good bye Friday, hello Saturday


メディア

ポイントは、博多駅事件の判例を厳格に適用すべきという裁判官の話である。裁判官が出した判例はのちの事件の判断基準を吹くものになる。僕は別に博多駅前事件について何か書きたいわけじゃないんんだ。僕は捨てられていくのだろうか。裁判官は仕事があっていいものだ。不誠実なことに向き合い続けることになんで僕が向いていることだろう。そういえば、サルトルは一人っ子らしい。一人っ子は病気だと救いの言葉を差し伸べてくれたドイツの教育者がいたが、それが真実かそうでないかは別にしておいて、一人っ子が病気であり治療が必要ということになれば、しかるべき治療穂施すべきでそのために政府が金を出すのは当然であろう。それにしても、一人っ子はいいことなんて何もないような気がする。そういう気がするだけである。

テレビ
拷問である。見たくない映像価値観音楽を朝から晩まで放映している。チャンネルを消せばいいのだけれど、静かすぎると話すことがなくなるために消すことができない。静かな時間を過ごすためにはテレビなんてものはいらないのであって、皆がバカになるようにまた逸脱しないようにテレビというのは存在しているのである。遅れた人のためにあるとして、それに付き合う気は僕にはないので今すぐテレビを捨ててしまいたい。線路に捨てて仕舞えばいい。しかし、近頃は人身事故も増えてしまっているので迷惑はかけられない。

電車
大量に人間を輸送する手段として存在している。たまにやかましい人間がいるけれども、うるさいというといったものがうるさい人間になってしまうので言えない。確かに、どうでもいいような気がする。僕は何も知らない。電車についても僕は何も知らない。どう動いているのかも、どう動いてないのかもしれない。何を書けばいいのだろうか。

本当のことはしれない
本当のことはしれない。知ることができないとしたら。本当のことは誰も知りたくない。到達するまえに、現実に戻ってしまう。現実というのは、習慣化されたことだ。旅に出なくては真実は見出せない。真実に触れすぎるとその新鮮さを失い、ヨゴシ怪我してしまう。何も知らないということがどれだけ素晴らしいことなのか知るべきであり、何も知らないというところまで言語化しなくちゃならない。そして、僕の魂の奥底に僕が追い求める何か究極のものがあるのか、それがもしなければ僕は死んでしまっても同然なような気がするのだ。

無責任な人
責任なんてとれるという顔をしている人たち。責任を取ることを金銭のやりとりだと思っている人たち。責任を取らないように動く人たち。無責任な人たちというの実に誠実で頼り甲斐がある。間違いは犯さない。他人に対しては。しかし、自分に対してはいつまでも不誠実な連中だ。信用などできない。彼らを信用するのではなく彼らの生育感興なりキャリアを信用しているにすぎないことに寂しさを僕は感じるし、そに甘んじて命令されたことばかりしてキャリアとやらを積み上げていきそれが認められたとしても、一切私は満足しない。


起きた時に忘れて、寝ているときは現実を忘れている。わずか30秒の居眠りでも夢を見る。何かを象徴している。僕は短い夢を見るようになった。とても鮮明に。何か身近なものが破れたり。何かというのはわからないのだけれども。

あの人
とてもすばらしくて僕に同期を与えてくれる。僕が存在しているのはあの人のおかげである。僕が証人者になっているつもりであっても彼女が承認者であることもある。依存とは閉じた関係である。閉じた証人の関係と呼ぶことができるのかもしれない。二人は依存している。互いに。それがいいのかどうか僕にはわからないし答えはきっと出ないのだろうし、この手の質問に答えようとする努力はすべて虚しい何処かで聞いたことのある言葉や文句を借りてきて答えるしかないというのだから相当に私にとって苦痛である。というのも、他人に従うことが私にとっての恥であるからである。私は他人の真似もしたくなければ、他人を認めたくもないのである。常に私だけが認められるのであり、他の人間は私のしもべであるように動いている。そうあるべきだと思っている。

