アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 一体言葉が必要だろうか。昔の人の言葉が必要だろうか。そのぶん冒険は少ないのかもしれない。どっちが得なのだろうか。それも知らない。ただ見聞は深いけれども経験がないということはあるかもしれない。いやでも人と関わらなくちゃいけない不自然な世界に生きている。人工的ん産物である工業化文明に生まれたのでそれも仕方がないのだろう。ものを中心に人が集まる。ものをもとめて人が集まる。人はものに関心がない。関心があるのは評判と五感である。ソクラテスからしてみれば、節制のない世界だ。真逆の世界である。みよ、あの超えた体を。太った巨体を。痩せなくちゃならないのは、それはただ女性の流行現象とは言えない。太っているということは、この社会の汚いものをたくさん栄養分として取っているということだ。だから、それを吐き出さなくちゃいつまでも糞尿の香りのする巨体になってしまう。

 眼科へ行った、そこに小学生の子供がいた。その子は顔立ちはよかっただ、母親がの態度があまりにも下品だった。こんな子供が増えている。子供なのは母親だ。娘の話を聞かない。普段からそうなのだろう。携帯をいじっている。隣のおじいさんに話しかけられた時も、めんどくささが伝わって来る。声は明るいので老人は気づかないだろうが。普段娘の話を聞いていれば、娘もそうむやみやたらと話したがったりはしないだろうと思うのだがいかがだろうか。

 この世の中についてひとつの意見がないということはつまり、各々が完成に沿って人生を作り上げなくちゃならなくなったのだ。だから、そう巨大なものはできない。その代わり大規模な戦争は減るだろう。しかし、隣の家との戦いはあるのかもしれない。どちらにせよ、くだらない。争いなんてやめて仕舞えばいいなんて言ってみたところで、聞く耳なんて持つわけがない。本人は楽しくてやっているのだから。歪んでいる。ゆがんでいるのは僕の方かもしれない。静かなところが一番いいのだ。騒がしいところへ行くとなぜこの場所で騒がしいのかわからないのだ。そして、静かな場所でみんな静かに指定疲れるのは僕なのだ。論理的な人間なんていないんだ。そんな人間面白くもおかしくもない。富士そばのカツ丼くらいの価値しかない。要するに、大体どんな味かわかるってことだ。

 もう僕自身について語ることをしなくなってしまいそうだ。しかし、探求しなくちゃならない。それが何のためであるかというのはわからない。わかるけれども、どんな目的を設定してもそれのために回答を用意するようなもので自由な探求をそが押してしまうからだ。しかし、自由ほど脆いものはない。

 自由であることは面白くないことが多くある。劇にしても、各々が自由にすれば観客は居なくなる。自由とは、国家からの経済活動について向けられた言葉であるし、もっと言えば、規制が撤廃されるということを意味している。しかし、こんなことを言い続けなくちゃならないとのも面倒な話だ。何事も面倒がっていれば合理主義者になれるってもんだ。まずは、僕の頭が疲れているというのがあげられるのかもしれない。

 新しいバイクが買いたいのだ。そしたらしばらくは僕もしっかり生きていけると思うのだ。今確かにしっかり生きているので大して問題じゃない。嵐の前の静けさともいうべき日々を送っている。嵐の日が楽しみだ。台風は一大イベントなんだから。