは全体主義でしか体制を維持できないと幻想する国家の、その幻想の執行者である。今の学校は恐ろしいことに、もはや見慣れてしまった。氾濫するマスメディアに映像。僕が言いたいのは、カメラがない貧乏人のつまらぬ時間つぶしでしか無くなってしまったマスメディアをみるのをもうやめたらどうかと思うのだ。しかし、世の中には共感を求める声もある。共感すればそれだけで、問題は根本的に解決できなくともかまわないのだ。間違ったままでいいのだ。共感ってのはそういうことだ。ところで、ぼくは問題そのものがありえないと思うのだ。問題なんて何一つもない。もし、違法建築があったとしてそれで居住者が傾いた家に住んだというのなら、それは運命である。諦めて次の動きをすればいい。引っ越すなり、損害賠償を請求したり。

 僕はひねくれてもいない。社会そのものがひねくれているのだ。すべて社会のせいにしているわけじゃない。ひねくれていることからくる損をうけるのは自分だ。ぜんぶ自分のせいにしたらどうだろう。ぼくは死にたくなるだろう。そして、死ねないので。悩むのだろう。悩みたくないのだ。社会のせいにすれば悩まずに済むとでも考えるのか。自分を責めるから社会も責めてしまうのだ。つまり、彼女は誰も責めない。だから、社会に対して不満もないのだ。そして、自分に対しても不満がないのだ。あるがままを受け入れる態度を彼女は会得している。うまくいきゃ、いい男を見つけて一生働かずに生きることができる世の中において。