お風呂
おふろにはいるとさっぱ

新聞
メディアは物事の本質よりも、その捉え方を教えてくれる。偏向報道が常態化している。そもそも、メディアは偏向を強制するところがある。人々に解釈を強制することだけをしているわけではなく、人々の想像力を抑制しているのがメディアである。メディアによる知覚の均一化は人々に安定した現実世界の構成をもたらすきっかけとしてはあまりにその力を強力にまた偉そうに行使している。偉そうということはつまり、世の中が偉いとは言っているけれども私自身は偉いとは思わない。世の偏向を追い風にありもしないことを吹聴している世の中に嫌気がさすと同時に目の前の相手がそういう人間であることの自覚もなしに生きていることへの腹立たしさである。調子に乗っているとは、つまり、世からないがしろにされた、また承認の対象をどこに求めているかの違いである。宗教の違いがここに現れている。日本人は宗教を持たないというが、宗教的感覚と日常感覚を区別することに曖昧であるように思われる。ビジネスと宗教心が入り混じっている。

宗教心
宗教心とは、内心の吐露が与える自身への影響を顧みることなく、確実に存在する他者に内心をさらけ出し、他者を証人の対象から除外する営みである。また、その他者は承認者としての地位を自ら降りることでも内心の吐露を引き起こさせ、宗教心を煽ることもできる。プライベートなバカンス。バカンスとは誰にも言わずに自身を捨ててどこかへ行くことだ。

この先
以上の考察はすでに人々の内心に触れている。今は刺激の時代である。心地良さやよいものを追求するのではなく、目の前にある出来事から刺激を得ることを目的とする。未来を待つよりも現在を生きることにする。未来というものをなくしたくでしょうがないのだ。未来は結局はやってこない。懲役刑。執行猶予中のみ。いつになれば釈放されるのか。牢屋の世情は空いているのに、見回りに来る刑務官の眼差しが欲しくて止まっている。またその刑務官も決められた廊下を歩クことしかできない。外へ出たとしても、すぐに萎えきってしまうであろうと思われる。しわしわの手。血管の浮き出た浅黒い手。私もいずれそうなるのだろうか。時は残酷人間に生きた証を示す。年金がもらえないから払わないのではない、いずれそういう理不尽な状況においてもしっかりとお金を払ってくれることを求めているのだ。誰が経済的観念だけで物事を判断できるだろう。経済とはつまりなんだろう。

