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ぼやき

 授業を聞くだけの授業は楽しくはない。また、突拍子もない質問も飛び交わない授業は聞いていて楽しくはない。頭は働かないし、現実を受け入れるために私は私を殺している。殺すと復活できないようだが、しかし、そうでもないような緩慢な殺し方をしている。新しいバイクが欲しい。新しい乗り心地が欲しい。しばらくはバイクを買わないだろう。私の乗り方にあったバイクが欲しいのだ。乗りやすいバイクは別段欲しくはない。儲からなくてもいいから楽しいことがしたいものだ。お金なんてあれば使うしなければ使わない。お金で楽しいを買えることもあるが、すくなくとも、私はない。

 ICU症候群というものがあるらしい。聞いた話なのだが。一人でずっといると刺激がないので自傷行為を始めるらしい。自ら痛みを求めるのだ。安心するということは、次に待っている未来は破壊でしかない。皆貧乏であれば、希望しか蔓延しない。もし、希望に満ちているとしたらそれは、未来への期待である。そして、それは大切なことである。だから、貧乏でなくちゃならない。しかし、私はそんな生活できないであろう。ある種の金持ちのお嬢さんおぼっちゃんが鈍いのもそこにあるのかもしれない。頭を働かせて楽しむ必要がないんだな。ということで、貧しい子どもの感受性は大人になって役に立つのか。また、役に立つとしてそれがいいことか悪いことか私ははっきりさせたいのである。はっきりさせたいことはたくさんあるが、たとえば、彼女が僕と結婚したいのかとか、しかし、それは僕がリードしなくちゃならない話だ。ただ、いまは地元には戻りたくはない。美しい思い出の地のままであればいいのだ。何が言いたいのだろう。おそらく、人の言葉は適当である。そこに真実を求める態度はない。流行りの言葉を使っているだけだ。水商売はどっちであろうか。水商売と区別したがるが、サラリーマンも同じようなものだ。そこに、確固とした自己はない。相手に合わせるための話術と説得し納得してもらうための言葉がある。自己は徹底的に殺される。その殺し方を教えてくれるし、また、つまらない楽しみも教えてくれる。それくらいがこの社会で生きるに際してほどほどによい生き方なのだろう。人々の数だけ世界があるのならば。

 世界と呼ぶときお金を言うのか、人を言うのかわからない。家族だろうか。それさえ視野が狭い。言葉に論理性を求めるのは、自己が定まっていないからだ。