アウトプット

相手の視点に立ってみよう

現状

 すでに日本語には意味するものがあふれている。現状と書けば社会不安について連想することになる。純粋に私の気持ちを伝える時は私のための言語を作らなくちゃならない。しかし、それは共有を目的としていない。言語に頼るからには、言語の掟にしたがわなくちゃならない。しかし、それは多数の人の惑わしい言説に忠実になるということでもない。国語辞典なんてものを信じる人間は公務員くらいのものである。身につかない感覚で言葉を操っている。言葉に鈍感な人たち。風情もなく。人情もない。法律しか彼らの頭の中にはないのか。そんなはずはないのだろうけれどもついつい毒づいてしまう。民間だってそうだ。人間関係しかないのか。公務員よりさらに不自由な人間である。真面目な人間は実に恐ろしい。元気のない人間はなおさらだ。

 僕の現状について話したい。それは公共の言葉を使ってここに表すわけであるから一定の読者を想定しないまでも私が文章を理解しながら書くということを考えてみるという時も大切な出来事である。要するに、ある女と別れたくない一緒にいたい。添い遂げたいという気持ちができれば、もう哲学する必要がないのだ。哲学さえ、女を追い詰め逃さず虜にするためのものなのだとすれば。大衆にも権威がある。大衆的な人間はここでは何もできないので大きな場所に一致団結する。暑苦しく息の臭い隣の人間の体臭で満たされる。大衆とは、体臭の異名である。日本語は面白い。同じ音なのに意味が違うのだから。評価をすれば一旦終止符が打たれる。楽しいといえば楽しさの追求は終わってしまう。満足すれば追求は終わってしまうのだ。満足してはいけない。お腹いっぱいになってもいけない。ありすぎることは、ないことと同じくらいいけないことなのだ。それは私の家族の財産が一般家庭においての財産よりも多いところから出費もかさみ果てには一般家庭の財産よりすくなるなるということに似ているのかもしれない。

 それを僕の意見として採用し社会的制裁として財産の減額を求められるとしたら僕はそれに耐えきれるだろうか。僕は実際的なところ僕について語ることはできないという理論というよりも信念で文章を書いていくのだけれども、僕は自分で自分について書くことは不可能ではないと思うのだ。自分を理解するのに他者を必要とすることが果たしていかなる場所においての理解を目指しているのかを知りたいのである。私はあらゆる人の努力を評価しない。彼らは不慣れなことをして得意満面面になっている。自己を否定しているのだ。自己を否定することは私にはできない。自己を否定すればあやふやになってしまう。責任も取らなくていい。