現代
現代はどんな時代だろう。私に限って言えば言語を否定されている。実行に移したところで高が知れている。僕はおそらくは世のはじけものにされるだろう。より深く。好きなように生きることが困難であることを認識したくない労働者は今日も電車に揺られて墓標に帰っていくのである。同じ場所でしか仕事のできない不自由。好きでもない女の求める求婚に知らないふりをするマチウ。三島の耐え難い戦後は一体どんなものだったのかという問いに含まれる不思議。おそらくは言語が日常生活を規定している。言語を通してでしか現実を見ることができない人間が増えている。こういう書き方を僕は好まないが、流れを止める方が私には耐え難いのだ。吐瀉。嘔吐。つまり、言語を否定することで見えてくる世界はいかようなものなのか。言語を否定すれば現代は乗り越え難いであろう。としかされた世界においてそのものを壊すには言語が必要である。象徴するものつまりその背後にあるもの、もっと言えば、それを扱う人間が見えてくるのである。またそれを象徴しない人間の背後にあるものまた見えるのである。私のしていることはなんだろう。正当な学問でなければなんだろう。ソクラテスは学問さえも否定したかもしれない。地学においては、その成り立ちの因果関係にごまかしが垣間見られることに。おそらく法律以外の学問には甘えがある。知識を伝達すればそれで済むというのならば、授業することはないのだ。先生の感じを追求しなくてはならない。彼の象徴するものを愛さなくちゃならない。僕はそれを偽装しなくちゃならない。それはまた恋愛の相手においてであるし、およそ全ての人間においてそうである。嘘は真実であり真実は嘘であるという循環論法でどうにか生きているのが世の中だ。自分の立ち位置ばかりきにする。人は気にすることに一番とらわれてしまうのだ。囚われてしまえばそこは君のいる場所になる。およそとらわれすぎている人間がいる一方でとらわれることを欲するのが人間であるのかもしれない。こんなことはおよそ他人に行ってもわかり得るものではないのであろう。おそらくは分かり得ない。嘘でもいいから金を稼いで家に奉仕することが求められるのであろう。実践的な人間はおそらくは卑しい性を持っているのかもしれない。おしとやかな人間というのはたいてい、高貴な生まれによるところだろう。私が急ぐ人間を軽蔑するのは、位の高い人間が農民を卑下する態度に似ている。しかし、農民の働きなしに生きることはできない。卑下するものがどうしても必要なのだ。卑下し続けなくてはならない。おそらくは、自らを最も卑下しているのかもしれない。卑下しているものなしに生きられない人間を。確固としたせいがなくなって仕舞えば僕はどこに行く。どんな世の中のルールも僕を傷つけることもない。また、益することもない。生死の問題よりも、いかにすごすかのほうが私にはこたえる。いかに過ごすか。外では決して過ごさないであろう。人の言っていることに難癖をつけたいんではなく、それを言わせる背後のものに難癖をつけたいのであろう。何故そのものを支配しようとしないのか。何故克服しようとしないのか。そのひ弱な態度に我慢がならないのであろう。おそらくは私の先祖は武士か何かだ。農民ではない。商人でもない。しかし、今武士は儲かりはしない。それもそうである。武士にとっては金も要らなければ飯も要らないのだから。いるのは男気だけなのだから。私の言っていることは情けないのだろうか。男気を間接的に金として表現する商人が尊ばれる。金でやり取りされる作物を作る農民が尊ばれる。ああ、現代ほど適材適所がなされていない時期はあるまい。現代のドン・キホーテ

恐怖
私の恐怖は私自身の内部にある。腐敗していく事故にある。それを否定する気力もない風化していくがままに任せる事故に対して恐怖を持つ。それこそ風のように私はあるところからある場所へ赴き、気が変わるとまた居心地の良い場所を探してしまう。その不埒さを世が許すわけがない。また、それを良しとして逃がしてくれる人もいないのだ。だから、私はいつまでたっても何も成すべきことがないのである。ないのではなく、徹底的に世の中に疎いし嫌ってもいるし、それは軽蔑からくるものである。私は金銭なんて触れたくもないのだ。お金に関わることはしたくはない。金持ちが偉いだなんて私が思わなくても他の人間が思ってるからいいであろう。高尾山へ歩いて行くのも金持ちの事故軽蔑がなせる技だ。その点で少しはシンパシーがあるのかもしれない。おそらくは、私は人と関係すれば人を傷つけるかまたは私自身の内部のエネルギーの貯蔵が増えるだけであろう。一人になりたい人間というのは生まれ持って人のいない静かな環境を求めなくちゃならない。私は三つ子の魂百までという諺だけは信じている。多くの人は自分が三つ子の頃を知らないであろう。


今日
退屈な日々をどう過ごすのか。危険なことをするべきなんだ。そうじゃなくちゃ僕の前頭葉は動かないようになってしまった。危うく道を間違えるところだった。というのも、ぼくはすこしは感覚を取り戻したからだ。繊細な感覚を。それというのも、僕は危険なことが大好きなんだ。それでいて、体調は悪くなる。安定することができない。だから、安定させるものが必要なんだ。そうじゃなくちゃどうなるかわかったのもんじゃない。安定が破られるということがまさに危険である。たまごの殻が破れるか破れないかのところまで力を加える。破れてしまえば一瞬だ。限界は一瞬にして越えられるものだ。数値化することもできるかもしれないが、人間の感受性が数字にタッチできるとは思われない。

オバマが広島訪問
一億相場か社会ですから、オバマが来れば謝罪はしないと報道するくらいのことしかできない。もうずっと前から謝罪はしないと言っているではないか。同じ話を繰り返すような人間は安楽している。僕は自分が不幸になるためならなんだってやるだろう。僕は僕自身の人生を呪っている。実に悲しい事実だ。不幸は他社の中にあるわけではなくて僕の中にある。だからこそ他者を嫌って生きることもない。実に安泰である。自己責任とは他者嫌いにならないための方便である。事実ではない。それくらいのことは誰でもわかっている。誰もわからないことを考察してみたい。例えば人々がある共通の話題について話していることに僕は嫌気がさす。一つ一つケースは異なる。言葉で事実さえ変えることができる。その力こそ言葉の力である。僕は随分と言葉について語ってきた。小林秀雄の評論は独りよがりなところがある。それが彼のいいところなんてつまらないことは言いたくない。話がそれたので戻る。アメリカが一つの国として独立しているとしてそれを保証するのは周りの国である。アメリカは一国として成り立つのがあまり好きではない。国威を盛り上げるのは、あまりにも分散しているからだ。

情報
もっと別の情報を取り入れるべきだ。そうしなくちゃ僕は持たないであろう。最近歩みは疲れてる。運動会が間近に迫っているのだ。きっと彼女だって話したいことがあるに違いない。それなのに黙っているのは何故だろう。話すことが嫌いなはずもないだろうに。およそ僕から話を聞く態度を示さなくちゃ彼女は口を開かない。ああ、具体的なことならばこんなに書くことはたくさんあるのだ。しかし、曖昧にしておきたいこともたくさんある。おそらくは、生きて接しているうちのたいていのことは静かにそっと寝かせておきたい。それを意識すれば最後、寝かせるためにあらゆる努力をする羽目になる。その疲労は想像を超える。


ある人は僕のことをどうにも思っていない、ある人は好きである。僕はいろんな顔を持っている。だからこそ飽きることなく同じことを繰り返すことができるのである。冗談だけが救いだ。それ以外のことはおよそどうだっていいのだから。つまり、笑えるためにはふざけるためには真面目でなくちゃならないのだ。不真面目な人間は到底笑うことすらできないのだから。そのぶんねが純粋だというのもあるのかもしれない。それもまた嘘かもしれない。どちらだっていのだ。僕が健康に毎日元気に過ごせればどちらだっていいのだ。今僕はあらゆる欲望が消えていくのを目の当たりにしている。生きていくことさえも、あまり執着心はない。明日死ぬと言われたら僕は救われた気がする。同時に彼女に対して何か優しいことを言えレバいいと思うのだが。できそうにない。だから、今のところ僕は生きているしかない。

 


学ぶ
学ぶとは感じることである。計算では決してない。

ネット社会ついて
便所の落書きだと武田鉄矢は言ってのけたが、その通りだ。書かれていることは全くもって役に立たない。話題にもならない。味わうべき文章もない。やはり本は捨てられないだろう。きょうは本屋さんへ行きたいと思う。何を読もう。本当は読みたい本がたくさんあるのだが、アマゾンでは買えないのだ。中古本でもいいので買いたいのだが、近くに古本屋さんがない。

人間の成長
人は成長しない。変わるだけだ。変化を成長というだけだ。しかし、名前は変わらない。じゃ何が変わったのか。態度である。態度が変わるのだ。心構えもまた変わる。ひとつは習慣から、ひとつは老いから。あることに集中して成長して良かったというのは貧しい人間に多い。大抵好きなことではない。少しは稼げる資格を取るためだとか。そういった理由と動機からだ。そんな人間を魅力的に思う人間もまた下賤だ。人間だからしょうがない。強いものに屈託するのはしょうがない。しかし、それが金であったらなんと情けない。金などなくても生きていけりゃいい。これは矛盾だ。金がないと生きてはいけない。しかし、金なしに生きている人間は強いとも限らない。ホームレスは中学生に殴り殺されるだろう。彼らを精神障害者だと言って自分とは別のある種のカテゴライズすることで自らがそれに陥る機会をすでに奪われると信じたいために、そういってのけているだけだ。ヒューマニズムでもない、心をリアリズムに捉えればそうなるということだ。つまり、誰でも転落していけるということだ。またそれを解放と名づけてもいい。しかし、生活環境は惨めである。それを惨めと思うのは人の心だ。本人の中に他者の心、他者の声があれば自らの惨めさに気づくはずだ。ホームレス者は他者の心をとらえることをしなかった。孤高のナルシストなのだろう。私もそこに転落していくのだろうか。周りと自分を比較してして際限のない自己嫌悪に陥り線路に飛び込んで多くの欠席者、遅刻者を排出する手助けをしてしまうことになるのだろうか。それを私は水量の文末で誰に問いかけているのだろうか。僕は嫌いだ。貧しいことが嫌いだ。彼らに優しさなどない。彼らにあるのは苛立ちだけだ。金持ちはその態度が気に入らない。鈍い腐った舌でもっておいしいものを食べる。美しいものを見る。とてもひどいじゃないか。金で感性を買っているのだ。なんて情けないのだろう。では凡人はどうか。凡人が一番好きだ。しかし、僕が凡人とは距離を置いている。僕には凡人と馴れ合うだけの心はない。彼らの感性は連帯している。個人として飛び抜けることを集団で抑制している。しかし、弊害とも言えない。個人のどうしようもない状況を集団が救ってくれることもあるだろう。集団に手を借りることを嫌う個人の方が魅力的ではあるが。

これから
これから僕は授業内容を整理するためのサイトを作りたいと思う
また、趣味のバイクに関連して記事を書きたいと思う
それから、前々から思っていたのが水彩画を描きたいということだ。僕はどちらかというとあまり下世話な話は仲間内だけで済ませたいのだ。
美術に関しては絵が好きでその次に音楽が好きだ。しかし、僕はなんの楽器も弾けないために音楽において主体的に振る舞うことができない。練習をすることを考えれば今の私に練習をする機会と時間はない。まず手始めにできることから芸術に関わることを考えた時に絵を描くことが考えられた。
小説について、文章を読まなくちゃならない。というのも良い作家は文章が良い作家を言うのだ。話の内容の楽しさを言っているのではないことをもう十分に理解している。映像に関しても、私はキューブリックが好きなのは芸術的であるからだ。何か心理学的な考察を踏まえたものでもない、美を追い求める映像に私は魅了されるからだ。


私は私の中のあるものを認めたくない
認めたくないという認識があれば存在しないことになる。私は存在の煩わしさを感じる。なんと煩わしいことか。見たこともあったこともないことに気を病むことが。わたしにはこれらのことはなんら心に思い浮かばせないようになっている。宗教的価値観を共有できる相手がいない限り宗教心など持つ必要はないじゃないか。一人で遊んで何が楽しいというのだ。私には何かがいなくなってしまった。自分から追っ払ってしまったということも言えるかもしれない。私の中に他者がいなくなってしまった。いなくていいんだ。いたって、私に偽りの楽しみを与えてくれるに違いないんだから。偽りだって?それを嫌ってどうする。どうしても、ケッペキショウになってしまう。本当のことばかり追い求めてしまう。なんと愚かなことだろう。

どう見られるかが私には問題であった。
どう見られるのかが課題である。どう見られたくもないのだ。見てさえ欲しくない。主語がなくても意味わかるだろうともうからむやみやたらに守護を示さない文章を書く。大事なのは実戦である。

 

人に読まれる文章にするのがどうしても苦手だ。ときにはさらけ出しすぎるし、ときにはつまらなすぎる文章になる。文章こそ顔である。その人自身だ。そして、文章においてこそ自由でいたいのだ。批判されることを嫌う人がいるが、それはそうと、私は批判したいのだ。しかし、むやみやらにするのは考えものだ。特に健康上問題がないときは静かに黙っていなくちゃならない。なぜならば、その平安を崩すのが批判だからである。批判は人を駆り立てなくちゃならない。そうでなくちゃ批判の意味もない。吟味と探求はすでに前進している。僕が危惧するのは僕の人生だけであるとするところから私は人生をうまく社会と適合させる歯車を見失っているのだろうから良い人生を送るために必然的に必要とされている社会的な果実を私は失った状態のまま今日に至るのである。

 

パソコンとの付き合い方
ネットサーフィンにはもう飽きた。パソコンは道具である。何かを生み出さなくてはいけない。生み出すと言っても見て触ってというわけにはいかない。耳と目が主な活動場所だ。プログラミングで画面を動かしたり、頭の中のイメージを画面の中で再現することができるくらいだ。映像機器は持ち歩けるので。そういえば、男性は一回の射精で1587TBらしい。1TBが1000GBだから、1587に0を3つつければいい。1587000GBである。僕の持っているiPhoneはいつも苦しんでる。ストレージの管理画面が表示される。32GBで割ると、49593台分である。一台7万円くらいだとして。もうめんどくさいので計算しない。とにかく射精は素晴らしいのだ。奥に奥に。差し込むのである。パソコンも熱を上げて、ときにはファンまで回す。モーターが駆動する機械音がする。まるで喘ぎ声。興奮はしないけれど。パソコンの気持ちまでは僕はわかりかねる。

cb400
ぼくはバイクに乗る。一体感があるバイクが僕は好きだ。抱きかかえながら路面を塗っていく。変人だ。路面とキスしている気がする。でこぼこだったりなめらかであったり。路面状況が伝わって来る。カーブの進入速度、赤信号で減速する際のブレーキ加減。上手い乗り手はリアブレーキは使わずフロントブレーキで速度を一気に落とすらしい。三百キロから百キロ間で落とすのだ。後ろのタイヤはグリップが薄くなり滑る。motogpを見ているとカーブ手前でライダーは足を伸ばしたりして後輪が暴れるのとバランスを取っているようにも見える。確かに、後輪は荷重がかかっていない分浮いている。ssに乗りたいのだ。一度お店で借りて乗せてもらった。印象は交差点では膨らみがちであったということ。そして、視線が高いので前の交通状況が把握でき、危険予測が十分にできる。また、加速に関してはどくどくと速度が上がっていくのを感じられた。エンジンの力を感じた。またクラッチが音も静かに入力するので、振動もなく気持ちよく走れた。姿勢に関しては、確かに前傾姿勢であるが、車体に合わせて姿勢を探れば良い形に落ち着くかもしれないと思えた。なにせ10分くらい街を乗っただけなので、峠のコーナーではどういう挙動をするのかは分からないままである。当時の僕は鳥のように軽く風のように生きたかった。ssの挙動と僕の思想がきっとマッチするだろう。いつか僕は必ず思想の現実化としてssに乗らなくちゃならないと思うようになったし、ssこそ僕が求めている姿であると感じられた。今現在もssへの関心は薄れることはなく、チェックは怠らないのであるが何せ先立つものがない。またsb400も峠道では本領を発揮してくれるし街中でも乗りやすいことにはかわりない。ホンダの生産コンセプトは、ツーリングから帰ってきても奥さんの買い物に付き合うだけの体力を残してくれるバイクらしい。今日久しぶりにバイクに乗り走っていると、バイクが勢いよく抜いていった。近頃僕はアクセルを開けるのに慎重だ。エンジンをけたたましくバイクを走らせることはほめられたことではないと考えるようになった。実際は、もっと飛ばしたいのだけれども、その限界を僕は随分経験したし、もう十分だと感じているところがあるのだ。新しいバイクの世界としてssは趣が深いのである。サーキットへ行こうと誘ってくれる。ゆくゆくはつなぎを作って、ssにのり日曜日は山へ走りに、たまにサーキットを走行したいのだ。あいにく走行会が平日で、学校の試験期間の前の週なので行けそうにはないのが残念だけれど。

明日は土曜日。
もう随分と暑くなった。朝方の納涼とした寒さも昼間になれば、毎年の夏の灼熱を思い出させる日差しと気温、そして青い空に入道雲が浮かんでいる。天気のいい日は外へ行くべきだし、外へ行くにも計画なしに出かけてもいいように思うのだ。毎日が計画通りじゃ息苦しい。そっと出かけて適当に休んで。見知らぬ土地に解き放たれれば五感は研ぎ澄ませれる。吉祥寺へ遊びに行くのも手だと思うのだ。バイクでいければなおさら楽しいのだけれども。暑い日にタンデムすると暑苦しいのでやめておくのが賢明であろう。疲れることはしたくない、けれども痩せたい。そんな矛盾した考えを実現しようと必死な僕並みにもなってくれ。痩せなくていいのに、別に太っているわけじゃないんだし。それに、今よりキレイになれると信じているようだけれども、今もずっとあなたの笑顔もキレイなんだし、それよりキレイになられちゃこちらも気が休まらないので遠慮していただきたい。何を弱気になっているんだ、と自分を励ます気にもならない。それがどうしてか、いかなる理由によるものなのか。諦観である。完璧を目指せば、破壊をも同時に目指すようになってしまう。人を欺くように自らも欺かなくてはならない。自分が不幸でなくてどうして幸せを求めようとするだろう。そして、幸せは求めても手には入らないのだ。求めるものは手に入ったとしても変形し再び何かを求めるように仕向ける。良いことも悪いことも知って中庸をいく。これがいいのだ。人生にとって、体調にとって、精神にとって、何にとっていいのか分からないけれど。主観の燃焼を唱えて、自らの妄想を膨らませて実感し味わい尽くす生き方もあろう。いかなる生き方をしようにも、たいして変わらないと思うのだ。自分が変わったのか他人が変わったのか、どちらもなのだろうか。抽象的な議論は苦手である。僕の隣で彼女はパンダのぬいぐるみをズボンに入れて、パンダの頭だけを出して腹ばいにさせ自分は仰向けになって眠っている。(今の文章ももっとまとめることができよう。彼女と文章のやり取りを熱心にしていた時期は自らを正確に表現するためか、偽るためか恐らくは両方の理由から何度も打ち直して文章を調えて、送っていたものだった。書き直しているうちに、言葉が言葉を呼び長文になることも少なくなかった。文章は早く書けば良い文章が出来上がるわけでもなく、短いセンテンスで書けば人を魅了するような文章が練り上げられるわけでもない。まして、論理的な文章が良い文章であると考えるのは社会的要請から妥当であるとされる文章であり、個性は削ぎ落とされる。読んでいても面白いものではない。学者の書いた著作を読むのは試験に出るからであるし、また俗世間の人間ならば気にもしないような事を長々と本にしこたま認めているのが、おかしくて読んでいるのだ。それを真面目な顔して語るのだから笑いが止まらない。僕は将来真面目な人間ではない。強烈な皮肉やで反社会的考えの人間であるので、つまりは、社会のいいところも悪いところも余すところなくプレーンに見ようと努力するリアリリストでそれでも、幽霊の存在やファンタジーなものに惹かれるありきたりな人間であるので、学者の異常な論点への執着に変質者の西壁との相違がみられないという感覚的事実に行き着くのも当然の成り行きであるように僕には思われるのだけれども、どうであろうか。明日は土曜日。楽しもうと焦るのではなく。水と風のように体は軽く思考は軽やかに過ぎていく季節を惜しむこともなく眺め、綺麗だとも言わず、男を見てはそれを描写し、女を見ればすぐに嫌な気持ちになるところを想像で補って見るに耐えられるだけの心持ちでいたのだ。明日の夜は外食である。昼も外食したって構わない。何も考えないで感覚だけで歩いてみよう。彼女は僕に背を向けてお腹にパンダのぬいぐるみを抱いて眠っている。寝ているようで僕が起きて何をしているのか記憶しているし、かといって寝苦しい様子でもないようだ。しかし、彼女は鼾の音には敏感で彼女の父が鼻腔で奏でる騒音に彼女は実力行使で父を起こすという。もしかしたら、この僕のキーを叩く音にも敏感に反応しているかもしれない。そうだとしたら、ごめんね。明日は本屋さんへも行きたい。料理本に趣味本、そして文芸作品はブックオフで買う。ブックオフ秋葉原が良い。良い土曜日を 

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